2018年5月20日 『聖霊が注がれる時』(使徒2:1-13) | 説教      

2018年5月20日 『聖霊が注がれる時』(使徒2:1-13)

 今日は、教会のカレンダーでは、ペンテコステと呼ばれる日です。この日は、一般の人々は知りませんが、キリスト教会にとっては、教会が誕生した日として重要な日です。ペンテコステという聞きなれない言葉は、ギリシャ語で50日目という意味で、「五旬節」と呼ばれていました。これはユダヤ教の最大のお祭り、過越しの祭りの日から50日目という意味です。時期的には、イスラエルでは大麦の収穫が終わっていよいよ小麦の収穫が始まる時なので、「刈り入れの祭り」とか、最初の収穫を備えることから「初めての穂、初穂の祭り」とも呼ばれていました。ユダヤ教徒たちは、この日を喜びの日として小麦の収穫の恵みに対する感謝と神様への尊敬の気持ちを表す日としてこの祭りを祝いました。また、この祭りはユダヤ教の三大祭りの一つでもあり、どんな仕事もしてはならず、大人の男性ユダヤ人は神の前に出ることが義務付けられていました。使徒の働きの2章1節によると、このペンテコステの日に「みなが、一つの所に集まっていた」と書かれています。この一つ所がどこなのかと言う点ですが、使徒の働きの1章13節に、人々が、オリーブ山で主イエスが天に引き上げられるのを見届けた後エルサレムに戻って、泊まっている屋上の部屋に入ったと書かれています。その頃そこに集まっていたのは120人ほどでした。今の私たちの教会と同じぐらいの集まりでした。当時、信仰深いユダヤ教徒たちは、今のイスラム教徒のように、一日に三回祈りをささげていました。それは午前9時、午後3時、そして日没の時の3回でした。最初の教会が生まれるという非常に大事な出来事は、これらの人々が集まって祈っている時に起きました。おそらくこの家は、神殿の近くにあった大きな部屋であったと思います。

(1)約束の聖霊が注がれた(1-4節)
 ルカは2節でこのように記しています。「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」ここに集まっていた人々はクリスチャンです。彼らは主イエスがオリーブ山から天に帰られる様子を見届けた人々ですが、彼らは主イエスから、「父なる神の約束を待ちなさい。あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」という言葉を聞いていました。彼らは聖霊が注がれることを期待して祈っていたと思います。それでも、この出来事は彼らの想像を超えたものでした。最初に、激しい風が吹いてくるような音が家中に響き渡りました。ルカが「激しい風が吹いてくるような響き」と書いていますので、それは激しい風の音ではありませんでした。これは神様が起こされた超自然的な出来事だったのです。ただ、風が吹くということには意味があります。というのは、ヘブル語でもギリシャ語でも同じなのですが、「風」という言葉は「霊」という意味や「息」という意味をも持っているのです。聖書の中ではたびたび神の霊が「風」に例えられています。
 激しい風が吹きつけるような音に続いて、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。今度は音ではなく、人々の目に見えるものとして、炎のようなものが現れたとありますから、これも炎ではなく、それに似たものでした。そしてその炎のようなものが分かれた舌のようになり、集まっていた一人一人のうえにとどまるのが見えました。集まっていた一人一人にとどまりました。これは、一人一人の個人的な祈りの答えとして起きた出来事ではなく、神様が、この120人のグループを最初の教会のメンバーにするために、100%神様のイニシアティブで起きた出来事です。「火」は、聖書では神様がおられることを表すシンボルとして用いられています。モーセが神と出会ったのは、燃える柴の中の炎を見た時でした。ですから、ペンテコステの時に炎が現れたのは、神様が彼らとともにおられることの証拠でもありました。しかも、その炎のようなものが一人一人に分かれてとどまったことは、神様と私たちの新しい関係を表しています。主イエスが私たちの罪の罰を十字架の上で私たちの身代わりとして受けてくださり、そして三日目に復活されたことによって、主イエスを信じる人は個人的に神様との関係を持つことができるようになったことを表しています。そして、クリスチャンは神様と直接交わることができるようになりました。その結果、旧約聖書の時代は、自分の罪が赦されるためには、動物を携えて神殿に行き、祭司に祈ってもらわなければならなかったのですが、その必要はなくなりました。今も、私たちは、いつでもどこでも神様に祈ることができますし、聖霊は私たちといつもともにいてくださいます。
 そして、3番目に、炎のようなものが人々の頭にとどまると、彼らは突然、「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました。」ここに集まっていた人々はみな、イスラエルの国内に住んでいる人々なので、彼らの言葉はべブル語です。ところが、ペンテコステの祭りの日には、外国に住むユダヤ人たちもエルサレムに集まっていました。バビロン捕囚の時に、バビロンに残った人々も大勢いましたし、地中海沿岸の都市には、多くのユダヤ人移民が住んでいました。聖霊のバプテスマを受けた人々は、突然、いろいろな国の言葉で神様を賛美し始めたのです。彼らは自分で言葉を選んだのではありません。聖霊の働きのままに語っていたのです。ですから彼らは自分が何をしゃべっているのか分からなかったのですが、この騒ぎを聞いて集まっていた人々が、世界各地から来た人々だったので、彼らがびっくりしました。自分の言葉をしゃべっている人々がいたからです。この出来事は、旧約聖書の時代は神様の契約はユダヤ人という選ばれた民族と結ばれていたのですが、新しい教会の時代は、神様が世界中のすべての国々人々と契約を結ぶ時代であり、すべての人々に神様の救いと祝福が及ぶことを意味していると思います。初めて、聖霊がイエスを信じる人々に注がれたこと、神様の約束がこの時、この場所で実現したことを私たちに知らせるために、このような特別な、不思議な出来事が起こりました。このようにして神様のイニシアティブによって生まれたのが教会なのです。私たちの北本福音キリスト教会も、もちろん、群馬大学医学部の聖書研究会の人々の祈りと支援が大きな土台ですが、まず、これらの人々にビジョンを与えてくださったのは神様ですし、この北本という場所にこの教会が建てられたのも神様のイニシアティブであったのです。

(2)聖霊が注がれた結果起きたこと(5-13節)
 ペンテコステ(五旬節)の祭りはユダヤ教の3大祭りのひとつなので、エルサレムには祭りに参加する人が大勢集まっていました。もともと、当時のエルサレムは国際都市でしたが、それ以上に、海外に住む敬虔なユダヤ教徒は祭りに参加するためにエルサレムにまで巡礼に来ていました。彼らが天から激しい風が吹いてくるような大きな音が響き渡った時に、今まで聞いたことのないような音だったので、何事かと音がしたところを捜して神殿にいた人々が集まって来ました。彼らが、弟子たちが集まっていた家に着いた時、びっくりしました。120人の人々が一斉にいろいろな国の言葉で神を賛美する声を上げていたのですが、その中に自分の言葉を話す者たちがいたからです。しかも集まっていた人々のほとんどがガリラヤ人でした。なぜ、これらの人がガリラヤ人だと分かったのかは不明ですが、大音響を聞いて集まった人は驚き怪しんで、「これらの人々はみなガリラヤ人ではありませんか」と叫びました。ユダヤ人の間では、ガリラヤ人は田舎者と見られていました。ほとんどのガリラヤ人は貧しく、教育を受けていない無知な人々と見られていたのです。エルサレムに住んでいる人々は都会人で、教育も受けていましたから、無知なはずのガリラヤ人がいろいろな外国の言葉で話していることが理解できませんでした。9節から11節にいろいろな地名が出てきます。これらは、現在のイランやイラク、トルコ、エジプト、北アフリカなどの地名です。最後に、ローマ人もいたと書かれています。いわば、当時の世界のほとんどの国出身の人々が集まっていて、聖霊を受けた人たちは、それだけの多くの言葉で神を賛美していました。ユダヤ人たちは神を賛美することを非常に大切なこととしていました。詩篇を読むと、何度も「神をほめたたえよ」、「神に感謝せよ」、という言葉が出てきます。この様子を見ていた人々の多くは、彼らが神を賛美している姿を見て「あの人たちが神の大きなみわざを語るのを聞こうとは、どうしたことか。」と驚いています。ユダヤ教の指導者たちはイエスを信じる者たちは神を冒涜する者たちと思っていたのですが、彼らが真実の神のすばらしさを力強く賛美しているので、彼らが神を冒涜する者たちではないことが明らかになりました。そして、この後、12弟子のひとりのペテロ、ユダヤ人を恐れて「イエスを知らない」と3度も否定したあのペテロが、神から注がれた聖霊によって新しい力に満たされました。そして、自分たちをとりまく大勢のユダヤ人たちを恐れることなく、大胆に「悔い改めて、主イエスを救い主と信じ、この曲がった世の中から救われなさい。」と説教しました。すると、その日、3000人もの人が主イエスを信じて洗礼を受けました。このようにして、世界で最初のキリスト教会がエルサレムに誕生したのです。

(3)ペンテコステの意味
 今から2000年ほど前のペンテコステの日に、世界で最初の教会が生まれました。これは何を意味するのでしょうか。第一に、聖霊は一人一人の祈りの求めに応じて神から注がれたのではなく、集まっていた120人ほどのグループ全体に注がれました。教会を建て上げることは、神様の永遠の計画の中で定まっていて、神様のタイムテーブルに従ってその時が来ました。そのことは、私たちのような一つの小さな地域の教会にも当てはまります。私たちの教会も、根本にさかのぼると、神様の計画の中で始まったことです。
 第二に、ペンテコステの日に三つの不思議なことが起こりました。(1)激しい風のような音がしたこと。(2)燃える炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまったこと、(3)集まっていたガリラヤ人たちが世界中の言葉で神を賛美し始めたこと、この3つです。さきほども言ったように、風ということばには「霊」という意味もあります。教会の第一の特徴は聖霊に注がれた人々の集まりであることです。私たちが感じる感じないに関係なく、主イエスを救い主だと告白する者は聖霊が注がれていると1コリント12章に記されています。第二に、「火」は神様ご自身の臨在を意味し、また火は不純物を取り除いてきよくする働きがあります。教会には、私たち人間だけでなく神様ご自身がいつもともにおられることを意味します。また、神様は、救われた私たちをいろいろな方法で清い者にしようと働かれることを意味します。
 第三に、彼らが突然世界各国の言葉で神様を賛美したことは、神様と人間の約束事は、それまでユダヤ人だけに限られていましたが、主イエスが来られて十字架と復活を経験されたことにより、世界中の人々との約束事に変わったことを意味しています。つまり旧約の時代から新約の時代に移りました。また、教会は福音を世界中の人々に宣べ伝える使命が与えられていることも忘れてはなりません。私は時々東京のミャンマー人教会に招かれて説教をしに行きますが、彼らは本当に信仰熱心で、いつも私のほうが教えられることが多いです。ミャンマーは多民族国家で、大きな部族が7つあってそれぞれ言葉が全然違います。東京の教会にはチン族やカチン族の人が中心ですが、その民族の人々はほとんどがクリスチャンです。ミャンマーへの宣教師で有名なのがアドニラム・ジャドソンです。彼は24歳の時に妻とともに当時のビルマに出かけたアメリカ人宣教師です。そして、様々な困難を乗り越えて61歳で召されるまで38年間ビルマで宣教を続けました。最初の6年間は一人も救われる人が起こされず、彼の働きを批判する人もいましたが、彼はあきらめませんでした。6年目についにムング・ナウという人が救われ、洗礼を受けました。その後も、迫害や船が漂流してひどい高熱に襲われたこと、イギリスとビルマの戦争が起こったことで投獄されたこと、妻が37歳で、娘がその6か月後に亡くなったことなど、つらい経験が次から次へと彼を襲いましたが、彼は、その後もビルマで働き続け、彼の働きをとおして何千人もの人が救いに導かれました。その働きの結果、今なお、ある民族はほとんどがクリスチャンなのです。ジョセフ・ラルトン先生は、今カナダに住みながら、アメリカやヨーロッパにいる多くのミャンマー人難民のために福音を大胆にかたり続けています。私たちの教会は小さな教会かもしれません。しかし、神の霊が注がれ、神様の臨在が与えられていることを忘れてはなりません。ジャドソンは6年間一人も救われる人がいなかった時に、実りのない宣教活動を批判された時、次のように答えました。「私の将来は、神の約束と同じぐらい明るいのだ。」神様がこのように生み出してくださった教会に一員であることを忘れず、私たちも、福音を携えて出て行く一人でありたいと思います。

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