2018年7月8日 『貧しいやもめの祈り』(ルカ18章1-8節) | 説教      

2018年7月8日 『貧しいやもめの祈り』(ルカ18章1-8節)

 前回、ルカの福音書の17章の最後の部分から語りましたが、そこで、主イエスは、「神の国」ということについて弟子たちに教えておられます。ユダヤ人たちは、「神の国」と聞くと、自分たちが外国人の支配から解放されて、自分たちの国が誕生することだと考えていました。当時、彼らはローマ帝国の支配の中で苦しい生活を強いられていたからです。「神の国」という教えは主イエスも繰り返し語っておられますが、ユダヤ人の考えとはずいぶん違っていました。主イエスは、「神の国」とは、地上に神が支配する国が建設されることではなく、神を信じる人々の心の中で神様が聖霊をとおして働かれることを意味しておられました。それで、主イエスはルカ17章の21節で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と言われたのです。同時に、聖書は、将来、世の終わりの時に地上に神の国が実現することも預言しています。その時に、復活の主であり今は天において私たちのためにとりなしの祈りをしておられる主イエスが、再び来られるのですが、この出来事から世界は一気に最終段階に突入することになります。現在、私たちは、主イエスキリストがこの世に来られて字架にかけられ三日目に復活されたことによって実現した神様との新しい関係の時代を生きています。しかし、地上にはまだ神の国はなく、この世界は多くの悪や罪、神に反対する力が満ちています。そのため、クリスチャンとして生きることは簡単なことではありません。日本では、あまり強烈な迫害はありませんが、それでも、人々からからかわれたり、馬鹿にされたり、仲間から外されたりということはあります。イエスの弟子たちも、周囲にイエスを憎む人々が多くいたため、不安を感じたり失望を感じたりすることがあったようです。そんな彼らに対して、主イエスは、今日の箇所で、弟子たちに対して、心の中に神の国を持つ者として、全知全能であり、この世界のすべてをお創りになった神様を信頼し、つねに神様に祈ることの大切さを教えておられます。

(1)絶えず祈り、失望してはならない(1節)
 18章1節にこう書かれています。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」イエスは弟子たちが、これから厳しい試練を経験することを知っておられました。自分が弟子たちを残して去っていくことが、彼らにとってどれほど大きなことなのか分かっておられたので、イエスは彼らに例えを話されました。「いつも祈るべきであり」と書かれていますが、この箇所は、17章の終わりの部分で語られたことの続きになりますので、ただ一般的に祈ることではなく、世の終わりの時、主イエスがもう一度来られることを求めて祈るように教えておられます。主イエスがもう一度この世に来られることを「イエスの再臨」と言いますが、主イエスご自身が何度もそのことについて語っておられます。私たちは、主イエスが最初に来られた時と2度目に来られる時の間の時代を生きています。そして、主イエスがこの世をさばくためにもう一度来られることを信じています。当時の弟子たちは、主イエスに対する反対が非常に強かったために、彼らは、すぐにでも主イエスに、もう一度この世に来てほしいと願っていました。しかし、主イエスが17章の終わりのところで教えられたように、主イエスは弟子たちが願っていたように来ることはありませんでした。それは神の計画とは違っていたからです。そこで、イエスは、ひとつの例えを用いて彼らに絶えず祈って失望しないことの大切さを教えられました。

(2)不正な裁判官とやもめのたとえ(2-5節)
 ある町に、神を恐れず人を人とも思わない裁判官がいました。主イエスは、当時の人々が持っていた旧約聖書の中の戒めので最も大切なものは、第一に全力を尽くして神を愛することであり第二に、隣人を自分自身のように愛することであると教えておられました。ですから、この裁判官は聖書の最も大切な二つの戒めを守ろうとする気持ちが全くない人間でした。そんな人間が裁判官という、社会の中の正義を守り秩序を守る責任ある立場についていましたから、それが社会にどんなにひどい影響を与えていたか想像できると思います。そんな裁判官に立ち向っているのがひとりのやもめでした。彼女が3節で「私の相手をさばいて、わたしを守ってください」と訴えているので、このやもめは誰かに騙されてお金を取られたか何かで生活に困っていたようです。当時は女性が働くことはありませんでしたから、やもめは当時の社会の中でもっとも生活が大変な人々でした。そのため、神様はやもめに対して特別な憐れみを示しておられます。出エジプト記22章22節で、神は戒めとして「すべてのやもめ、またみなしごを悩ませてはならない。」また、申命記24章17-21では、神様は、農夫に対して、穀物やオリーブやブドウを収穫する時に、一部を在留異国人やみなしごややもめのために残しておかなければならないと命じておられます。このたとえ話のやもめは、詐欺にあって、無一文になってしまったので、律法に基づいて裁きを行ってもらい、助けを得ようとしていました。また、彼女にはお金がなかっただけでなく、夫をなくした後、彼女の面倒を見る親戚もいなかったことが分かります。当時は男性中心の社会ですので、女性が自ら裁判所に訴えに来ることはめずらしく、たいていは親戚の男性が代理で訴えに来ていました。彼女が自分で裁判官のところに来ていたことから、彼女には自分を助けてくれる人が誰もいなかったことが分かります。そのため、彼女は必死になって裁判官に訴えました。最初は、相手にもされませんでしたが、彼女はあきらめませんでした。いくら門前払いにされても、彼女は何度も何度も裁判官のところに来ました。
 最初、この裁判官は、神を恐れず人を人とも思っていませんから、彼女を全く相手にせず、裁判官でありながら、彼女を助けようと言う気持ちはさらさらありませんでした。しかし、このやもめは全くあきらめる気配がありません。彼女は、何度も何度も訴えに来ました。あまりのしつこさに、裁判官が耐えられなくなりました。4,5節で彼はこう独り言を言っています。「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめはうるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしがたがない。」ここで2番目に「うるさくて仕方がない」と訳されているギリシャ語は「ヒュポピアゾー」というのですが、もともとの意味は「目の下を殴る」というです。文字通り、このやもめは、しつこく訴えに来ることによって、裁判官の目の下にパンチを食らわせたのです。か弱い女性が権力を笠に着たような裁判官を打ち負かしたのです。それで、この裁判官は、やもめのために正しい裁判をして彼女を助けることにしました。

(3)この例えをとおして主が教えておられること(6-8節)
 6,7節でイエスは言われました。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」ここで主が言われているのは、不正な裁判官と神様のコントラストです。不正な裁判官は神を恐れず、人を人とも思わない冷酷な人間であり、自分の裁判官としての責任についてもまったく無関心でした。そのような人間的に見て最低の人間であっても、しつこい頼みには根負けして、ただ、自分が楽になりたいというだけでの理由ではありましたが、やもめの願いを受け入れました。そのような不正な裁判官と比較をして、主イエスが弟子たちに質問しました。「神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」やもめはまったく弱い立場の人間でしたので、不正な裁判官は最初は相手にしていませんでした。彼に取って、やもめはどうでもいい人間でした。それでも、彼は、まったく不当な理由ですが、やもめの求めに応じました。だとすれば、私たちを愛しておられる神様、昼も夜もまどろむことなく私たちを見守っておられる神様、罪深い人間のために自分にとって最も大切なひとり子イエスのいのちをも惜しまずに与えてくださった神様なら、どれほどすばやく、どれほど喜びをもって、神の民の祈りに答えてくれるのか、それは明白なことだと主イエスは言われたのです。聖書の中には、神様がどれほどの熱い思いをもって私たちのことを考えておられるのかということが繰り返して記されています。例えば、旧約聖書のイザヤ書では、預言者イザヤが神様について次のように述べています。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。」クリスチャンは、聖書によれば、この世界が創られる前から神によって選ばれていた者であって、そして今、信仰に入っているのです。神様はご自分が選ばれた民をどこまでも愛しておられます。そして、神の民のために常に最善のことを最善の時に行ってくださる方です。ただ、神様のタイミングが私たちのタイミングと違う場合があります。主イエスが親しくしていたラザロが病気で死んだ時、彼の姉マルタとマリヤはすぐに主イエスに来てもらって、弟のために祈ってもらいたいと願っていました。二人から連絡を受けた主イエスは、不思議なことに、すぐに行くことをせず、あえて出かけるのを遅らせました。そのため、主イエスがラザロのもとに着いた時には、彼が死んですでに4日が過ぎていました。二人の姉はすごくがっかりして、主イエスに「もう少し早く来てくださっていれば、弟は助かったのに」と言いました。しかし、イエスは彼女らに「信じる者は神の栄光を見るのだ」と言って、「ラザロよ。墓から出て来なさい。」と大声で叫びました。すると、ラザロが死からよみがえったのです。もし、イエスがすぐに来ていたら、この奇跡は起こらなかったでしょう。神様にはちゃんと計画があって、それに基づいて働かれます。ですから、私たちの祈りの答えは、必ずしも、自分が願っていたことが、自分が願っていた時に、自分が願っていた方法で起きるとは限りません。」聖書に記されているように、神様はすべてのことを働かせて、私たちに最善のことを最善の時にしてくださいます。そのため、時には神様の答えが遅いように思える時がありますが、それは、神様が何もしていないから遅れているのではなく、神様が最善の時を計算して、そのための準備をしておられるからなのです。神様は必ず愛する民のために働いてくださいます。だからこそ、私たちは祈り続けることが必要なのです。私たちの祈りは決してむなしく終わるものではありません。神様は、必ず、私たちの祈りを聞いてくださり、神様の御心に従って最善のことを行ってくださいます。あなたはそれを信じるでしょうか。

(3)主イエスの質問(8節)
 8節で主はこう言われました。「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」主イエスは、必ず、この世にもう一度来てくださいます。聖書が約束しているから間違いありません。ただ、主イエスは心配しておられます。主が再臨される時に、地上の人々にイエスを信じる信仰が見られるだろうかと。聖書を見ると、主イエスが再臨される時、キリストに反対する力がますます強くなり、厳しい迫害が起こることが預言されています。私たちクリスチャンを取り囲む状況はますます悪くなると預言されています。しかし、必ず主イエスは再臨され、私たちは必ず勝利を経験するのです。主イエスが私たちに求めておられるのは、世の終わりの厳しい状況の中でも、一人一人のクリスチャンが聖書の言葉を信じ、神様を信頼して、神様の助けを求める祈りを続けることなのです。
 星座の「こと座」にリング星雲という煙の輪っかのような星雲があるそうです。実は、この星雲は毎日1億キロの長さで膨張しているそうです。ところが望遠鏡で見ると、まったく膨張しているようには見えないとのことです。近くではものすごいことが起きていますが、肉眼ではその様子はまったく分かりません。信仰の世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。私たちが何度祈っても、何事も起こっていないように思える時があります。しかし、それは、自分の目で見るからそうなのであって、実は、神様の目で見るといろいろなことが起きているのかも知れないのです。私たちも、いつも自分の周りの状況を自分の視点で見るだけでなく、時には、神様の視点で見ることが必要ではないでしょうか。その時に、神様が働いておられるのが見えると思います。イザヤ書には、私たちの信仰の目を開けとの神の言葉が記されています。40章10-11節と27-28節を読みましょう。

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ書40:10-11)

「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」
(イザヤ書40:27-28)

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