2018年8月5日 『天国に入ることの難しさ』(ルカ18章18-30節) | 説教      

2018年8月5日 『天国に入ることの難しさ』(ルカ18章18-30節)

 先週の箇所では、主イエスが、子どもたちを腕に抱いて、「神の国はこどものような者たちのものである。こどものように神の国を受け入れなければ決してそこに入ることはできない。と教えられました。わたしたちが永遠のいのちを得るために必要なのは、こどものように自分にはそれを手に入れる力がないことを認めること、そして、神様を信頼し神様が与えてくださる約束をそのまま受け入れることなのです。それに続く今日の箇所に登場するのは、ある役人です。しかし、彼は単なる役人ではありませんでした。23節を見ると彼は大変な金持ちでした。しかも
マタイの福音書を見ると彼はまだ青年でした。今風に言うならば、楽天の三木谷社長や、ホリエモンのような能力があり影響力のある人間だったに違いありません。つまり、この役人は、主イエスが言われた「こどものような者」とは真逆の人間でありました。彼は、何でも自分の能力や財産で、実行することができます。その彼が、おそらく主イエスが子どもを抱いて、「こどものように神の国を受け入れなければ決してそこに入ることができない」と言われた主イエスの言葉の意味が分からなかったのではないでしょうか。彼は、自分でも言っていますが、頑張って旧約聖書に記された神からの命令を守っていました。ところが、どんなに一生懸命に律法を守っていても、自分が天国に入ることができるのかどうか、確信がありませんでした。今日のテーマは、この有能で裕福な青年が探求していた「永遠のいのちです。」彼は、イエスを試すためにイエスのところに来たのではなく、真剣に答えを求めてイエスの所へきていました。また彼が探求していたのは永遠のいのちです。聖書は、「永遠のいのち」は、肉体のいのちよりもはるかに重要なものだと教えています。肉体のいのちは長くても90年から100年で必ず終わりが来ます。永遠のいのちは永遠です。どちらが大切なのかは明かなはずなのですが、多くの人は、永遠のいのちよりも、地上のいのち、地上の生活だけを考えています。その点では、この若い役人は、大切な問題の答えを求めている、本当にまじめな人物でした。

(1)若い役人の質問(18-19節)
 18節を読みましょう。「 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」彼は、若くして役人としての地位を獲得し、大変な金持ちになっていました。役人とは、おそらくユダヤ教会堂の役人だと思われます。彼はユダヤ教の信仰にもまじめであり熱心でした。おそらく、その会堂に属する人々からは非常に尊敬されていたことでしょう。しかしながら、彼は心の中に不安を感じていました。永遠のいのちが自分のものになっていると言う確信がなかったからです。彼は、この世の生活では非常に成功していたのですが、その成功が生きるために必要なすべてではないことを知っていました。だから、彼は自分に足りないものを確信し、それを得たいと強く願っていました。それで、その答えを求めて、またその答えを教えてもらえることを期待してイエスのもとに来ました。彼の選択は間違っていませんでした。彼はユダヤ教の教師や、祭司にところへは行かず、主イエスに答えを求めたからです。彼はイエスのことを「尊い先生」と呼んでいます。ただ、彼は主イエスは普通のユダヤ教の教師とはどこか違うもの感じて「尊い先生」と呼んだのであって、イエスが「神」であることは理解していませんでした。それで、主イエスは彼に向かって「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」と言われました。これは、簡単に言うと、「あなたは私が神であることが分かっていますか?」と言う意味です。このように彼は、人間的に見れば、まったく非の打ち所がない人物で、私たちであればただ尊敬のまなざしで見つめるだけなのですが、主イエスは、彼の心の中の問題点をはっきりと見抜いておられました。「尊い」と言う言葉は神にのみ使うべき言葉であること、そして、イエスを「神」と認めることが、彼の問題の解決になるのだということを教えようとしておられます。どんなに彼が人間的に優れていても、神から離れていては意味がないのです。

(2)主イエスからのチャレンジ(20-23節)
 主イエスは、彼の問題の核心をつくように答えています。「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」まず、主イエスは、旧約聖書に記された律法の土台であるモーセの十戒の後半の戒めを守るようにと言われました。モーセの十戒は、神様が人間に与えた最初の律法で10の戒めがあり、前半が神との関わりに関する律法で、後半が他の人間との関わりに関する律法です。律法の役割が何かと言うと、神様が要求する正しさのレベルを人間に示して、人間にはそれを完璧に守ることはできないと言う気付きを与えさせることです。神の国はこどものようなもののためだと言われた主イエスの言葉の意味は、神様の前に立つときに、私たちは、大人の前に立つこどものように、自分の中に頼りとするものが何もないことを認める人だけが神の国に入ることができるという意味です。主イエスは、この役人がそのことを理解していないことを知っておられたので、あえてこのようなことを言われました。私たちも、親や先生や上に立つ人から
「ルールを守りなさい」と言われて、すぐに「ちゃんと守っています」と答える時に、その守っているというのが、自分の判断に基づいて、自分の考えでは守っていると思っていても、実際、周りの人から見ると、ぜんぜん守っていないことがあります。この役人は、確かにまじめな人間で、他の人以上に律法を守る努力をしていたのは間違いないでしょう。しかし、本当に彼は神様が要求するようなレベルで守っていたのでしょうか。彼は答えています。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」彼は正直に答えているのですが、彼は自分のレベル、自分の考えによってすべて守っていると思い込んでいたのです。使徒パウロは、クリスチャンになる前は、この役人と同じ考えを持っていました。彼はピリピ書3章5-6節で、そのころの自分について語っていますが、こう言っています。「私は、律法についてはパリサイ人、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」しかし、彼は、クリスチャンを迫害し、当時有名だったステパノというクリスチャンを殺すことに賛成していました。律法の中に「隣人を自分自身のように愛せよ。」とか「殺してはならない」という律法があるにも関わらず、クリスチャンになる前のパウロは平気でそのようなことをしていました。それでも自分は律法を完全に守っていると思い込んでいました。彼はクリスチャンになって初めて、自分がどんなに大きな罪を犯していたのかということに気がつきました。ですから、彼は別の手紙では、自分のことを「罪びとのかしら」と呼んでいるのです。
 しかも、この時、実は、主イエスは十戒の中で一つだけ言わない戒めがありました。それは、十戒の最後の戒めですが、それは「貪欲であってはならない」というものでした。主イエスは、この役人の問題が、物や財産を持っていることへのこだわりであることを見抜いておられました。
それで、「そのようなことはみな小さい時から守っております。」と答えた役人に向かって言いました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」この言葉を聞いて、役人は非常に悲しみました。彼が金持ちだったからです。ただ、私たちは、全部の持ち物を手放すことによって救われるのではありません。イエスは、この役人が「自分はすべての律法を子どものころから全部守っている」と思い込んでいたので、そうではないことを彼に示すために、彼が守っていない律法を持ち出されたのです。もし、この役人が彼の言葉どおりすべての律法を守っていたすれば、貧しい人が困っているのを見ても自分の財産を使って助けないなら、彼は「隣人を自分自身のように愛する」という律法を守っていないことになります。ヤコブ書2章10節には、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と書かれています。彼は、すべての律法を守ってはいなかったのです。主イエスは、すべてのクリスチャンに「持ち物をすべて売るように」要求するわけではありません。罪からの救いは、私たちの行いによって与えられるのではなく、自分が罪人であることを認めて、主イエスの十字架により頼むことによって救われるのからです。また、主イエスはすべての人に貧しい者になれと命令しておられるのでもありません。人は、貧しいからと言って、金銭を愛する心から解放されるとは限らないからです。貧しい人もの中にも金銭を愛する欲に支配されている人もいます。

(3)イエスの教え(24-30節)
 イエスの言葉を聞いて、この若い役人は悲しみながらイエスから立ち去って行きました。彼は多くの財産を持っていて、イエスの言葉に従うことができなかったからでした。彼を見て、イエスは弟子たちに言われました。「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」当時のユダヤ人たちは、裕福であることは神様からの祝福と考え、また、お金持ちは、貧しい人々にたくさんの施しをすることができるので、普通の人々よりもより簡単に天国に入れると考えていたようです。しかし、ここで主イエスが言われた言葉の意味は、金持ちが自分の財産を用いてよい働きをして、天国に入ることは不可能であるということなのです。聖書の教えは、永遠のいのちを得るのは、何かよいことをした結果ではなく、イエス・キリストから永遠のいのちをいただくことです。私たちがありもし自分が何らかのことを成し遂げたと考えるなら、むしろ、それは永遠のいのちをいただくことの妨げになります。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」という言葉は、もともとペルシャのことわざから来ているそうです。ペルシャでは、ラクダではなく像でしたが、当時のイスラエルには像はおらず、一番大きな動物がラクダだったので、このような表現に変わりました。いずれにせよ、この言葉が意味しているのは、すべての人にとって神の国に入ることが難しいと言っているのではなく、どんなに裕福な人であっても、人間的な手段や方法を用いて天国に入ることは不可能だという意味なのです。この若者は、天国に行く確信がなく心に平安もありませんでした。それで、彼は、イエスの所に来て、神様との関係を持って、自分の問題を解決しようとしました。彼は、自分のやり方で天国に入る確信を持つことができると考えていました。これが彼にとって一番の問題だったのです。彼は、幼子のように、天国に入るために自分にできることは何一つないことを認めなければなりませんでした。
 この言葉を聞いていた人々はびっくりしたと同時に心配になりました。それで、彼らは思わず「「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と言ったのです。それに対する主イエスの言葉は、「人にはできないことが、神にはできるのです。」というものでした。この言葉が教えているのも、天国に入ること、言い換えれば、罪が赦されて救いを得ることは、人間的な方法では不可能だということです。どんなに財産があっても、どんなに良い行いに励んでも、人間は自分の力や方法では不可能なのです。神様が働く時、特に、今の時代は、聖霊が私たちの心の中に働く時に、救いが可能になるのです。この若い役人と違って、ペテロやほかの弟子たちは自分の仕事や家族や財産を捨てて、イエスに従っていました。従って、イエスの弟子になったために、彼らは以前よりも貧しい生活をしていました。このペテロの言葉を聞いた主イエスは、ペテロを叱ってはいません。むしろ、彼に大きな約束を与えられました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」イエスは、弟子たちに対して、「彼らのようにイエスに従って来た人々は、この世においても犠牲にしたものにはるかに勝る祝福を受けますし、さらには、後の世においても、永遠のいのちが与えられ、この世で経験するものとは次元の違う新しい祝福を受けると約束されました。私たちも、主イエスを信じたことによって、この世のものでは得ることのできない、喜びや平安や祝福を神様から受けて来ました。自分のためにいのちをも捨ててくださった神様が目には見えませんがいつもともにいて、私たちの祈りを聞き、それに答えてくださることを知っていることはなんと素晴らしいことではないでしょうか。私たちも、すでに、たくさんの祝福と恵みを受けています。しかし、それよりもはるかに優れた時がやがて来るのです。あなたは、自分の永遠についての確信がありますか。確信がなければ、神様の言葉を信じなさい。神様はどんな人をも救うことがおできになる方です。

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