2018年1月14日 『束縛を打ち破るイエス』(ルカ13章10~17節)」 | 説教      

2018年1月14日 『束縛を打ち破るイエス』(ルカ13章10~17節)」

 しばらくクリスマスのメッセージが続きましたが、今日から、またルカの福音書に戻ります。主イエスは、その生まれる700年前に預言者イザヤが、救い主の誕生を預言して、救い主は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると言いました。主イエスは「平和の君」です。しかし、実際には、生まれてすぐに、ヘロデ王に殺されそうになってエジプトに逃げなければなりませんでした。神の子としての働きを始めてからも、主は常にユダヤ教のリーダーであった律法学者やパリサイ人たちからの批判や攻撃がありました。彼らは、主イエスが多くの人々に大きな影響力を持っていることを妬み、また、主イエスが自分たちを偽善者だと批判していることが我慢できなかったのです。今日の出来事も、そのような緊迫した状況の中で起こりました。
 10節に、「イエスはある安息日に会堂で教えておられた。」と書いてあります。当時、イスラエルの各地に多くのユダヤ教の会堂がありました。ある本によると、エルサレムだけでも480の会堂があったとようです。もともとは、ユダヤ教の礼拝は、エルサレムの神殿で行われていたのですが、紀元前6世紀(586)にバビロン軍によってエルサレムの神殿が徹底的に壊されてしまい、また大部分のユダヤ人が強制的にバビロンに連れて行かれたことによって、神殿での礼拝は終わってしまいました。それで、バビロンに連れて行かれた人々は、聖書の言葉を学ぶために小さなグループで集まるようになりました。これがユダヤ教の会堂の始まりです。会堂には、フルタイムの教師や祭司はいませんでした。会堂管理者が認めた人であれば、誰でも旧約聖書の言葉について教えることができました。主イエスは、たびたび、会堂を訪れて、人々に旧約聖書の言葉を教えられましたが、ユダヤ教の指導者たちとの衝突がだんだん激しくなってきたため、ここに記されているのが、主イエスが会堂で教えられた最後の時となりました。

(1)ある女性の困難と苦しみ(10-11節)
 11節に「そこに18年もの病の霊につかれ、腰が曲がって全然延ばすことのできない女がいた。」と書かれています。この女性は、何歳なのか分かりませんが、病気になって18年もの間、腰が曲がったままで、体を伸ばすことが全くできませんでした。18年もの間、体が曲がったままとは、この女性はどれほどつらい思いをしていたことでしょうか。歩くことも簡単ではありませんし、人々から、同情の目で見られるのもつらかったと思います。彼女がどのような病気で完全に腰が曲がってしまったのかは分かりません。今もそうかも知れませんが、イエスの時代、病気は、何かの罪を犯した結果起きると人々は考えていました。しかも、11節には彼女が「病の霊につかれていた」と書かれていますので、彼女が、悪霊に支配されて体が不自由になっていたのだと思われます。彼女が道を歩くと、多くの人が変な目つきで彼女を見ていたことでしょう。悪霊につかれていたことが分かれば、人々は彼女に「近づくな!」と叫んでいたかも知れません。しかし、彼女の素晴らしい点は、そのような状況であっても、神様を礼拝するために会堂に来ていたとことです。普通なら、近所の人に出会ったり人からじろじろ見られるのが嫌で、外にも出なくなると思います。また、自分の不幸を嘆いて、神様に文句を言う人も多いでしょう。しかし、彼女は、自分の状態がつらくても、神様を礼拝するために、会堂に来ていました。彼女は、18年間神様に体の癒しを求めて祈っていたはずです。毎週毎週礼拝に来て、会堂でも祈っていましたが、彼女の病が癒されることはありませんでした。普通なら、どんなに祈っても神様の答えがないと、神様に対して腹を立てて、会堂に来なくなると思います。しかし、彼女の神様に対する心は変わりませんでした。この日も、いつもと同じように神様を礼拝するために会堂に来ていたのです。ユダヤ教の会堂では、女性は正式なメンバーとして入ることはできませんでした。今でも、エルサレムの嘆きの壁の隣に会堂がありますが、女性は、男性が入る場所に入ることが赦されず、決められた所にしかいることができませんでした。彼女は、女性であり、しかも、腰が曲がっていましたので、会堂の中で、一番人目につかないところに自分の身を隠すようにして座っていたのだと思います。そこにいた男性の多くは、好奇心の目で「ああ、またいつもの女が会堂に来ている」と不愉快な思いで見ていたはずです。誰も、この女性の苦しみや痛みを理解せず、ただ、罪を犯して悪い霊につかれた人間として軽蔑の目で彼女を見ていました。
 しかし、主イエスの目は、他の人の目とは違いました。きっとその会堂には大勢の人が集まっていましたが、主イエスは、会堂の後ろのほうに隠れるように座っていたその女性に目を留められました。腰が曲がっていましたから、もともと他の人よりも一段と背が低かったはずです。他の人の目には入らなかった女性に、主イエスは目を留められたのです。そして、その女に「女の人、前に出て来なさい。」と言われました。聖書には書かれていませんが、この女性は、イエスの言葉と、イエスが自分を見つめるまなざしとから、隠れていることはできないことが分かって恐る恐る、前に歩き出て、イエスのところへ出て行ったと思います。もし、彼女が、人の目を恐れて、前に進み出なかったら、この奇跡は起こらなかったでしょう。彼女は他の人の顔を見ないで、ただ主イエスだけを見つめて前に進み出て行きました。彼女にとっては歩くことも簡単ではありませんでした。イエスに向かって一歩足を踏み出すこと、これが信仰の一歩なのです。

(2)ただちに解放される(12-13節)
 女性が、勇気を出してイエスの所に来て顔を上げると、主イエスの愛に満ちた顔が見えました。いつも見慣れた人々の顔とは違いました。主イエスのまなざしには愛が満ち溢れていました。そして、主イエスは彼女に「あなたの病気はいやされました。」と言われました。悪霊の働きによって曲がったままで縛られていた彼女の体が解放されたという主イエスの宣言でした。「いやされた」と訳されていますが、ギリシャ語では完全に自由にされましたという言葉が使われています。また、この動詞は完了形という形が使われているので、この瞬間自由にされて、これからずっと自由だという意味を含んでいます。この女の人は、18年間も腰が曲がったままでしたので、その間一度も腰を伸ばすということをしたことがありませんでした。彼女は、イエスの言葉を聞いても、じっと動かなかったのでしょう。そこで、主イエスは、そっと彼女の腰を手で触りました。主イエスの手が、彼女に腰を伸ばしてみなさいというように促したのだと思います。そこで、彼女が、18年ぶりに腰を伸ばそうとすると、たちまち、彼女の腰が自由になって、彼女は完全に自分の体を伸ばすことができました。その時の彼女はどんな気持ちがしたでしょう。大切なことは、彼女はすぐに神様をほめたたえたという点です。主イエスに病気を癒してもらった人は大勢いましたが、多くの人が自分が癒されたことに大喜びしただけで、神をほめたたえることをしていません。ある時、10人のハンセン氏病患者が主イエスによって癒されましたが、その中で癒されたことで神をほめたたえ、主イエスの足元にひれ伏して感謝の気持ちを表したのは一人だけでした。しかも、その人は、日ごろユダヤ人が軽蔑していたサマリヤ人でした。私たちも、自分の願い事を神様に祈ります。大きな問題ほど真剣に祈ります。そして、祈りが答えられて問題が解決すると、祈りが答えられたと感謝してよろこびますが、問題が解決したことばかり喜んで、その解決を与えてくださった神様への感謝がおざなりになっていることはないでしょうか。神様から与えられる祝福は素晴らしいものですが、私たちは神様から受けた祝福以上に、神様ご自身を喜ぶことが大切です。私たちが誰かにちょっと良いこと、例えばごはんをおごってあげるようなことをしたとき、相手の人が、こちらがしてあげたことを喜ぶだけで、私たちのことを忘れてしまったら、どんな気持ちがするでしょうか。この女性には、18年間の苦しみの中でも、神を信仰する道から外れていなかったからこそ、自分の病気が癒された時に、まず神をほめたたえたのです。私たちも、この女性の信仰を見習いたいものです。

(3)会堂管理者の反応
 18年間の苦しみから解放された女性は喜びと感謝に心が満ち溢れていましたが、このような喜ばしい情景を見ても、苦々しい思いをしていた人物がいました。14節に「それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤った」と書かれています。当時のユダヤ教の会堂には、フルタイムの祭司はおらず、選ばれた長老たちがその運営の責任を負っていました。その長老のリーダーが会堂管理者と呼ばれていました。当時のユダヤ教は、旧約聖書の律法をすべて守ることは不可能であることが分かっていました。しかし、彼らはそのことを悔い改めるのではなく、旧約聖書に記された律法の中から特定のものを選んで、それを守ることによって、永遠のいのちが得られるという教えを作り出していました。その中でも、特に重視されたのが安息日に関する律法でした。モーセの十戒には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」と書いてあります。当時の安息日は週の7日目の土曜日でしたが、神様は、人間に「この日を特別な日として仕事をせずに神を礼拝する日とするように。」と言われたのですが、ユダヤ人たちは、安息日に仕事をしないということだけを重視して、一切の仕事をすることを禁じていました。この会堂の管理者も、この考え方に縛られていましたので、女の人が苦しみから解放されたことを喜ぶのではなく、主イエスが安息日に病人を癒すと言う仕事をしたことに腹を立てていました。神様が人間に与えた律法の基本的な精神を忘れて、枝葉末節なことにこだわると、正しい判断ができなくなってしまいます。この人も、宗教的な規則や儀式的なことを大切にするあまり、他の人の必要にまったく心が向かなくなっていました。ただ、彼は直接イエスに反論する勇気がなかったのか、会堂にいた人々に向かって言いました。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
 会堂管理者は、会堂に集まっていた人に呼び掛けて一緒にイエスに反対しようとしたのですが、イエスは、厳しくこの管理者を批判して答えました。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」主イエスは、ユダヤ教徒たちを偽善者だと言いました。それは、彼らが信じていた教えには矛盾があったからです。彼らは安息日に仕事をすることを厳しく禁じていましたが、自分が飼っていた牛やろばに水を飲ませるために家畜をしばっているひもをほどいて水飲み場まで連れて行っていました。家畜をつないでいる縄をほどいて家畜を連れて行くことも、仕事と見なすことができます。主イエスがしたこととどこに違いがあるのでしょうか。しかも、この女性は、牛やろばのような家畜ではありません。主イエスは彼女のことを「アブラハムの娘」と呼びました。彼女は、悪霊につかれて18年間病気に束縛されていましたので周りの人々は、彼女を一人前の人間とは見ていなかったと思います。しかし、主イエスは、彼女が、正式なユダヤ人の一人であることを認めて「アブラハムの娘」と呼びました。彼女は、牛やロバよりもはるかに尊い存在です。主イエスは、牛が水を飲むために縄がとかれたように、この女性を病気の束縛から解放しました。牛やロバは数時間の間ののどの渇きから解放されますが、この女性の場合は18年間の束縛から解放されたのです。人々が、神を第一にしないと、いろいなところで正しい判断ができなくなってしまいます。イエスの言葉を聞いて、会堂管理者をはじめ主イエスを批判していた人々は他の人々の前で恥をかかされました。一方、一般の人々は、主イエスが行った大きな働きを見てよろこびに溢れました。彼らは、ユダヤ教の人間が作った規則や儀式よりも、神様の言葉そのものを大切に考えていたからです。
 私たちも、クリスチャンであるなしに関わらず、何か自分のこだわりで自分を束縛していないでしょうか。この女性は肉体的な束縛から解放されましたが、そのことによって、ユダヤ教の指導者たちの心や態度がどれほど自分たちのこだわりによって束縛されているかが明らかになりました。あなたは、神様の言葉そのものを第一にしていますか。それとも、人間が作った規則や儀式に縛られていますか。あなたも、主イエスによって自分を縛っているものから解放されなければならないのではないでしょうか。

2018年1月
« 11月   3月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教