2018年4月8日『失われたものが見つかる喜び』(ルカ15章1-10節) | 説教      

2018年4月8日『失われたものが見つかる喜び』(ルカ15章1-10節)

 今日からふたたびルカの福音書を読んで行きたいと思います。ルカ福音書の15章には有名な例え話が3つ語られているのですが、その3つは同じテーマを持つ例え話です。主イエスがなぜ、この3つの例え話を語られたのか、どのような状況であったのか、まずそれを見てみたいと思います。1,2節を読みましょう。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」」ここに、取税人や罪びとたちがイエスの話を聞こうとして近づいてきたと書かれています。取税人とは、ユダヤ人から税金を集めて、支配者であるローマ帝国に集めた税金を納める仕事をしていました。この仕事につく権利を得るためにはローマ帝国にお金を支払わなければなりませんでした。取税人は、自分たちの同胞であるユダヤ人から税金を取り立てて、それを支配者であり外国人であるローマ人に渡すのですが、その時、集めた税金の一部を盗んでいました。ですから、取税人の仕事をしていれば、誰もが非常に裕福になります。そのため、ユダヤ人たちは、取税人を、自分の金儲けのために外国人に魂を売った裏切者と見なされていました。一方、罪人と書かれている人は、日本のやくざのように、社会の迷惑者と考えられていた人々でした。どちらも、いわば社会のくずのような人間ですが、彼らも、主イエスの話を聞きたいという思いを持ちました。普段は、社会からのけ者にされているため他の人々との交流はほとんどないので、彼らは自分たちの仲間だけで付き合っていました。ところが、主イエスの言葉や、イエスの働きの噂を聞いて、彼らは主イエスに会って話を聞きたいと思うようになっていました。すると、主イエスは、ただ彼らと話をするだけではなく、一緒に食事をとることにしました。ユダヤ人社会においては、食事は非常に大切な交わりを意味していましたので、主イエスが彼らを喜んで受け入れたことが分かります。
 その様子を見ていたのは、パリサイ人や律法学者たちでした。彼らはユダヤ教の指導者的な人々で、旧約聖書のことをよく学び、また自分たちは旧約聖書の律法を守って生活している正しい人間だと思っていました。ただ、彼らは主イエスを旧約聖書が約束していた救い主メシヤであることを信じていなかったので、いつもイエスの様子を見張っていて、チャンスがあればイエスを訴えようと必死になっていました。彼らは主イエスが取税人や罪人たちと一緒に食事をすることに非常に驚きました。彼らは、そのような人々と交わりをすると自分たちが汚れると考えて、彼らと一緒に食事をすることは絶対にありませんでした。しかも、彼らは、主イエスが取税人や罪人たちと食事をすることにも非常に腹を立てています。私たちの心の中にも、自分の考えと会わない人たちとはかかわりを持たなかったり、あるいは仲間から排除しようとする気持ちがあります。しかし、主イエスは、すべての人をどこまでも追い求める心を持っておられます。ある時主イエスはこう言われました。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)実際には、神の目には、100%正しい人は一人もいません。パリサイ人や律法学者たちの問題は、自分の本当の姿が見えずに自分が正しいと思い込んでいたという点にありました。彼らは取税人や罪人を軽蔑し、彼らを排除していました。そのような人たちは滅んでしまえばよいとさえ考えていました。しかし、イエスは、このような人たちこそ話をする必要があると考えていました。このような人たちこそ、神様の教えを聞き、神様の愛を知って、今の生活から抜け出すことが必要だったからです。そのことをパリサイ人や律法学者たちに理解させるために、主イエスは、3つの例え話を彼らに向かって語られました。今日は、その中の最初の二つの例え話を見てみたいと思います。

(1)迷子になった羊(3-7節)
 主イエスは、パリサイ人と律法学者たちに例え話を語られますが、最初に取り上げたのは貧しい羊飼いの例えです。主イエスは彼らに羊飼いの立場に立って考えなさいと言っておられるのですが、実は、パリサイ人や律法学者たちは羊飼いを非常に軽蔑していました。羊飼いはユダヤ人社会においてはもっとも身分の低い人々でした。しかし、主イエスがこの世界にお生まれになった時も、神様が最初に知らせを伝えたのはベツレヘムにいた羊飼いたちでした。多くの羊飼いは自分の羊を持っているのではなく、金持ちに雇われて羊の世話をする仕事をしていました。羊飼いたちは教育も受けていませんし、特別な能力を持っているわけではありません。羊飼いの仕事は、動物相手の仕事ですから体はいつも汚れていました。また、羊の世話は毎日しなければなりませんから、安息日に仕事を休むこともできません。彼らは安息日を守ることができないので、宗教的にも汚れていると見なされました。パリサイ人や律法学者たちは、羊飼いの話をされるのをあまり心地よく思っていないはずです。
 羊飼いが羊の群れを導いている最中に、一匹の羊がいなくなっていることが分かりました。これは、羊飼いにとっても羊にとっても危機的な状況です。羊は道から転げ落ちて仰向けになると自力で起き上がることができないそうです。また、オオカミなどがやって来ればたちまち襲われてしまいます。羊飼いにとっても、羊を一匹でも失うことは許されていませんでした。もし、いなくなった羊が獣に襲われて殺されたことを証明することができなければ、羊飼いが弁償しなければなりませんでした。ですから、羊飼いは、全力を尽くして羊を見つけ出そうとするのです。羊飼いは、おそらく仲間に頼んで99匹を残して、一匹を救い出すために羊を捜しに出かけました。羊飼いにとっては、一匹の羊がそれほど大切な存在だったのです。必死になって探していた羊飼いが羊を見つけた時、どんなに喜んだことでしょうか。私も小学校1年生の頃、母親にこっぴどく怒られたことへの腹いせに家出をしたことがありました。実際は、家出をしたふりをして物置の中に隠れていたのですが、母親も兄もすごく心配して捜しまわっていました。さんざん近所を捜しても見つからなかったのですが、後で物置の中で眠っていた私を見つけて母はあきれ返ったと言っていました。私も、母親にとって大切な存在だったようです。羊を見つけた羊飼いは、皆さんも絵で見たことがあると思いますが、見つけた羊は弱っていることが多いので、羊を両肩に乗せて家に連れて帰ります。羊飼いは、いなくなった一匹の羊が見つかったので、うれしさでいっぱいです。当時の村は小さかったので、彼は、村中の人々や友達に声をかけて「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言います。それほど、羊飼いの喜びは大きかったのです。主イエスは、このように例え話を話した後、パリサイ人と律法学者に向かって言いました。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」これは、主イエスからパリサイ人、律法学者へのチャレンジです。彼らは、取税人や罪びとたちがどんな人生を送ろうとどんな人生の結末を迎えようと、まったく無関心でした。主イエスが彼らに伝えたかったことは、神様は一人の人間も滅びることを望まないで、どこまでも探し続けてくださる神様であるということでした。彼らは神様のために働くことを仕事にしていた人々でしたが、実際には、彼らには神様の心がまったく分かっていませんでした。

(2)なくなった銀貨(8-10節)
 次の例え話は失われた銀貨の話です。これも貧しい田舎に住む一人の女性が主人公として登場します。8節を読みましょう。「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。」この銀貨はドラクマと呼ばれるもので、当時一日働いてもらう銀貨でした。その価値は非常に高価なものではありませんでしたが、その女性にとっては非常に大切なものでした。その銀貨は10枚がセットになっていて、親からもらったものです。それは緊急の時に使うためのものであったり、あるいは結婚の時ためプレゼントでもありました。彼女がどのように一枚の銀貨を紛失したのかは語られていませんが、10枚の銀貨をつなぎ合わせて首飾りのようにして身に着けていたのかも知れません。銀貨をつないでいた糸が切れて、バラバラになりました。9枚は見つかったのですが、どうしてもあと1枚が見つかりません。ユダヤの家は窓が小さくて部屋の中は暗いため、なくなった銀貨を捜すためにはランプが必要でした。また、床には藁が敷いてあったので、ほうきで床を掃くことも必要でした。私も、いろいろなものをよくなくすので彼女の気持ちがよく分かります。大切なものほどなくしやすいです。探すと言う行為は精神的にも本当にエネルギーを使うので探すだけでくたくたになります。しかし、彼女の場合、なくなった一枚の銀貨はどうしても必要なものだったので見つかるまでやめることができません。だからこそ、見つかった時の喜びは大きいのです。私もたいてい「あったー」と叫びます。例え話の女の人も、見つかった喜びがあまりにも大きかったので、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言ったのだと思います。この例え話の後でも、主イエスは、パリサイ人と律法学者に向かって同じことを言っています。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」」主イエスが彼らに伝えたかったのは、神様の心です。失われた人々をどこまでも探し続け、そして、それを見つけた時に、例え話の羊飼いや女性とまったく同じ喜びを感じてくださる心です。彼らには、失われた人々に対する愛がまったくありませんでした。彼らはそのような人々と関わることもしたくなかったのです。2番目の例え話では、銀貨を探す女性が神様を表しています。女性が持っていた銀貨は私たち人間を指しています。銀貨は女性の手元にある限り銀貨としての大きな価値があります。しかし、女性の手から離れて、部屋の片隅に隠れてしまったら、銀貨としての価値は変わりませんが、その銀貨は何の役に立たないまま存在することになります。私たち人間は、神様の手の中にある時には、私たちに与えられている価値を十分に発揮できるのですが、神様の手から離れてしまうと、何の役にも立たなくなってしまいます。しかし、神様はそのような私たちをいつも探し求めておられるのです。今日、ここに集まっている私たちはすべて、この神様によって探し出されて、今、クリスチャンの人もそうでない人もこの礼拝に参加しています。神様は今日もあなたを探し求めておられることを覚えていてください。羊も銀貨も自分から持ち主のところに帰ることはできないのですが、私たちは、神様のところへ戻ることができます。

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