2018年新年礼拝説教「良いスタートを切る」 (詩篇1篇) | 説教      

2018年新年礼拝説教「良いスタートを切る」 (詩篇1篇)

 2018年が始まりました。誰もが新しい1年が良い年であることを願います。ただ、北朝鮮の問題など、私たちを取り巻く状況は決して良い年をもたらすものとは思えません。しかし、聖書は、神を信じる者には、周囲の状況に関わらず、神様からの特別な祝福があることを繰り返し教えています。聖書の教えでは、私たちには二つの生き方しかなく、それは、神を信じ神の言葉に従う生き方と、神を信じないで神の教えに従わない生き方です。神を信じる者には、神の祝福があり、神を信じない者には神のさばきがあります。聖書の中には、この2つの生き方をする人々が繰り返し登場します。例えば、カインとアベル、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ダビデとサウルなどです。一方には神様の祝福があり、一方には神様の裁きがありました。今日は、一年を始めるにあたって、神様の祝福が与えられる生き方を学びたいと思います。そして、今日集まっておられるお一人お一人が、神様の祝福に満ち溢れた一年を過ごされるようにとお祈りします。

(1)神から祝福を受ける人(1~2節)
 イスラエルの人々は神の民として特別に選ばれた人々でした。神様は彼らを聖なる民と見ていました。ですから、彼らは、他の民族に囲まれて暮らしていましたが、他の民族が行っていた偶像礼拝などの罪の影響を受けないように、神の教えに従うことが求められました。このことは、主イエスの十字架によって罪を赦され神の子どもとして受けいられた私たちクリスチャンにも当てはまることです。私たちはこの世の中で生きていますが、この世の人々の考え方に支配されて生きるべきではありません。私たちは、すべての人と平和を造る者でなければなりませんが、この世の人々と親しくなる時には注意しなければなりません。それは、この世の人々は基本的に神を信じないでむしろ神に反対する者として生きているからで、この世の人々と親しく交わるうちに、この世の罪に自分が汚れてしまったり、神様よりもこの世のことを愛するようになったり、あるいは、この世の人々の生き方に調子を合わせるような生き方をする危険があるからです。アブラハムの甥のロトという人は神様を信じていましたが、罪と悪がはびこるソドムという町を愛しその町の近くに自分のテントを張りました。そのうちにロトはソドムの街中に引っ越し、最後は、ソドムの町のリーダーになりました。彼は神を信じていましたが、ソドムの町の罪はあまりにも大きかったので、ソドムの町は神様によって滅ぼされました。ロトは命は神様によって守られましたが、彼がソドムの町で築いた財産や持っていたすべてのものを彼は失いました。1節にはこう書かれています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」ここに、人が罪に陥っていく3つの段階、3つの行動パターンが記されています。それは「歩む」「立つ」「座る」という行動です。人間が罪に陥っていく時は、ロトの場合のように、少しずつ罪にひきつけられて行きます。まず、悪者のはかりごとに歩むとあります。「歩いている」という状況ですから、その人はまだ動いています。いわば、これは罪に陥る第一段階と言えるでしょう。足を一歩踏み入れる、あるいは、誘惑の声に耳を貸すといった段階です。最初の人間のエバは、神様からエデンの園にあるどの木からでも実を食べてもよいが中央にある一本の木の実だけは食べてはならないと言われていました。ところが、蛇の姿をした悪魔がエバにいろいろ話しかけます。エバはその言葉を聞いて心が揺れ動きました。ロトがソドムの近くにテントを張ったことがロトが財産を失うことにつながったのを見ると、私たちは、悪者のはかりごとに近づくことをまず避けなければなりません。次に「罪人の道に立たない」とあります。立つということは歩くのをやめて立ち止まることを意味します。最初は悪い誘惑の声を聴いている段階ですが、今度はその道に立つのですから罪の行動に出ることを決心したことを意味します。誘惑を受けていたのが、罪に向かって一歩進んでしまいました。そして、3番目は「あざける者の座に着く」とありますが、座り込んでしまうことを表しています。あざける者とは、神をあざけり、神を信じることを馬鹿にし、神を信じる人々を馬鹿にする者です。一言でいえば、神に敵対する人です。その人と一緒に座るのですから、神に敵対する人々と一緒にいることが楽しく、心地よく、罪を犯すことにもまったく抵抗を感じない状況を表しています。このようにして、人は少しずつ罪の誘惑を受けて罪に陥って行くのです。罪には必ず裁きが伴います。ロトがソドムの町に住んだことによってすべてを失ったように、私たちは、神の言葉に逆らって罪を犯す時に神の裁きを受けることになります。私たちはこのような生き方に陥らないように、いつも神の教えを真剣に受け止めて、その教えに従っていかなければなりません。私たちがそのように生きるならば、周囲がどのような状況であっても、私たちは神様からの祝福を受けることができます。神様からの祝福は、絶対に奪い取られることはありません。人間の幸福とは、いつ失われるかわからないはかないものですが、神の祝福は絶対に失われることがないのです。
 1節は、神の祝福を受ける人とは、どんな人か、「~しない人」という点で語られましたが、2節では、神の教えを喜ぶ人、神の教えを昼も夜も口ずさむ人と書かれています。口ずさむとは、あることをあれこれ考えるという意味だと思います。神の教えを喜ぶことと口ずさむことはつながっています。誰でも、自分が楽しむことについては、あれこれ考えていろいろ追及していきます。好きなことについては、どんなことでも喜んでできますし、苦痛にはなりません。私たち神を信じて神の子どもとなった者たちは、この世の何よりも、み言葉を喜ぶことが求められます。私たちは、人間関係においても、自分が心から信頼している人が言う言葉にはしっかりと耳を傾けます。私たちのみ言葉に対する姿勢は、私たちの主イエスに対する姿勢を表していると言えます。この新しい年、私たち一人一人が、聖書の言葉に新しい気持ちで接する時に、私たちは神様から新しい祝福が与えられると思います。

(2)祝福となる人(3節)
 神様がイスラエル民族の創始者となるアブラハムを選ばれた時に、神様は彼に次のような約束を与えられました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12章2節)神様は私たちに祝福を与えてくださいますが、それは、私たちが自分だけでその祝福を喜ぶのではなく、自分が受けた祝福を他の人に分かち合う人になることがその目的なのです。神様からの祝福を受けることは喜びですが、自分がほかの人々にとって祝福となることは、もっと大きな喜びをもたらします。3節には次のように書かれています。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」聖書の中には、いろいろな木が描かれていますが、木でもっとも大切な部分は地上からは見えない根の部分です。木は、生きて行くのに必要な水分や栄養を根から吸収しているからです。ここに、神様の祝福を受けた人は、水路のそばに植わった木のようだと記されています。水路のそばに生えている木は、根から十分な水分を吸い上げることができるのでいつもみずみずしく、力強く生きていることができます。しかし、水路から遠く離れたところに生えている木はいのちの源である水を得ることができないので、すぐに枯れてしまいます。主イエスは、ある時に、罪深い生活をしていた女の人に次のような言葉を言いました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)私たちが神から離れて生きていると、私たちの肉体は生きていても、私たちの魂は渇いて死んでしまうと教えています。しかし、魂の渇きを感じた人が魂を生かす水を求めるなら、主イエスは、私はその人に水を与えると約束しておれます。それだけではなく、主イエスが与える水はその人のうちで泉となって、その人の内から永遠のいのちを与える水が湧き出ると約束されています。主イエスという水路のそばに植わっている木は、私たちのことを指していますが、私たちは聖書の言葉から魂を満たす霊的な水を吸い上げることができます。また、主イエスに祈る時、ほかのクリスチャンと信仰の交わりをする時、神様が私たちに魂を満たす霊的な水を注いでくださいます。
 また、その人は時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄えると約束されています。それは、その人が水路のそばに植わった木のように、主イエスから決して離れないで、み言葉をとおしてイエスから教えられ、祈りをとおしてイエスから信仰に必要な力を受けているからです。しかも、2節に書かれている「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」の口ずさむという言葉は、1回口ずさむという意味ではなく、いつも口ずさみ続けるという意味です。聖書では、木の実をいろいろな比ゆ的な言葉として用いられています。それは、人々がキリストを信じる決心をすることを意味したり、神様のような性質を身に着けることを意味したりします。クリスチャンがキリストとともに生きる時に、いろいろな祝福の実を結ぶことが約束されています。忘れてはいけないのは、その木の実は誰が食べるかという点です。木は自分の身を食べません。他の人がその実を食べて、喜びます。信仰の実、祝福の実は、自分のためのものではなく、他の人がその祝福を受けるためなのです。そして、木の実はさらに多くの実を結ぶ種でもあるのです。
 
私たちは、み言葉に従い、キリストに従って生きようとするとき、神様から様々な祝福を受けるだけでなく、多くの人々に祝福を与える人として生きることができるのです。今の時代の人々は神様の祝福を必要としています。4節から6節には、神の祝福を必要としている人々のことが描かれています。私たちは、神の裁きの人生ではなく、神の祝福の人生を歩むなら、今年、私たちの周りで何が起きようとも、私たちは何も恐れることはないのです。祝福の人生を歩むために必要なのは、あなたの決断です。自分の人生を誰にコミットするのかによって決まります。
 アメリカの24代の大統領クリーブランドは若い時、悪友に誘われて毎晩のように酒を飲みに行っていました。悪いとは思いながら断る勇気がありませんでした。ところがある晩、いつものようにバーに行く途中、教会の前を通りかかると、その壁に書かれていた「罪から来る報酬は死である」という聖書の言葉が目に入りました。そこで彼は勇気を出して友達に、「今日はバー行くのをやめて教会に行こう!」すると友達は、彼をあざ笑い、彼に腹を立てて一人でバーに行ってしまいました。それから30年、彼は苦学の末、刑務所の看守から、市長になり、知事になり、そしてついに大統領になりました。彼が大統領になったというニュースが全米に流れた時、ある刑務所で一人の死刑囚がわんわんと泣いていました。看守が訳を聞いてみると、その死刑囚は、あの夜、教会の前で彼に腹を立てて一人でバーに行ったあの友人だったのです。一つの決断で、人生は大きく変わります。あなたは、新年を始めるにあたり、どのような決断をされるでしょうか。

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