2018年1月21日 『狭い門から入りなさい』(ルカ13章22-30節) | 説教      

2018年1月21日 『狭い門から入りなさい』(ルカ13章22-30節)

 今日読んでいただいたルカの福音書13章22節は、時間的に言うと、主イエスが十字架にかけられる数か月前の出来事です。弟子たちはそのことを知りませんでしたが、主イエスの心ははっきりと十字架に向けられていました。22節に「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。」と書かれていますが、主は、十字架にかけられる最後の瞬間まで、常に、一人でも多くの人が神を信じて罪の裁きと罪の支配から解放されてほしいと言う願いをはっきりと持っておられました。その姿に、弟子たちも、何か主イエスの中にいつもと違うものを感じていたのだと思います。そのような時に、イエスと弟子たちが道を歩いていると、群衆の中にいた一人の人がイエスに向かって質問をしました。主イエスが人々に神について教えられる時に、主は、人々の質問に答えるという方法で教えることがよくありました。この時も、この質問をきっかけにして、主イエスは、救われるとはどういうことなのかを詳しく教えられました。

(1)狭い門
 主イエスが弟子たちと歩いている時に群衆の中から一人の人が声を上げて質問しました。「主よ。救われる者は少ないのですか。」当時、よく律法学者たちは、何人の人が救われるのだろうかと議論していたようです。また、恐らく、この人は、主イエスと行動を共にしていて、これまで、主イエスの教えを聞き、主イエスの様々な力あるわざを見ていたと思います。少し前にも、会堂の中で、安息日に18年腰が曲がったままの女性を癒されましたが、それを見て怒った会堂管理者に向かって主イエスが「偽善者」と厳しく批判したことも目撃していたと思われます。その様子から、この人は、罪の裁きや罪の力から救われるのは、簡単なことではないと感じたのではないでしょうか。実は、当時のユダヤ人の大部分は、自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた特別な民なので、まじめに会堂に通い必要な儀式を行っていれば、当然救われると考えていました。しかし、この人は、そこに不安を感じて質問したのだと思います。
 それに対して主イエスは次のように答えられました。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」 人はよくただ議論をするために質問をしたり、答を本当に求めているのではなく、相手の反応を見てやろうという思いで質問をします。しかし、主イエスはそのようあ質問に答えることはありませんでした。この時も、主イエスは、この人の質問に対する直接的な答えをしていません。主イエスには、何パーセントの人が救われるのかといったような単なる情報にはまったく関心を示されませんでした。主イエスは、この質問に直接答える代わりに、その人に向かって、「努力して狭い門から入りなさい。」とチャレンジをしておられます。そして、イエスの言葉は、当時のユダヤ人が持っていた自分たちは救われていると満足していることへの厳しい警告の言葉でもありました。「入ろうとしても入れなくなる人が多い」と主イエスは言われました。つまり、イエスの周りにいた人々の何人かではなく、多くの人が救われていないと、主は言われたのです。ユダヤ人たちは、神様に選ばれた民族ですし、旧約聖書に記された神の言葉、神の律法を与えられていました。また彼らを罪の裁きと力から解放する救い主が与えられるという約束も知っていました。しかし、どんなに恵まれた環境の中にいたとしても、彼らは、個人的に主イエスを救い主として信じない限り、救いには入れられないのです。しかし、これはただユダヤ人だけではなく、すべての人間に当てはまります。今年の聖句は、ローマ1章16節ですが、そこでもパウロは言っています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音、つまり聖書のメッセージには「聞いている人」「知っている人」ではなく「信じるすべての人」には救いを得させる神の力が働くのです。それはイエスの時代も、今の時代も、決して簡単なことではありません。だから、イエスは、「努力して狭い門から入りなさい。」と言われたのです。
 なぜ、この門は狭いのでしょうか。一つは、罪からの救いと永遠のいのちに至る門はイエス・キリストだけだからです。主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」私は、ほかの宗教を批判するつもりはありませんし、絶対に傲慢になってはいけないのですが、真実の神は一人しかいないはずです。この世界が美しく調和がとれているのは、一人の神が支配しコントロールしておられるからです。政治の世界でも、一つの政党にリーダーが何人もいれば決してまとまった行動は取れません。この世界は本当に美しく、本当に秩序正しく動いています。偶然ではありません。一人の神様の働きで守られているからです。クリスチャンは他の人々から「心が狭い」とか「寛容な精神がない」と言われることが多いですが、真実の神は一人しかおられないことは絶対に確かです。もし、神がたくさんいれば、世界は混乱します。それぞれの神が勝手に働くからです。この点において、私たちは決して譲ってはなりません。ただ、繰り返しますが、決して傲慢になったり、主イエスを知らない人々に上から目線で行動したりしゃべったりするなら、その人は自分はクリスチャンだと思っていても、主イエスはあなたを知らないと言うでしょう。
 また、救いに入るための門が狭いのは、その門は一人の人がやっと入れるぐらいの幅しかないからです。天国に入るための門は狭いので、人は門を通る時にいろいろなものを待ったまま入ることができません。多くの人は、自分が大切にしているものを手放したくありません。この世の財産や、この世界で自分が築いてきた業績や、人からの褒められること、欲望、とにかく、私たちは、本当に多くのものにこだわって、それを握りしめているのです。お茶室の入り口は「にじりぐち」と呼ばれますが、すごく小さいですね。なぜ、あんなに小さいのか。ある人は次のように説明しています。「それは茶室が外とは別の世界という考え方があるから。外の世界のけがれをにじり口を通ることで落とす、地位・身分の高い人でも頭を下げさせる、という目的で作られたもの。武士は刀を差したままでは入りにくくなっている。」千利休はキリスト教の影響を受けていたと言われていますが、主イエスが言われた「狭き門」と共通するところがあると思います。この世界での、地位や名誉や財産は一切狭き門を通ることができません。ただ、私たちが神の前に罪を悔い改めて、低くなって初めて通ることができる門なのです。そして、主イエスは、「努力して狭い門から入りなさい。」と言われました。まず、質問した人に対して、他の人のことに左右されないで、自分の生き方として狭い門から入るようにと主は言われました。また「努力して」と訳されている言葉は「苦しみ抜いてもやり遂げる」という意味を含む言葉です。主イエスを信じる道は、決して簡単ではありません。主イエスは、楽をするために狭い門から入れとは言っておられません。その門を入いり狭い道を歩くことは簡単ではありませんが、その道だけが永遠のいのちに通じる道なので、何があっても、その門から入るように命じておられます。マタイの福音書にも同じ言葉が記されていますが、もう少し詳しく書かれています。7章14節で主イエスは「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と言われました。いのちに至る門は小さくて、それを見出す人は少ないと言われました。しかし、滅びに至る門は大きいのですが、それを見出す人が多いとは言われていません。それは、滅びに至る門は、特別に努力して見つけようとしなくても、この世の多くの人が歩いている道を無意識で一緒に歩いていれば、自然にその門を通って滅びに至ってしまうからです。私たちの人生は1回しかありません。毎日、何となく他の人のように生きる人生のゴールは永遠の滅びですよ、と主イエスは警告しておられます。だから、苦労してでも、大変であっても、一度立ち止まって、自分はどんな道を進んでいるのかを確認しなければなりません。自分がこれが道だと見つけ出して入って行かなければならないのです。
 
(2)閉じられる門
 続けて、主イエスは警告の言葉を言われています。25節を読みましょう。「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」主イエスは、永遠のいのちに至る狭い門はやがて閉じられる時が来ると警告されました。今日は、門は開いていますが、明日、その門が開いていると言う保証はありません。私たちのいのちは明日生きているかどうか100%確実ではありません。ユダヤ人たちは、救い主を信じるチャンスはいくらでもあったのですが、心を固くして主イエスを救い主と信じることを拒みました。自分はユダヤ人であることに安心して、彼らは主イエスの警告の言葉を無視し続けました。すると、その人々は、気が付いたら、神様の恵みから締め出されてしまうのです。彼らは「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」と答えています。彼らは、主イエスと交わりを持ったり、教えを聞いていました。彼らはイエスを知っていましたが、彼らは主イエスも彼らのことを知っていると思い込んでいました。それは、主イエスの近くにいて食べたり飲んだり、教えを聞いたりしていたからです。しかし、神様は「私はあなたがたがどこの者だか知りません。」と答えるのです。今の私たちに当てはめて考えると、私は教会のイベントに参加しています。聖書の教えを聞いています。と答えるようなものです。もちろん、それらはとても良いことですが、それが主イエスと個人的な関係を築くことにはならないのです。パウロの言葉を借りると、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」主イエスを救い主として信じるという個人的な決断がないと、主イエスは私たちのことを知らないと言われるのです。神の恵みの中におかれていても、意識して狭い門を見出して入ろうとしなければ、罪の救いから追い出されてしまう危険性があります。しかし、どんなに神から離れているように見えている人でも、個人的に主イエスを信じて告白するなら、どんな人であっても、罪からの救いに入れられます。クリスチャンであっても、油断してはなりません。いつも神を信じて、狭い門に入った後に続く狭い道を歩き続けなければならないからです。地上の生涯の最後の日まで、神様に祈りながら、イエスを信じるように導かれたことを感謝して、永遠のいのちの約束に向かって進み続けなればなりません。

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