2017年11月5日 『機会を逃してはならない』(ルカ12章49-59節) | 説教      

2017年11月5日 『機会を逃してはならない』(ルカ12章49-59節)

 4つの福音書は普通の偉人物語とは違って、主イエスの生涯を生まれた時から死ぬまでまんべんなく描くのではなく、十字架と復活が特別に強調されています。そこがキリスト教信仰の土台だからです。それで、ルカの福音書は24章までありますが、主イエスの心は9章51節からすでに十字架モードに入っていました。主イエスの活動の中心地は、イスラエルの北部のガリラヤ地方でしたが、9章51節から、主イエスと弟子たちは、十字架の処刑が行われる都エルサレムに向かって旅を始めていたのです。弟子たちや群衆は、そのようなイエスの心を理解していませんでした。だんだんエルサレムが近づいてくる中で、主イエスは、12人の弟子や、ついてくる群衆に向かって、どうしても語っておかなければならないことがあったので、それを彼らに語られました。今日のルカ福音書49節から59節には、主イエスの彼らに対する警告のことばが記されています。

(1)主イエスの心の願いと心の痛み
 主イエスは、これから自分が十字架にかかり、三日目に復活し、その後、天に帰られることを知っておられました。同時に、12人の弟子たちや、その他自分を信じてついてくる人々がこれから大きな苦しみを経験することも知っておられました。それで、主イエスは49節で「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」と言われたのです。これは何を意味するのでしょうか。ここで言われた「火には二つの意味があります。一つは「聖霊」です。主イエスが神の子としての働きを始める前に、その道を備える者として預言者バプテスマのヨハネが現れて、人々の罪の悔い改めの洗礼を授けていましたが、その時に、バプテスマのヨハネは後から来る主イエスについてこう言いました。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(ルカ3章16節)神様は、聖書の他の箇所で、聖霊はイエスを信じる者に救われているという確信と神の力を与えるものだと約束しておられます。この時、主イエスは、弟子たちが今すぐにでも聖霊を受けて、救いの確信と新しい力を感じてほしいと願っておられました。そうすれば、彼らは、将来いろいろな試練や苦しみを経験するとしても乗り越えることができるからです。
 しかし、火にはもう一つの意味があります。ルカ福音書の3章17節を読みましょう。「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」主イエスは、クリスチャンたちを励ましたいという思いと同時に、この世にはやく神のさばきをもたらしたいと願っておられました。主イエスは、主の時が来ると、羊飼いがヤギと羊を分けるように、クリスチャンとノンクリスチャンを分けると預言しておられます。主イエスの裁きの時は、信じない人にとっては恐ろしい出来事ですが、クリスチャンにとっては、永遠の命に入れられる喜びの時だからです。当時の人々の偽善や悪のすがたを見て、主イエスはひどく心を痛め、自分の民を不正や悪がはびこるこの世にいつまでも生かしておくことに胸を痛められたのだと思います。これが主イエスの心の願いでした。
 一方、主イエスにはこれから十字架という大きな試練が待ち受けていました。すべてのことが起こる前に、自分が十字架にかからなければならないことをよく知っておられました。それで、ただ、主イエスは50節で「 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」と言われたのです。ただ、主イエスが考えておられた苦しみは、十字架にかかるまでの人々のののしりやひどい仕打ち、あるいは十字架で受ける肉体的拷問を言っておられるのではありません。神である主イエスにとって一番の苦悩は、自分が一番嫌っている罪の汚れをすべて自分自身がかぶらなければならないことでした。優子先生は青虫の類いが大嫌いです。もし、キャベツの中に小さな一匹でも発見するならば、我が家に「きゃー」という大音声が響き渡ります。それほど嫌いなのです。神様は「ぎゃー」と騒ぐことはないでしょうが、罪のない、罪を最も嫌う主イエスにとって、私たちの罪をすべて自分の身に引き受けるというのは、私たちの理解できないほど大きな苦しみなのです。ですから、主イエスは、間もなくして、十字架にかかるためにエルサレムに入られますが、その時、大勢の群衆が主イエスを大喜びで迎えましたが、主イエスご自身は「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」と告白しておられます。(ヨハネ12章27節)また、弟子たちとの最後の食事を終えて、ゲッセマネと呼ばれたオリーブ畑で、十字架の前の最後の祈りを捧げられた時も、「 父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と告白した後、主イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られました。ルカの福音書には、その時イエスの汗が血のしずくのように地に落ちたと記されています。主イエスが十字架の上で「完了した」と叫ばれるまで、ずーっと主イエスは、人の罪を自分の身に背負うという苦しみを極限まで体験されたのです。それは何のためだったのでしょうか。私たちが、自分の罪を認め、イエスの十字架の苦しみは自分のせいであったことを認めて、主イエスを救い主として信じて、罪が赦され、滅びることなく永遠のいのちを持つ事を願われたからなのです。主イエスは、ルカの福音書の12章で、すでに十字架に向かって一直線に進んでおられました。

(2)弟子たちに対する警告(51-53節)
 主イエスの誕生を預言したイザヤは、「来るべき救い主は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれると預言しました。」しかし、ここで、イエスは弟子たちに驚くべきことを言われました。51節を読みましょう。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」主イエスは聖書が預言しているように平和の君です。パウロは、ローマ人への手紙の中で「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(5章1節)と述べているように、主イエスを信じるすべての人に、主イエスは神との平和な関係を与えてくださいますが、私たちが自分が主イエスを救い主だと信じてクリスチャンになったと家族や友達に言うと、私たちの家族との関係や友達との関係に分裂が起きることがあるのです。キリスト教が生まれて最初の300年間、クリスチャンは激しい迫害を受け、牢屋に入れられたり殺されたりしましたが、ローマ帝国はクリスチャンを抹殺することはできませんでいした。20世紀、21世紀においても、共産圏の国々やイスラム圏の国々では、キリストを信じる信仰を持つと殺されたり、投獄されたりしてきました。キリスト教国と思われているアメリカでも、マスメディアは、イエスとキリストという2つの言葉を一緒に並べることを控えています。特定の宗教を支持することになるからという理由のようです。日本では、クリスマスが近づくとクリスマスセールがあちこちで行われますが、アメリカでは「クリスマス」は特定の宗教の祭りだと言う理由で「クリスマスセール」という言葉はつかえません。「ホワイトセール」などと呼んでいるようです。主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われましたが、この世の人々は、キリスト教の教えはあまりにも排他的であって、寛容の精神がないと批判します。しかし、そのようにキリスト教を批判する人々は、キリスト教に対しては攻撃的です。キリスト教の教えには非寛容なのです。真理は一つだからこそ、この世界はいつも秩序正しく動いているのです。主イエスは、何を信じるのかは大切なことではない、信ずる心が大切だと教えるためにこの世に来られたのではありません。むしろ、イエスだけを救い主と信じて、イエスだけに従って生きることを要求されます。イエスに従う道は、どれでもよい道の一つではなく、それしかないただ一つの道です。だからこそ、私たちはこの世と調子を合わせて生きるのではなく、困難が伴っても、イエスだけに従わなければならないのです。もちろん、私たちは自分の家族や友達を愛するように教えられています。私たちは、決してパリサイ人のように、他人を批判したり傲慢になったりしてはいけません。 それでもクリスチャンであることで人々から批判されたり憎まれたりすることはありうることです。だから、主イエスは私たちに「蛇のように賢く、鳩のようにすなおでありなさい。」と言われたのです。私たちは、このような困難な状況に直面した場合、自分を守るために、信仰をごまかしたり、クリスチャンであることを隠したりしないで、いつも主に従う者でなければなりません。

(3)時を見逃してはならない(54-59節)
 54節から、主イエスは、自分について来る群衆に向かって、警告の言葉を言われました。主イエスは、彼らが、霊的なことに対して蛇のような賢さを持っていないことに気づいておられました。それで、主イエスは2つのたとえを用いて、霊的な目が開かれるように彼らを教えてられます。
 最初のたとえは「天気のたとえ」です。天気は、だれにとっても大切なことですから、今では、スマホを使って明日の天気、これから一週間の天気などを何度もチェックします。イエスの時代のユダヤ人たちも天気についてはよく知っていました。イスラエルは西側が海で、東や南は山や砂漠です。ユダヤでは、雨が降る前に必ず西の地中海の上空に雲ができますので、人々は西に雲がでると間もなく雨が降ってくることを知っていました。また、南風は砂漠の上を通ってやってくるので、彼らは南風が吹くと暑くなることもよく知っていました。当時のユダヤ人たちには天気予報はあまり必要ではなかったのです。彼らは、天気については見る目を持っていたのですが、霊的なことを見る目が鈍っていました。彼らは、嵐が近づいていることはよく分かっていましたが、神様の裁きがあると聖書の預言があるにも関わらず、そんなものはないかのような生活をしていました。ユタヤ人たちには聖書があり、旧約時代には多くの預言者をとおして神様からのメッセージを聞いていたのに、イエスが救い主であることが分からず、神様が何をしておられるのか分かっていませんでした。
 今日も、神様の働きは続いています。神様の約束と計画は決して変わることはありません。私たちは例え太陽の動きや星の動き知っているとしても、この世で神様が働いておられることにはまったく無関心であり、また理解しようとしていません。人が一度死ぬことと死んだのちに裁きを受けることは避けられないと、聖書がいくら叫んでも、そんなことは起こらないと思い込んでいる人の人生は悲劇です。聖書は2000年前から、必ず世の終わる時が来ることを預言しています。その前兆が数多く記されています。偽キリストが現れる、地震やききんが増える、民族同士の争いが増えるなど。今の時代はどうでしょうか。また、イスラエルの民は全世界に散らされるが、再び世界の四方から集められることも預言されていました。エルサレムが紀元70年にローマ帝国によって滅ぼされた時から、イスラエルの民は世界中に散らばりました。1900年間イスラエルは存在しなかったのですが、不思議な歴史の動きの中で、各地でのユダヤ人迫害やナチスの迫害などがあってユダヤ人たちが祖国に戻り始め、イギリス・フランスなどの介入もあり、とにかく1900年間空白になっていた土地にイスラエル共和国が1948年に誕生しました。このように歴史は、確実に聖書が預言している方向に動いています。私たちはこの状況を見逃していないでしょうか。
 2番目のたとえは「裁判」のたとえです。58節で「 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。」と言われています。私たちは、自分が監獄に入れられるかも知れないと思ったら、あらゆる手段を尽くして、投獄されないようにします。それに比べると、私たちは神様の裁きについてどれほど真剣に考えているでしょうか。聖書は、はっきりと語っています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」ですから、もし、私たちが主イエスを救い主と信じる告白をしなかったら、私たちは神の裁きを受けて有罪を宣告されるのです。聖書の教えが一部分だけ真実で、ある部分は真実ではないということは絶対にありません。神は全能の神です。神の教えはすべて真実かすべて偽りかのどちらかです。福音とは、神様からの私たちへの呼びかけです。神様は、主イエスを信じない者は裁きを受けると警告しています。だから、私たちは急がなければなりません。
 タイタニック号が沈没した事件で分かったことは、船長や乗組員が氷山があることを知らせる警告に注意を払わなかったことが氷山に衝突した一員であったということです。警告を聞いて、すぐに行動を取っていれば沈没することはなかったのです。今日の箇所は、特に、まだ主イエスを救い主と告白して、自分の生き方を決めていない人々への警告の言葉です。あなたは、福音書の警告の知らせを真剣に聞いていますか。それとも無視していますか。タイタニック号のように手遅れにならないようにしてください。

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