2018年6月10日 『感謝の心を持つ人』(ルカ17章11-19節) | 説教      

2018年6月10日 『感謝の心を持つ人』(ルカ17章11-19節)

 今読みましたルカの福音書17章11節から19節までの出来事は、主イエスが弟子たちとともに、十字架にかかるためエルサレムへの最後の旅の途中で起こりました。この最後の旅は、ルカの福音書では、9章の51節から始まりました。この最後の旅の間に、主イエスは5つの癒しの業を行いましたが、今日の出来事はその4番目です。それまでの3回の癒しは、一人の人の癒しでしたが、今回は、10人が同時に癒されるというものだったので、これまでの3回の癒しよりもはるかに大きな業であったことが分かります。当時の人々が最も恐れていたハンセン氏病を患っていた人が10人同時に癒されたのは、まさしく、神様の力を証明するものであり、だれも神の無限の力を否定することはできません。ここで「ライ病」と訳されているのは「レプラス」というギリシャ語ですが、この言葉は、あらゆる皮膚の病気を表す言葉でしたが、それらの病気の中で最も重いものがハンセン氏病でした。この病気については紀元前600年、つまり今から2600年前の中国の書物にも登場するそうで、世界で最も古い病気の一つです。この病気はユダヤ人社会の中にもよく見られる病気だったために、旧約聖書のレビ記の中にも、この病気について詳しく書かれた箇所があります。(13-14章)この病気は感染するものであると同時に、人間の顔や皮膚を崩してしまうことがあるので、人々からとても恐れられていました。そのために、患者は家族や社会から切り離されてしまいますし、また、人々は、この病気は罪のさばきだと考えていました。

(1)病気が癒された10人
 さきほども述べたように、この出来事は主イエスが十字架にかかるためにエルサレムに向かって最後の旅をしておられる途中に起きた出来事です。ヨハネの福音書の11章には、イエスの友人であったラザロが主イエスによって死からよみがえるという奇跡が記されていますが、そのためにユダヤ教のリーダーたちがイエスを殺す計画を立てます。それで、ヨハネの11章54節を見ると、イエスと弟子たちはユダヤ人たちから離れてエフライムという村に入ったと書かれています。エフライムは北のガリラヤ地方とサマリヤ地方の境にありましたので、おそらく、この時に、今日の出来事が起きたと考えられます。イエスと弟子たちがこの村に入られた時、10人のライ病人が遠く離れたところに立っていました。当時、ライ病患者が他の人に近づくことやライ病患者以外の人々と交わることを禁じています。また、ライ病の感染を恐れて、ライ病患者は、エルサレムをはじめ、城壁で囲まれている都市入ることも禁じられていました。患者は健康な人に2メートル以内に近づくことができず、また、相手の人が患者の風下にいる場合は、45メートル以上離れていて、「私は汚れています」と叫ばなければなりませんでした。13節には、彼らは声を張りあげて叫んだと書いてあるので、この日は彼らの方からイエスに向かって風が吹いていたようです。彼らは大声で叫びました。「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」ここで、彼らは主イエスを「先生」と呼んでいますが、この言葉は、福音書では12弟子以外は、誰も使っていない言葉です。彼らは、主イエスがガリラヤ地方やサマリヤ地方で行われた様々な癒しの奇跡の噂を聞いていたので、イエスには自分たちの病気さえも癒すことのできる特別な力を持っていると信じていました。彼らの病気は、当時は絶対に治ることのない病気で、彼らの日々の生活は、社会から隔離され、同じ病気仲間以外とは交わりを持つことができず、絶望に満ちたものでした。彼らには、イエス以外に頼れるものが何一つなかったのです。彼らは主イエスに懇願しました。「私たちをあわれんでください。」彼らの願いが主イエスに届きました。14節にこう書かれています。「イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」主イエスは、以前にもライ病を癒されたことがありました。ルカの5章に記されていますが、この時、一人の患者がイエスを見るとひれ伏して、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と願いました。すると、この時は、主イエスは手を伸ばして、彼の体にさわって、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。すると、ただちに、その病気が消えました。しかし、この時は、主イエスは彼らが10人いたこともあったと思いますが、彼らにさわって「きよくなれ。」とは言われずに、彼らにただ「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」とだけ言われました。その時は、彼らはまだ癒されていませんでした。実は、当時、この病気が完全に治ったことを宣言するのは祭司の務めでした。レビ記の13,14章に詳しく書かれていますが、非常に詳しい検査が1週間行われてはじめて、その人の病気が治ったことが祭司によって宣言されたのです。主イエスが彼らに「祭司の所に行って自分の体を見せなさい。」と言われたのは、彼らの信仰を試されたのだと思います。病気が治ってもいないのに祭司のところに行く人はいませんし、主がこの言葉を言われた時には、彼らはまだ治っていませんから、彼らは自分の病気は癒されると信じないと、祭司のところへは行けないのです。14節に、「彼らは行く途中にいやされた」と書かれています。彼らはイエスの癒しを信じて、聖書の教えに従って、祭司のところへ体を見せるために出かけて行きました。そして、その途中に、彼らの病気は癒されました。主イエスの特別なパーフォーマンスが何もないところで彼らは癒されたのです。私たちは、人間的な考えに縛られて、癒されるためには主イエスが手を置いて「いやされよ。」と宣言されないと癒されないと考えがちですが、全能の神は、どのような方法でも、私たちを癒すことのできるお方なのです。皮肉なことですが、主イエスの教えや奇跡の業にいつも反対していたのはユダヤ教の指導者たちであり、祭司たちも含まれていました。そんな彼らが、、主イエスの奇跡によって癒されたこれらの患者の病気が完全に癒されていることを宣言することになるのです。

(2)信仰による救いを得た一人(15-19節)
 主イエスから「祭司のところへ行って自分の体を見せなさい」と言われて、10人は、皆、一緒に祭司のところへ向かいました。彼らは心を一つにして、主イエスに病気の癒しを願い、皆、一緒に、主イエスの命令に従って祭司のところへ向かっていました。その途中で、突然、彼らの病気が完全にいやされました。彼らは、みな、長年苦しんできた病気がすっかり癒されているのを知って、どれほど驚き、どれほど喜んだことでしょう。彼らは自分たちの生活がまったく新しくなると思うと希望で胸が膨らみました。その時、彼らのうちの一人が、自分が癒されたことが分かると、ただ喜ぶだけでなく、自分の病気を癒してくださった神様を大きな声でほめたたえながら、主イエスのところへ戻って来ました。そして、主イエスの足元にひれ伏して、主に感謝しました。祭司のところに行く途中に10人が同じように病気の癒しを体験したのですが、10人のうち、一人だけが、自分に起こったことにはどのような意味があるのか、それを正しく理解したのです。ほかの9人は自分の病気が癒されたことだけで十分で、それ以上のことを求める心をもっていませんでしたが、只今一人だけ、主イエスの癒しだけでなく、イエスの教えに従いたいという思いが与えられていました。そのような思いを持ったこの人は3つのことを行っていますが、そこに彼の信仰が現れています。第一に、彼は、大声で神をほめたたえました。ライ病はのどをもだめにするので、彼は本当に何十年ぶりに大きな声を出したと思います。彼は、病気が治ったことを喜んで叫んだのではなく、自分の病気を癒してくださった神様をほめたたえるために叫びました。第二に、彼はイエスの足元にひれ伏しました。ひれ伏すというのは神を礼拝する姿勢です。彼は主イエスを神から遣わされた救い主だと認めていることを表しています。そして、最後に主イエスに感謝を表しています。私たちが神様に祈りを捧げていろいろな願いごと神様に伝えます。すると、確かに神様が働いて自分の祈りが聞かれたことを感じる時があります。その時、私たちは、自分の願いが実現したことばかりを喜んで、願いをかなえてくださった神様に感謝の心を表すことを忘れることがないでしょうか。もちろん、他の9人も、後で神殿に行った時には、感謝の祈りを捧げたと思いますが、この人は、いわば、ただ礼拝の時に感謝をささげるのではなく、すぐに、主イエスの前に行って自分の感謝の心を伝えたかったのです。ここに、彼と他の9人の主イエスに対する考えの違いがはっきりと表れています。私たちも、この人のように、神様が行ってくださることだけではなく、神様ご自身に対して感謝の心を持つ者でありたいと思います。
 さらに、この人について驚くべきことは、彼がサマリヤ人であることでした。サマリヤ人とはユダヤ人と外国人の血が混じったハーフで、彼らは互いに憎み合っていました。普通の場合、彼らが言葉を交わすことはありませんでした。ただ、この場合、ライ病という重い病気を持つと言う共通点があったので、彼ら10人は一緒に生活をしていましたが、もし、病気がなかったら、彼らが一緒に生活することはなかったはずです。また、多くのユダヤ人は、神様がサマリア人の病気を癒すことは想像もしていなかったと思います。しかし、実際には、ヨハネの福音書によると、主イエスが自分が神から遣わされた救い主メシヤであることを最初にはっきりと示したのはサマリヤの村に住む女性でしたし、その女性をとおして多くのサマリヤ人が救いに入れられています。ここで、主イエスはこのサマリア人に3つの質問をしています。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」主イエスは、自分の病気が癒されたことを経験した10人全員が、このサマリヤ人のように、神を賛美しながら戻って来ることを期待しておられたと思います。そして、彼らに、体の癒し以上に大切な、罪からの赦しと永遠のいのちを与えたいと思っておられました。しかし、他の9人は、自分の病気が癒されて健康を回復したことだけで満足して、彼らには、主イエスに感謝を表そうという考えが思いつかなかったようです。彼らの病気は、確かに、癒されました。しかし、一人の人間として、病気が癒されるだけでは不十分です。彼らが、ただ健康を回復したことだけで喜んでいれば、もしかすると、今まで病気の時にはできなかった様々な悪いことや快楽に陥ることもありうることだからです。彼らは自分が願っていたものを手に入れましたが、イエスを神と認めて、イエスに従おうとしなかったために、魂の救いを得ることができませんでした。しかし、このサマリヤ人に対して主イエスは言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」ここで、「直した」と訳されているところは、14節で、「彼らはいやされた」と訳されている言葉とは違う言葉が使われています。これはギリシャ語の「ソーゾー」という動詞なのですが、新約聖書では、普通、罪から救われる時に用いられています。ですから、このサマリヤ人は、奇跡的に肉体の病気を癒されただけではなく、罪からの赦しと永遠のいのちをも与えられたのです。一方、ほかの9人は、自分がほしいと願っていたものを手に入れると、そのことを喜びましたが、その働きを行った主イエスに感謝する心がありませんでした。サマリヤ人のように、主イエスを救い主として認め、イエスに従って生きることをしませんでした。彼らの体は癒されましたが、彼らの罪が赦されることなかったのです。

 今日の出来事が教えているのは、私たちはみな、主イエスに関して2つの道を選ぶと言うことです。神様が行ってくださった恵みの業を経験することに満足する生き方と、その働きをしてくださった主イエスを救い主、主人として受け入れ、主イエスのもとに来て、主イエスご自身に感謝する生き方です。信仰とは、神様と個人的な関係を持って生きることです。一方的に愛され、罪赦され、神とともに生きることができることを感謝する心が、信仰の心です。私たちは、主の働きを喜んでいるでしょうか。それとも、主イエスを知り、主イエスとともに生きることを感謝しているでしょうか。

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