2018年5月27日 『金持ちとラザロの永遠の運命』(ルカ16:19-31) | 説教      

2018年5月27日 『金持ちとラザロの永遠の運命』(ルカ16:19-31)

 今日の箇所は、たとえ話なのか実際の話なのか議論されることが多いのですが、いずれにせよ、主イエスが、この話をとおして教えようとされたことは、私たちが死んだ後どうなるのかということです。はっきり言えば、死んだ後、すべての人には2つの永遠、すなわち天国と地獄の2つの世界が待っているということです。クリスチャンで天国の存在を信じていない人はいないと思いますが、地獄の存在を信じていない人は多いようで、地獄について話すことを避ける傾向が強いです。私も牧師として聖書から説教をする立場にありますが、天国についてはいくらでも語りたいと思いますが、地獄について話すことには少しためらいがあります。ところが、主イエスは、天国についてよりも、地獄について語ることがはるかに多かったのです。マタイの福音書だけで、主イエスは16回も地獄について語っておられます。そのうちの一つを例に挙げますが、マタイ10章28節で主イエスは次のように言われました。「 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」これは私の大好きな言葉の一つです。他人が自分に行う最悪の働きは殺すことです。しかし、人間は他人の体を殺すことはできても、魂まで滅ぼすことはできません。たとえ、私たちが誰かに殺されることがあったとしても、主イエスを救い主と信じるクリスチャンが神から引き離されることは絶対にありません。だから、主イエスは、ここで、そんな人間を恐れるのではなく、体も魂も滅ぼすことのできる神を恐れなければならないと言われました。ある人は、地獄という考えは残酷で不公平だと思います。そして、「なぜ、愛の神が人間を地獄に追いやるのか、おかしいじゃないか?」と言います。神様は決して人が地獄に行くことを願ってはおれらません。神様は一人の人が滅びることを望まないで、すべての人が永遠のいのちを受けることを願っておられます。そして、そのために、罪のないひとり子イエスを十字架にかけてくださったのです。だれもが十字架を見上げれば永遠の滅びに入ることなく天国での生きる永遠のいのちを与える道を作ってくださったのです。聖書は、はっきりと、地獄があると警告しているのであって、そこに行くか行かないかを決めるのは私たちなのです。聖書が繰り返して地獄について語っているのは、私たちへの警告です。地獄の現実をしっかり見なさいという警告なのです。東日本大震災の時も、津波が来ることを考えていなかった人が大勢いました。また津波警報がなっていても、それほど重大なことと考えていなかった人もいました。警告を真剣に聞くか聞かないか、その姿勢が人の運命を決めました。私たちは今の生活が大事に思えるため、自分の永遠の運命について無関心であることが多いのですが、主イエスは、永遠の運命がどれほど大事であるのかを教えるために、金持ちと貧乏人ラザロの話をされたのだと思います。

(1)金持ちと貧乏人ラザロの生活の違い
 19節を読みましょう。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」この金持ちはいつも紫の衣や細布を着ていたと書かれています。当時、布を紫色に染めるためには地中海でとれるシジミのような小さな貝を使っていました。この貝は紫色の液体を吐き出すのですが、その量は僅かなので、布を染めるためには大量の貝が必要でした。しかも、作業が大変でしたので、紫色の布は非常に高価なものでした。細布と訳されているものは、高級なエジプトの木綿でつくられた下着でした。有り余るほどの財産があったので、この金持ちは、毎日仕事もせず、きれいな服を身にまとい、おいしいものを食べ、自分の好きなことをしながら楽しく過ごしていました。一方、それとは対照的に、金持ちの家の前には「ラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。」彼は病気のために動くこともできず、金持ちの家の門の前で寝ていました。恐らく、彼の家族も彼の看病をすることができず、金持ちの家の前に捨てたのだと思います。病気と栄養不足のために彼の体中にできものができていました。いつもお腹がすいていて、金持ちの家からごみとして捨てられる食べ残しを食べたいと願うほどでした。当時の習慣として、食事は手で食べることが多かったので、汚れた手を拭くためのパンがテーブルに置かれていました。人は手が汚れるたびに柔かいパンで指を吹いて、それを犬にやるために床に捨てていました。貧乏人のラザロが食べたいと思っていたのは、この食卓から捨てられる指を拭くためのパンだったのです。彼の体中におできができていて、犬がその傷をなめていました。人間的に、これほどみじめな生き方はありません。不思議なことに、イエスは金持ちには名前を付けていませんが、貧乏人にはラザロという名前を付けています。「ラザロ」と言う名前は、イエスと親しかったマルタとマリヤの弟と同じ名前です。ラザロとは「神が助ける者」という意味を持っています。彼は、当時の社会において、また、この金持ちにとっても、まったく生きている意味がない名前もないような人間でした。しかし、主イエスは、この人は素晴らしい名前を持つ大切な一人の人間であることをその名前で表し、また、その名前のとおりに、彼が神様の助けを受けて天国に導かれたことを示しています。逆に、この金持ちは、彼が住んでいた社会においては非常に有名な人物で、だれもが彼の名前を知っていたはずですが、彼は、神の前には名前もないような人物であったことを示しているように思います。
 やがて、二人とも死ぬ時を迎えます。先にラザロが死にました。22節にこう書かれています。「この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」彼は、おそらく自分の体をマヒさせていた病気で、だんだん弱って行って死んだのでしょう。何の治療も受けることなく、苦しみと空腹の中で死んで行きました。もちろん彼のための葬式をあげる人はいません。ホームレスの死体は、エルサレムの南にあったヒンノムの谷に投げ捨てられました。そこはゴミ捨て場でもあり、いつもごみが燃やされていたので、谷からはつねに煙が上っていました。地上の人間から見るとこれほどみじめな死に方はなかったでしょう。しかし、実際にはこれは素晴らしい死だったのです。というのは、彼の肉体はヒンノムの谷に投げ捨てられましたが、彼のたましいは、み使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれたからです。それから間もなくして、金持ちも死にました。22節に「金持ちも死んで葬られた」と書かれていますので、この金持ちのためには盛大に葬式が執り行われたと思います。日本でも、世間体を気にしてお金のかかる葬式をする場合がありますが、この人は、本物の金持ちですから、非常に豪華な葬式が行われ、多くの人がその式に参加したことと思います。そして、立派な墓に葬られました。地上の人間から見ると、この人は非常に恵まれた人生を歩んだ人間だとみなされたことでしょう。しかし、彼のたましいはみ使いによってアブラハムのふところに運ばれることなく、ゲヘナと呼ばれる神から遠く離れた苦しみの場所へと落とされてしまいました。
 貧乏人のラザロも金持ちも死んでこの世を去り、それぞれのたましいは永遠の世界に映されました。ラザロのたましいはパラダイスと呼ばれるところへ、金持ちのたましいはゲヘナと呼ばれるところへ移されました。ラザロのたましいは、22節によると、「アブラハムのふところ」に移されました。彼が死んだ時、彼の死を悲しむ人はなく彼の遺体はヒンノムの谷に投げ捨てられました。しかし、彼のたましいはアブラハムのふところに移つされたのです。最後の晩餐の時、主イエスの右側にはイエスを愛した弟子ヨハネがいました。ヨハネは主イエスと親しく交われる場所にいたのです。それと同じように、ラザロは天国で用意されたパーティーのテーブルでアブラハムの隣と言う名誉ある場所に座ったのです。ラザロは貧乏人だから、そこに導かれたのではありません。不幸な人生を歩んだからでもありません。そこに移されたのは、ラザロが神様を信じ、聖書の言葉を信じていたからです。彼は、人間的にみて、家族に捨てられ、貧しくみじめな人生を過ごしました。しかし、彼は神様への信仰を失うことがなかったのです。普通、人は苦しみを経験すると、神に対して怒り、信仰を失うことが多いのですが、彼は、人生最後まで苦しみとみじめさを味わい続けたのですが、それでも神様への信仰を失いませんでした。彼の信仰が彼のたましいをアブラハムの懐へと導きました。
 一方、金持ちも死んで、豪勢な葬儀が行われて、彼の遺体は立派な大きな墓に葬られました。地上の人間から見ると、彼の人生は勝利者の人生でありました。しかし、彼の魂はハデスに行きました。23節に「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。」と書かれていますので、彼ははっきりとした意識の中で苦しんでいることが分かります。ラザロも同じようにはっきりとした意識の中でアブラハムの懐に導かれて喜びと永安を感じています。このことから分かるように、人は死ぬと、そのたましいは眠るのではありません。存在がなくなるのでもありません。主イエスを信じていても信じていなくても、たましいははっきりとした意識の中で生き続けます。一方はパラダイスで、もう一方はハデスで生き続けるのです。そして、ハデスにいる魂はパラダイスが見えるようです。金持ちは、苦しみから逃れたくて、アブラハムに向かって叫びました。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」彼は、永遠の苦しみから抜け出せないことは分かっていたのですが、一時的にでも、その苦しみを忘れたいと願ったのです。指先に浸した水が炎の中に苦しんでいる魂にどれだけの時間、苦しみを忘れさせることができるのか、それは分かりませんが、本当に一瞬のことだと思います。しかし、それを願いたくなるほどゲヘナの苦しみは大きいのです。

(2)金持ちの訴え
 この金持ちは、死んだ後気が付いてみると自分がゲヘナにいることにびっくりしたと思います。彼は自分は死んだら天国に行くと思い込んでいたと思います。ユダヤ人たちの考えでは、金持ちであるということは神様からの祝福だと考えていました。ですから、主イエスが弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」と言った時、弟子たちは非常に驚いたと書かれています。(マルコ10:24)彼は、金持ちだったからハデスに送られたのではありません。彼が神を信ぜず、また聖書の言葉も真心から信じていなかったので、ハデスに行ったのです。ハデスでは人ははっきりとした意識を持っていますし、また、ハデスからパラダイスの様子が見えることが分かります。彼は、いつも家の前で寝ていたラザロがパラダイスにいるのを見てびっくりします。それで、アブラハムにお願いします。「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。」死ぬ前の世界と死んだ後の世界はまったく違います。にも拘わらず、この金持ちは、死んだ後も自分の家の前にいる貧乏人だとみなしているのです。アブラハムの隣という栄誉ある席にいるラザロは、神の目には名誉ある人間なのですが、金持ちは生きていた時の考えを変えることができないのです。しかし、アブラハムの答えは彼にとって厳しいものでした。「 子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」アブラハムは金持ちを「子よ」と呼んでいます。確かに、ユダヤ人の血筋を引いている人はみなアブラハムの子です。しかし、人の永遠の運命は生まれによって決まるのではありません。主イエスを信じる信仰が歩かないかで決まります。金持ちは、地上で生きている時は、人々の悲しみや苦しみにはまったく無関心で、ただ自分が面白く楽しく、豊かに生きることだけを考えて、神を信じることなく、神から遠く離れて生きていました。かつてはあれほど裕福な生活をしていたのに、今は、苦しみの中で、家の前にいた汚いホームレスだったラザロの手から一滴の水を求める哀れな者になっていました。しかも、パラダイスとハデスの間には越えることのできない大きなふちがありました。
 金持ちは後悔していました。それで、自分の兄弟たちが自分と同じ苦しみに会うことがないように、ラザロを地上に送って彼らに警告の言葉を言ってもらいたいとアブラハムに願いました。しかしアブラハムは彼の願いに対して次のように答えました。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」ここで「モーセと預言者」と言われているのは旧約聖書のことです。アブラハムは言いました。誰でも、神を信じるためには聖書の言葉を読み、それを信じるだけで十分だと言う意味です。聖書に記された神の言葉を信じないのであれば、ラザロが死から復活して金持ちの兄弟たちに語っても彼らは信じないということです。今でも、よく人は言います。「神を見せてみろ、そうすれば信じてやる。」あるいは、なにか奇跡の働きでも起これば、神を信じる。」という人もいます。しかし、神の答えは、「聖書の言葉だけで十分である」です。しるしを求める人は、神を信じると言っても、それは本当の信仰ではありません。不思議なしるしを信じているだけで、神に信頼し神のために生きると言う思いはないのです。

 ある本に次のようなストリーが記されていました。アメリカの西部開拓時代のことです。ある西部の町で、突然、幌馬車の馬が興奮して全速力で走りだしました。その馬車には一人の少年が乗っていました。この様子を見たひとりの若者がいのちがけで追いかけて馬を捕らえて幌馬車をストップさせました。少年は助け出されました。何年もたって、この少年は犯罪を犯すような人間になり、重大な犯罪を犯して裁判にかけられました。裁判所で、その男は、裁判官が、昔こどもの時に自分を助けてくれた若者であることに気が付きました。それでその男は裁判官に憐れみを乞いました。「あの時、私はあなたに助けてもらいました。どうか、この私にもう一度憐れみをかけてください。」すると、その裁判官は答えました。「若者よ。あの時私はあなたを救った。しかし、今は、私はあなたをさばく者だ。私はあなたが犯した犯罪に対する刑罰を宣告しなければならない。」主イエスは、2000年前に、私たちを罪の裁きから救い出す救い主として来られました。そして十字架と復活によって罪が赦される道を開いてくださいました。しかし、主イエスはもう一度この世に来られます。その時は、私たちを裁く者として来られるのです。主イエスは言われました。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」あなたは、このイエスの警告の言葉にどの応答しますか。

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