2018年7月29日 『誰が天国に入るのか』(ルカ18章15-17節) | 説教      

2018年7月29日 『誰が天国に入るのか』(ルカ18章15-17節)

 この時代、ユダヤ人の母親が、自分の子供が神様からの特別な祝福を受けるために、ユダヤ教の有名な教師のもとに連れてくることがよくありました。教師が幼子のうえに手を置いて祝福の祈りを捧げるのでした。今日の箇所で、母親たちは、ユダヤ教の教師から自分のこどものために祈ってもらいたいと言う強い思いで、イエスのもとに集まって来たのだと思います。当然のことですが、子供が何人か集まるとにぎやかになります。その様子を見た弟子たちは、腹を立てました。弟子たちは母親たちに向かって「子どもたちがうるさいだろう。先生の働きの邪魔になるじゃないか。帰りなさい。」と言って叱りつけました。弟子たちは、小さな子供たちは主イエスの大切な時間を使うほどの価値はないと考えていたからです。しかし、主イエスは彼らを喜んで受け入れました。そして、子供たちを呼び寄せました。マルコの福音書を見ると、イエスは子どもたちを一人一人腕に抱いて、彼らの上に手を置いて祝福の祈りをされました。母親たちはどれほど喜んだことでしょうか。そして主は次のように言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」この言葉を見ると、天国に入るためには2つの条件があることが分かります。第一に、主イエスが16節で「神の国はこのような者たちのものです」と言われているので、天国に入るためには、人はこどものようでなければならないことをことが分かります。第二に、主は17節で「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言われていますので、天国に入るためには、こどものように神の国を、天国のことを、つまりは福音を受け入れる者でなければならないと言うことです。第一にこどものような者でなければならないこと、そして第二に、子供のように神の国、神の教えを受け入れる者でなければなりません。

(1)こどものような者(16節)
 16,17節で「子ども」と訳されている言葉は幼い子どもを意味する言葉です。幼子や赤ちゃんの特徴は何でしょうか。第一に、幼子は自分一人では何もできません。母親から裸で生まれて来る赤ちゃんは、母親や誰かの世話を受けないと生きて行くことはできません。他の動物の場合、例えば、馬の場合、生まれてすぐに自分の足で立ち上がり、歩けるようになりますが、人間の場合は、歩けるようになるまで1年もかかります。神様は人間をそのようにお創りになりました。天国に入るのもそれと同じです。私たちの中に、天国に入る資格を持っている人は一人もいません。世界中にただの一人もいません。私たちは、修行をしたり良い人間になる努力をして天国に入ることはできないのです。先週、ボーマン先生が言われたように、私たちは、主イエスの十字架によって示された神様の恵みによって天国に入ることが許されるのです。今日の出来事の直前に、主イエスは神殿で二人の人の祈りを聞きました。一人はパリサイ人という宗教家で、彼は祈りの中で自分がどれほどまじめな宗教生活をしているかを述べました。もう一人は不正を働いていて人々から嫌われていた取税人(税金取り)でしたが、彼は自分の中に神に向かって誇れることが何もなかったので、ただ一言、「こんな罪びとの私をあわれんでください。」とだけ言いました。そして主イエスは弟子たちに言われました。「この二人のうち、神様に受けいられたのはパリサイ人ではなく取税人ですよ。」神様に受け入れられる人とは、自分の中に神に認めてもらう資格がなにもないことを正直に認める人なのです。
 第二に、子どもは大人と違って、驚く心、感動する心が強いと思います。子どもの時にあれほど感動していたのに、大人になるとすべてが当たり前のようになり感動する心が薄れます。主イエスは、人々に教えるときに身近なものを例えして話されました。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。」大人は空の鳥を見ても野の花を見てもあまり感動しないのですが、子どもは、鳥や花を見て驚いたり感動したりする心を持っています。NHKに「チコちゃんに叱られる」という番組があります。何気ない質問をコンピューターグラフィックの5歳のチコちゃんが大人に質問して、大人が答えられないと「ぼっーと生きてんじゃねえよ。」と顔を大爆発させて叱るという番組です。その中で、先日、「なぜ、年を取れば、時間が早く過ぎるように感じるのか」という質問がありました。よく言いますね。30代は時間は時速30キロで過ぎて行き、60代になると時速60キロで過ぎて行くと。NHKはいろいろな専門家に尋ねて、チコちゃんをとおして答えを教えてくれるのですが、この質問の答えは、「こどもの心はいろいろなものにときめくが、大人はときめかないから」というものでした。実際に、子供に「昨日何したの?」と尋ねると、いっぱい何をしたのか答えが返ってきます。しかし、この番組のアシスタントの30代の女性に尋ねると、30代にもかかわらず「うーん」と言うだけで答えがありませんでした。昨日の一日の中に、彼女にはときめくものがなかったからでしょう。私たちクリスチャンも、最初に信じて神の子どもとして生まれ変わった時に、いろいろなものがうれしくて、神様にありがとうって言いたい心を持っていたのに、いつの間にか信仰生活が長くなると最初の感動が薄れてくることはないでしょうか。言い換えれば、神様に対する愛が冷えてきたのではないでしょうか。ヨハネの黙示録の2.3章に主イエスが、現在のトルコ地方にあった7つの教会に書き送った手紙があります。それぞれの教会は激しい迫害を経験していました。それぞれの教会には立派な点もありましたが、問題もありました。最初の手紙はエペソにあった教会に書き送られたものです。エペソには当時世界の7不思議の一つに数えられたアルテミスの神殿があったため、教会は特別に激しい迫害を受けていました。神様もそのことをよく知っていましたので、「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」と言っておられます。エペソ教会のクリスチャンは立派にそして勇敢に教会生活を守っていたのですが、神様の目には、彼らのうちに一つの問題が見えていました。それが、「あなたは、はじめの愛から離れてしまった。」という問題でした。彼らは、信仰生活、教会生活を長く続けるなかで、迫害に耐え信仰を守ることに必死になって、いつの間にか、クリスチャンになったばかりの頃の、救われたことの喜び、神様の愛に対する感動の思いが薄れていたのです。神様にとっては、私たちがどのような行いをするのかというよりも、神様に対してどんな心を持っているのかのほうが大切なのです。私たちは、救われたばかりのころの感動や喜びや神様に対する感謝の心が薄れていないでしょうか。
 第三に、子どもは、大人よりも謙遜だという点です。先ほども言いましたように、宗教熱心だったパリサイ人が神殿に行って祈った時に、彼は、「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と、自分が悪いことをしていないことと、まじめに聖書の教えを守っていることを、まるで他の人に聞かせるように、自慢げに語りました。これは祈りではなくて、自慢話でした。私たちの教会の教会学校の子供たちもお祈りする時がありますが、パリサイ人みたいな祈りをする子どもはいません。お祈りの中で、自分のことを自慢する子どもはいません。私が先月手術を受けて一度教会学校を休んだのですが、その時、子どもたちが真剣に私のために祈ってくれたと聞きました。子どもたちは、自分が何か大きなことをやったとは考えていません。むしろ、まだ大人みたいに自分にはいろいろなことができないと考えています。主イエスは、パリサイ人の祈りを聞いた後に言われました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」主イエス、ご自身の生き方が謙遜そのものでした。神であるのに、自分の身分や立場にこだわらないで、私たちと同じ人間になってくださいました。そして、最後は十字架という本当にみじめな死に方を私たちのために自分から選んで受けてくださいました。クリスチャンとは、キリストの真似をして生きる者という意味です。私たちも、子どもの謙遜な心を持つ者でなければなりません。

(2)子どものように受け入れる者(17節)
 17節で主イエスは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」主が言われた、「子供のように受け入れる」とはどのような意味があるのでしょうか。それは、単純で絶対的な信頼を表しています。よく、お父さんが赤ちゃんを高い高いして持ち上げていますが、もし、赤ちゃんを持ち上げているのがお父さんでなければ、赤ちゃんは大変危険な状況にいることになります。しかし、父親であれば問題ありません。自分の子供を愛する父親が子どもに悪いことをすることはありませんから。だから、子どもは親に対して完全な信頼をしています。そして、赤ちゃんは、周囲を取り巻く、経済状態が最悪でも、危険がいっぱいあっても、台風や地震が起きても、親の腕に抱かれていれば安全であることを確信しています。神について、主イエスについて、いろいろな人がいろいろなことを言います。全部、自分勝手な考え方であり、感想です。しかし、人が何と言おうと、聖書の神様は私たちの父なる神様です。だから、何も恐れる必要はありません。ダビデが「主は、わたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。」と告白したように、私たちも神様に対する絶対的な信頼を告白しようではありませんか。
 また、こどもは変に遠慮することがありません。大人に何かプレゼントしようとすると、相手の人は、「これをもらうと後でお返しをしなければならないから面倒だ。」など、いろいろな理由をつけて、受け取らないことがあります。しかし、子どもは遠慮しません。プレゼントをもらうことを素直に喜びます。信仰とは、神様が差し出してくださった素晴らしいプレゼントを素直に受け取るだけなのです。先週、読まれた聖句エペソ2章8節を読みましょう。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」最後の「神からの賜物」とは、言い換えれば、神様からのプレゼントです。それをいろいろ考えずに、素直に喜んで受け入れる人が天国に入ることができるのです。

 今日の説教の題は、「誰が天国に入れるのか」という質問でした。答えは、だれでも入ることができます。ただ、天国に入るためには、私たちは、神様に対して子どものような心をもっていなければなりません。また、子どもが受け取るように受け取らなければなりません。私たちは人生を長く生きて行くと、これまでの経験が私たちにいろいろなことを考えさせるようになって、神様が私たちのために特別に用意してくださった、主イエスの十字架と言う福音、良い知らせを、なかなか素直に受け取ることができません。天国に入るために自分たちでできるものは何もありません。むしろ、持っているもの身に着けてしまったじゃまなものを脱ぎ捨てないと、入れないのです。あなたの永遠の運命は分かっていますか?あなたは、死んだ後に天国に入る確信がありますか?あなたも、こどものように素直な心で天国に入りませんか。

2018年7月
« 6月   8月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教