2018年5月6日 『富の正しい使い方』(ルカ16:-13) | 説教      

2018年5月6日 『富の正しい使い方』(ルカ16:-13)

 今日はルカの福音書16章の最初の部分で主イエスが弟子たちに語られたたとえ話を取り上げます。15章の3つのたとえ話は、イエスに敵対するユダヤ教の指導者であったパリサイ人や律法学者たちに向けて語られました。神様の私たちに対する愛と憐れみがどれほど深く大きいものであるのかを伝えることが目的でした。ほとんどのたとえ話では、ある人間やものが誰かを、あるいは何かを表しています。ただ、たとえ話を読むときに注意しなければならないことは、一つのたとえ話が教えるテーマは一つという点です。そうでないと、ある人々はたとえ話にでてくる小さな事柄も何かを例えているのではないかと解釈して、本来、イエスが伝えようとしていたことと関係のないことにも無理やり解釈をすることがあるのです。特に、今日のたとえ話は、イエスが語られたものの中で最も難しいものだと言われていますので、読む時にも、注意することが必要です。最初に覚えておかなければならないことは、このたとえ話は、イエスの弟子たちに向けて語られたものと言う点です。また、主イエスは時おり、人々の寝ぼけた目を覚ますために、人がびっくりするようなたとえ話を語られることもあったことを覚えておきましょう。

(1)不正な管理人のたとえ話
 まず、たとえ話のストーリーを整理しましょう。ある一人の大地主がいました。彼は自分の土地を多くの農夫たちに貸していました。地主はこれらの農夫たちとの事務的な手続きを一人の管理人に任せて、彼自身は恐らく都会で気楽な生活を楽しんでいたと思います。主人が近くにいないことを利用して管理人は不正を働いてひそかに主人の金を盗んでいました。ところが、誰かがこの管理人が不正を働いていると密告したので、地主はこの管理人を呼んで「おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。」地主は管理人の不正を知って彼をクビにしようとしていました。
ここから管理人が行ったことが、今回のたとえ話の中心になります。自分がクビになることを悟った管理人は、将来の自分の生活を守るためにすばやく対策を考えます。「さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしい。」仕事を失うというのに、ぜいたくなことは言えないはずなのですが、彼は力がないから農夫のような力仕事はできないとか、プライドがあるから乞食はしたくないとか言っています。しかし、その時一つのインスピレーションがひらめきました。4節を読みましょう。「 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」この時、不正を働いた管理人は、自分がクビになること、何かの処罰を受けることになることが分かっていました。自分の将来の現実を理解していました。それで、彼は、すべてを失う前に自分の将来を守るための準備を始めました。そのためのプランがひらめいたのです。そのプランを実行すれば、将来、仕事がクビになっても、彼には自分が住むことのできる場所があるのです。この抜け目のない準備をしたことがこのたとえ話ではとても重要です。
 管理人は、主人からクビを宣言される前に、大急ぎで自分が思いついたプランを実行に移しました。彼は、大地主に借金のある人々の所へ行って、彼らに地主から借りた借金の額を減らしてやると話をもちかけました。最初の人は地主に油100バテ分、すなわち油100樽分の借金がありましたが、管理人は勝手にそれを半分の50樽分を減らして借用証書を書き換えました。また、別の人には小麦100コルの借金があったのを80コルに減らして証書を書き換えました。この減額は、金額的に大きなものだったので、管理人は地主から借金をしている人々に大きな恩を着せたことになります。管理人は、このようにしておけば、自分が今の仕事をクビになっても、自分が恩を着せた人々は自分を迎えてくれるだろうという計算だったのです。今の財務省や内閣府の役人の方々も、ある意味で、今少々の不正を働いていたとしても、言われたことをしておけば、後で、良いポストを与えてくれるという思いがあったのと同じようなことではないでしょうか。管理人の行いによって、大地主はさらに自分の財産を失うことになりました。やがて、この大地主は、管理人がやったことを知ることになります。恐らく、この大地主は本当の大富豪だったのでしょう。これだけ管理人に財産を盗まれても、あまり応えなかったのでしょう。そして、大地主は、びっくりするような反応を見せました。8節を読みましょう。「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。」
 この主人が不正な管理人をほめたことがこのたとえ話の中心ですが、そのポイントは何でしょうか。主人は「この世の子」という言葉を使っていますが、この世とは神を信じない人々の世界を意味します。神を信じない人々は、この世の生活には終わりがあることを知りつつ、自分の将来の生活が困らないように抜け目なく準備をしています。私のおばあちゃんも、よく口癖のように「葬式代ぐらいはちゃんと用意しておかないと」と言っていました。クリスチャンからすると、この世のものごとは、すべてこの世の世界だけで一時的なものであり、永遠に続くものではないことを知っています。彼らは、そのことを知らないのですが、それでも、彼らなりに自分の将来について真剣に考え、行動しています。8節の言葉によると、それと比べると、光の子たちは彼らほど、切迫した感じて将来のための備えをしていないと言われています。クリスチャンの将来は、肉体の死と共に終わる一時的なものではなく、永遠に続く将来です。にもかかわらず、多くの信者たちは、自分の永遠の将来に対して抜け目のない準備をしていないとイエスは言われたのです。

(2)このたとえ話はクリスチャンに何を教えているか?
 この主人が管理人の不正をほめたというたとえ話をとおして主イエスは弟子たちに何を教えようとしたのでしょうか。とくに、ここで光の子と呼ばれているクリスチャンの生き方について何を教えようとしておられるのでしょうか。9節で主イエスは言われました。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」ここで「不正の富」と主イエスは言われましたが、これは、たとえ話の中で管理人が行ったような不正なことをして獲得するお金を意味するのではありません。これは原語では、不義のマモンという言葉が使われています。「マモン」とはシリヤやイランの言葉で「財産」や「お金」を意味する言葉でしたが、そこから「マモン」と呼ばれるお金の神様を意味するようになりました。聖書では、金銭を愛することがあらゆる悪の根であるという言葉があるように、人間にとってお金は大きな誘惑でありまた、金儲けは人間の一番大きな欲望です。そのため、世界中に金儲けに関わる神様がいます。インターネットに、お金儲けの福を与えてくださる世界の神様のランキングベスト5が載っていました。日本には戎さんという商売繁盛の神様がいます。私はこどものころ兵庫県の西宮に住んでいましたが、西宮戎神社はその総本山です。そのランキングで世界一になったのはインドの「ガーネシャ」という神様でした。皆さんも見たことがあるかもしれませんが、象の頭の神様です。インドのお店にはどこでも象の頭のガーネシャ像が置いてあるのだそうです。しかし、お金はたくさんの夢を与えますが、私たちの永遠の命には何も役に立ちませんし、むしろ、間違った一時的なもので幸福を与えるというメッセージを送るので、人々を神を信じる信仰から引き離すものです。人々を永遠のいのちに至る道からひきはなしてしまうので、そういう意味で、この世のお金は不義の富、不正の富と呼ばれるのです。主イエスも、マタイの福音書6章24節で「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言われましたが、ここで「富」と訳されているのも「マモン」という言葉です。
 では「不正の富で自分の友を作りなさい」と言われた主イエスの言葉の意味は何でしょうか。世の中の人は、この世の不正の富を使って、自分の老後や将来が困らないように友達、言い換えれば、自分に特になるような人間関係を作ろうとします。では、クリスチャンは、この世のお金を使ってどのような友を造ればよいのでしょうか。クリスチャンは、この世のものはすべて一時的であることを知っています。どんなにお金があってもいつまでも続くことはありませんし、人は死んだらすべてのものをこの世に残していかなければなりません。ルカの福音書に出てくる「愚かな金持ち」は、ある時に、働かなくても一生遊んで暮らせるほどの財産がたまったので、明日からは毎日遊んで暮らそうと思いました。しかし、その時、神様から声がして、「愚か者よ。お前のいのちは今夜取り去られる。するとお前の財産は誰のものになるのか」と言われたのです。このように、この世のものはすべて一時的であることをクリスチャンは忘れてはなりません。クリスチャンが自分の友をつくるとは、どんな友だちでしょうか。それは当然、主イエス・キリストを信じる信仰の友だちです。不正を働いた管理人は、自分の身の安全を確保するために、不正なことをしてでも多くの友達を作って、お先真っ暗な状況を脱出しようと必死になっていました。彼は、そのように必死になって自分の老後を備えをしたとしても、いつかは死ぬのですから、死ぬための準備をしなかったのは愚かなことです。しかし、ここで主イエスが言おうとしたのは、神を知らない人間でさえ、本当の備えではないのですが、将来のための準備を必死にやっているその真剣な姿勢をイエスは褒めているのです。その真剣さに比べると、私たちはどうでしょうか?光の子と言われているキリストの弟子たち、また私たちクリスチャンは、彼らのように、神の国に関することに熱心になっているでしょうか。私たちはこの世で管理するように与えられているこの世のお金を用いて、キリストにある永遠の友だちを得ることにもっと熱心になってほしいというのが主イエスの心なのです。そうすれば、私たちがこの世を去る時も、永遠の住まいである天国で、私たちの友だちも私たちを迎えてくれるのです。この世のお金で、一時的なものを手に入れることもできますが、それを使って、人々に福音を伝えるために用いること、人々を永遠のいのちの救いに導くために用いることに、もっと熱心になることを主イエスは願っておられます。
 主イエスは10節で次のように言われました。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」9節で、イエスが「不正の富で自分の友をつくりなさい」と言われた時に、聞いていた弟子たちは、イエスの教えは自分たちには関係ないと思ったかもしれません。イエスの弟子たちはこの世の財産を持っていなかったからです。そんな弟子たちの思いを見抜いておられた主イエスは、例え持っている財産がどんなに小さくても、人々から信頼される用い方をするように彼らに教えておられるのです。私たちが小さなことに誠実に生きているなら、その人はより大きなことを任されるようになります。重要なのは私が置かれている状況ではありません。それそれぞれ違っています。多く持つ人もいれば少ないものしか持たないひともいます。しかし、大切なのは状況ではなく、私たちの姿勢、私たちの心です。それが、小さなことに忠実に生きるか生きないかを決定するのです。この世のお金と比べると、天国の祝福ははるかに大きなものでありはるかに価値の高いものです。しかし、もし私たちがこの世のお金の使い方において忠実でなければ、私たちは神様の天にある大きな祝福を扱うのにふさわしい者ではありません。私たちは大きい小さいに関係なく、すべてのことにおいて、忠実で信頼される生き方をすることが大切です。
 最後に主が言われたのは、先ほどマモンの時に述べましたが、私たちは神と富に仕えることはできないということです。仕えると言う言葉は、当時多くいた奴隷の状態を表す言葉です。奴隷は主人の持ち物と考えられていて、奴隷はすべての時間自分の主人のために働いていました。奴隷は絶対に二つの仕事をすることはできませんでした。私たちは、罪赦されて神の子どもとなりましたが、同時に、残りの生涯を神様に仕えるために生きることが大切です。私たちはどのような心で、神様に仕えているでしょうか。神様以上に何かを大切にしていないでしょうか?

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