2018年6月3日 『謙遜な人の4つの特徴』(ルカ17章1-10節) | 説教      

2018年6月3日 『謙遜な人の4つの特徴』(ルカ17章1-10節)

 今日からルカの福音書の17章に入ります。いよいよ主イエスが十字架にかけられる時が近づいており、主イエスと弟子たちはエルサレムに向かっていました。主イエスは、最後の最後まで弟子たちが学ぶべきことを教え続けておられました。15章からずっと、いろいろなたとえ話も含めて、主イエスの教えが語られています。イエスの周りには、12人の弟子たちのほか、イエスを信じる人々もいましたが、イエスに反対するユダヤ教のリーダーたちもいました。彼らは主イエスの教えを聞いても、その教えに耳を傾けず、むしろイエスのことをあざ笑っていました。彼らは、宗教に熱心な人々でしたが、それは、神を礼拝するためではなく、自分が正しい人間であることを人に見せびらかして、人々から褒められることを求めていたからでした。また、彼らは自分が正しい人間であると思い込み、周りの人間を上から目線で裁いているような傲慢な人間でした。彼らの問題はプライドでした。プライドとは、自分を実際よりも高くする心で、いつも自分が一番という心です。実は、それが人間の罪の根源であって、神様が忌み嫌うものでした。旧約聖書の箴言の中に、神様が憎むもの、忌み嫌うものが7つ挙げられていますが、最初に書かれているのが「高ぶる目」でした。だから、神様は自分を高くする者を低くし、自分を低くする者を高くするのです。一方、主イエスの生き方の特徴を一言で言えば謙遜です。主イエスは神であられるのに、神としての栄光も権威もすべて捨てて私たちと同じ人となってくださり、最終的には恥と屈辱そのものである十字架の死を遂げられました。今日の箇所であるルカの福音書17章の1節から10節には、4つのバラバラの教えが書かれているように思えるのですが、そこに共通するテーマがあって、それは謙遜に生きるということです。これは主イエスが弟子たちに語られた教えですが、主イエスは弟子たちにパリサイ人たちのような生き方をしないように、イエスの弟子にふさわしい生き方が何であるのかを教えておられるのです。主イエスを信じる者はみな、主イエスの弟子です。従って、ここで語られた主イエスの教えは私たちに対する警告の言葉でもあるのです。主の弟子にふさわしい生き方とはどんな生き方なのか、4つの点から考えたいと思います。

(1)小さな者につまづきを与えない生き方(1-2節)
 第一の教えは、他の人につまずきを与えない生き方です。2節を読みましょう。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」激しい言葉が語られています。ここで主が「この小さい者たち」と言われましたが、これは誰のことを指すのでしょうか。もちろん、年齢的に幼いこどもそこに含まれていますが、平行箇所のマタイの18章6節に「わたしを信じるこの小さい者たち」と記されていますので、これはまずクリスチャンを指していることが分かります。そして、小さいとは単に年齢のことだけではなく、まだ信仰を持って間もない人、信仰の弱さを感じている人、信仰生活で助けを必要としている人などを表していると思います。ですから、ここでつまずきを与えるのは世の中のすべての人を指しているのではなく、教会の中ので、主イエスを信じる者たちの集いの中で互いに他のクリスチャンのことです。北本福音キリスト教会にも、様々な人が集まっています。私自身も神様の導きがなかったらこの教会のメンバーにはなっていなかったと思います。教会を表すギリシャ語は「エクレシア」ですが、これは「この世から神様によって呼び出された人々」という意味を持っています。つまり、教会とは神様が選んで集めてくださった人々の集まりなのです。ですから、私たちは、たとえ自分とは性格が合わないメンバーがいたとしても、「なんであの人がこの教会のメンバーなんだ」と言うことはできません。神様によって選ばれ集められた一人一人だからです。私たちは愛のない言葉や行いによって人を傷つけ、その人の信仰をダメにすることも十分にあり得ることです。だから、私たちは、自分の肝に銘じて、自分の言葉や行いが人々につまずきを与えることがないように、いつもしっかりと注意しておかなければなりません。主イエスは「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」と過激な言葉を言われましたが、ユダヤ人は海を恐れていたようで、天国にも海はないと考えています。彼らにとってひきうすに縛られて海の真ん中でおぼれ死ぬことはものすごく怖いことでした。ただ、もちろん、これは実際にその人を海に投げ込めと言っているのではありません。人をつまずかせることは本当に深刻な罪なのですが、私たちは意外と自分が他の人をつまずかせていることに気づかないことが多いのです。私たちの心は自己中心なので、相手からの一言や一つの行いによって心が傷つけられますが、自分の言動が周りの人々を傷つけていることに気が付かないことが多いのです。だから、私たちは、この罪の深刻さをしっかりとらえておくために、私たちは、この罪を犯すぐらいなら石臼に括りつけられて海に投げ込まれたほうがましだと言うぐらいに心に緊張感を持つことが必要だという教えです。

(2)赦す心を持つ生き方(3-4節)
 主が、次に教えられたことは、人が罪を犯した時にどのような態度を取るべきかと言う教えです。3節にはこう書かれています。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」主は、まず「気をつけていなさい」と言われました。それは、パリサイ人や律法学者のようであってはならないという意味です。人が罪を犯した時に、自分が正しい人間だと思い込んでいたパリサイ人はその人を厳しく裁きました。しかし主イエスは、弟子たちに、罪を犯した人が罪から抜け出せるようにその人を助けることを命じています。その第一ステップは、その罪をその人にはっきり罪だと指摘することです。ところが、実際には、誰かが罪を犯した時に、それを知った人がその罪に無関心であったり、また、それを本人に言わずに他の人に話してゴシップにしたりすることが多いのです。 このことについてはマタイの福音書にもっと詳しく書かれていますが、原則は、まず本人のところに行って二人だけのところで罪を指摘することです。そこで、その人が悔い改めたら、その人を罪から取り戻すことができたのです。もし、二人きりのところで聞き入れない場合は、他にひとりか二人を連れて言って、その人たちの証言によって事実を確認します。そこでも聞き入れない場合は、教会全体で取り扱うことになります。しかし、ここで、主が特に教えたかったことは、もし、罪を犯した人が心から悔い改めたのであれば、その人を赦しなさいということでした。4節では、「かりに、あなたに対して一日に7度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われました。当時のユダヤ人は、3回までは赦さなけらばならないが、4回目は赦さなくてもよいと考えていました。マタイの福音書では、弟子のペテロがイエスに質問をしました。「人が罪を犯したら7回まで許せばいいのですか。」ペテロは3回よりも4つも多く言ったので、それでよいと主が答えると思っていたのですが、イエスの答えは「7回とは言わない、7を70倍するまで許しなさい」というものでした。それは、相手が悔い改めている限りどこまでも赦しなさいという教えです。聖書は、神は愛であると言われていますが、その愛は、特に私たちを赦す愛です。主が十字架にかけられた時も、最初に言われた言葉は、自分を十字架にかけた人たちの赦しを求める祈りの言葉でした。なぜ、私たちは赦さなければならないのでしょうか。それは、まず、私たちが神様に赦された者だからです。私たちはなかなか自分の罪の深さが分からないのですが、罪のない神の御子を十字架にかけるほどに、私たちの罪は深くて大きいのです。主イエスがたとえ話で言われたのですが、ある人が主人の財産の6000億円を失ってしまいました。しかし、寛大な主人はその損失をすべて帳消しにしてやりました。しかし、その許された人は、自分の知り合いに300万円を貸していたのですが、相手が返さないので、その人は貸してあげた人間を牢屋にぶち込んだのです。自分は6000億円もの損失を赦してもらったのに、自分が貸した300万円を帳消しにすることができませんでした。このたとえ話は、私たちは神様からたくさん赦されているのに、ほかの人を少し赦すことさえできないということです。私たちは、まず自分がどれほど多く神様から赦されたのかを覚えておかなければなりません。
 アメリカの大学である実験が行われたそうです。人を赦すことができない71人のボランティアに対していろいろな検査をしたところ、これらの人々は急激に血圧が上がったり、不整脈になったり、筋肉の緊張が見られました。憎しみや恨みを持つことは人の体や感情をすり減らすことが分かったのです。この実験を行った教授は次のように言っています。「赦すということは、起きたことを見逃すことでも大目に見ることでもなく、自分に悪を行った人からの束縛を断ち切ることなのです。」

(3)自分の弱さを認める生き方(5-6節)
 イエスの弟子たちは、赦しに関するイエスの教えを聞いていて、自分にはそれを実行するだけの信仰がないことに気が付きました。彼らには、「人が悪いことをしても、悔い改めたら赦しなさい、しかも、何度それが繰り返されても、赦しなさい」というイエスの教えがあまりにも難しいことに思えたからです。私たちは、聖書の教えが厳しいと感じると、「自分にはできない」とあきらめてしまい、神様の教えに従うことをやめてしまいます。しかし、弟子たちは、自分の無力さを認めた時に、あきらめるのではなく、主イエスに「私たちの信仰を増してください。」と言って、主イエスに助けを求めました。彼らは自分たちの信仰が十分ではないことを認めました。
すると、主イエスは答えました。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」からし種は、教会の裏庭にも植えられていますが、種はものすごく小さいのですが、成長すると、鳥が枝に巣を作ることができるほど大きな木になります。また、桑の木は地下の根がすごく発達する木で、簡単に抜くことができません。ここでイエスが言われたのは、信仰は大きいとか小さいの問題ではなく、心から、あるいは幼子のように単純に、神を信頼しているのかどうかが問われるのです。主イエスは、どんなに小さくても、主イエスを心から信頼するなら、桑の木を抜くような困難なこともできると約束してくださいました。信仰がなければ、私たちは自分の力以上のことはできません。しかし、からし種程の信仰であっても、純粋に主イエスを信頼する信仰があれば、自分の力では絶対にできないと思えることもできるのです。謙遜な人は自分の弱さを認めます。そして神様を信頼するので、実は力ある人になることができるのです。エペソ3章20節で、パウロは神様のことをこう述べています。「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」私たちも自分の弱さを認めましょう。しかし、それを嘆くのではなく、自分の弱さのうちに働いてくださる神様を信頼しましょう。
 アメリカで実際にあったことですが、カイル・マクドナルドという人が仕事を失いお金が無くなってしまいました。そこで彼が思いついたのは、インターネットで、自分の持っているものを他の人と交換するというサイトがあって、彼はまず自分が持っていた赤い紙をはさむクリップを魚の形のペンと交換しました。次にそれをドアノブと交換し、その次にそれを小さなストーブと交換し、次にストーブを発電機と交換し、その発電機をスノーモービルに交換して行きました。これを1年続けて、最後には彼はカナダの田舎に一軒の家を手に入れることになったのです。この話は本になり、映画にもなったのだそうですが、彼のストーリーは、一つの赤いペーパークリップから始まりました。私たちの信仰もからし種のように小さくても、それを働かせる時に、自分でも驚くようなことを、主ご自身が私たちのうちに行ってくださると信じましょう。

(4)主のしもべとして生きる生き方(7-10節)
 主イエスの時代には、奴隷が多くいました。奴隷は主人から命令されたことを全部しなければなりませんでした。しかも、言われたことを全部行っても特別に主人から褒められることはありません。奴隷が主人の命令に従うことは当然のことだったからです。奴隷が一日の農作業を終えて疲れて家に帰っても、奴隷は休むことはできません。まず、主人のために食事の準備をしなければなりませんでした。それが終わって、ようやく夕食を食べることができるのです。主人の仕事が常に第一に優先されました。私たちクリスチャンにとっても、何よりも優先するべきことは神様のために働くことではないでしょうか。み言葉の命令に従うこと、神の御心を行うこと、これが私たちが何かをすることを決める時に、第一の動機でなければならないのです。クリスチャンが神の命令に従った時、特別なことをしたのではありません。当然のことをしたまでなのです。また、私たちが神様のために行ったことは、神様の栄光のために行ったことであって、自分が人から褒められるためにしたことではありません。私たちがこのような生き方をして続けて行くならば、神様が私たちを用いてくださり、また、私たちを助けてくださって、神様のために大きな働きができる者になるのです。
 

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