2012018年8月19日 『あなたは目が見えていますか』(ルカ18章35~43節) | 説教      

2012018年8月19日 『あなたは目が見えていますか』(ルカ18章35~43節)

 今日の出来事は、エルサレムから25キロほど東に位置するエリコという町の近くで起きました。エリコは世界で最も古くに建てられた都市のひとつで、いまから9000年も前にすでに都市として存在していました。当時の石を積み上げて造られた城壁が発掘されていますが、驚くほど立派な城壁です。エリコの町には、当時、エルサレムの神殿で務めをするユダヤ教の祭司やレビ人たちが多く住んでいたと言われています。彼らは神殿での務めの時間が来ると、エルサレムに登って行きました。エルサレムは海抜800メートルの山の上にあり、エリコは海抜マイナス400メートルの非常に低い場所にありましたので、エリコからエルサレムに登っていくには1200メートルも上ることになります。主は過ぎ越しの祭りまでにエルサレムに到着することを目指して旅をしておられましたが、道すがら12人の弟子たちや他について来ている人々に信仰に関する大切なことを教えておられました。それはユダヤ教の教師がよく行うことでした。ですから、主イエスがエリコに近づいて来られる時には、大勢の人々がイエスの後について来ていましたので、かなり騒々しい状況でした。また、エリコの町の人々も、イエスの噂をいろいろ聞いていましたので、イエスを一目見ようと町の外の道に集まっていました。そのようなごった返した中に、道端に目の見えない乞食が座っていました。マルコの福音書には、その乞食がバルテマイという名前であったと記されています。ただ、バルテマイとは、ヘブル語で、テマイの息子という意味ですので、その人の本名ではありません。エリコの人々は、この乞食がテマイという人の息子であることは知っていましたが、彼の本名は知りませんし、関心もありませんでした。人々は彼をテマイの息子としか見ていなかったのです。彼は、朝起きると、上着を着て、手探りで、人々がよく通る町の外の道へ行って、いつも座っている道端の場所に座って一日中乞食をしていました。彼は目は見えませんが音やにおいには敏感だったはずです。エリコの町の一日が始まると、いろいろな人々や家畜が彼の目の前を通り過ぎて行きました。いろいろな音や人々の声が聞こえ、また、いろいろなにおいも感じたことと思います。ところが、その日は突然ざわざわした音が聞こえ、人々が走ったり、何かを話したりしているのを感じました。おそらく、彼は近くにいた人に、「いったい何事ですか」と尋ねたことでしょう。するとその人は、「ナザレのイエス様が来られたんだよ。」と答えました。この乞食は、毎日ここに来て一日中座っていますので、人々が話しているのをよく耳にしていたはずです。そして、人々が何度も、ナザレのイエスという方が非常に力強い説教をしたとか、重い病気の人を癒したとか、嵐を静めたという噂をしているのを聞いていたと思います。
 
 ユダヤ教の人々は私たち同じ旧約聖書を持ち、旧約聖書の神を信じています。旧約聖書の中に一貫して流れているテーマは、救い主が来られると言うテーマです。聖書は、神様と神様によって造られた人間は互いに信頼関係を持って生きるはずだったのですが、最初の人間が神様の教えを守らずに、自分勝手な行動をとったために、その関係が壊れて、人間は神から離れて生きるようになりました。実は、これが人間が抱える最大の問題で、そのために人間社会は悪と罪が満ちる世界になってしまいました。しかし、限りない愛を持つ神様は、そんな人間との関係を回復させるために、わざわざ人間のところに来てくださったのです。人間のところへ来てくださる神を旧約聖書はヘブル語で「メシヤ」と呼んでいました。日本語では「救世主」とか「救い主」と言います。イエスの時代のユダヤ人たちは、旧約聖書が約束している救い主が来ることを切に願っていました。というのは、彼らの国は、長い間ギリシャ人やローマ人によって支配され苦しめられていたので、何とか、昔の時代のような自分たちの国が復活することを強く願っていたからです。イエスが来る前も、何度となくメシヤかもしれないと期待を持たせる人物が現れては消え、また別の人物が現れては消えるという状況が続いていました。そのような中で、登場した主イエスに救い主として期待したユダヤ人は多かったのですが、ほとんどのユダヤ人は途中でイエスに失望し、むしろイエスに強く反発するようになりました。それは、イエスの教えが彼らの期待と違っていたからです。ユダヤ人たちは、ローマ帝国を滅ぼして地上に自分たちの国を作ってくれるような政治的な力を持つメシヤを待ち望んでいたからです。しかし主イエスは、ユダヤ人の国を作るためにこの世に来られたのではなく、神から離れていろいろと問題を抱えて生きている人間が神との関係を修復するために来られたので、彼らが要求するようなことを教えることもなく、行うこともありませんでした。

 主イエスが弟子たちとともにエリコに来られた時、まだ主イエスがメシヤであると期待している人もいました。この盲人のバルテマイもその一人でした。だんだんと辺りが騒々しくなり、主イエスが近づいてくるのを彼は感じていました。「このお方なら何かをしてくださるに違いない。」彼はそう思って、できるだけの声を振り絞って叫びました。「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」ダビデとは、主イエスより1000年前に生きたイスラエル王ですが、神様の計画は、神が人となってこの世に介入する時に、イスラエル民族の中でも、ダビデの子孫として生まれるように計画されました。そのことは預言者イザヤも次のように預言しています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」エッサイとはダビデの父親です。バルテマイが主イエスに向かって「ダビデの子」と呼んだことは、彼が主イエスこそ約束の救い主メシヤであると信じていたことを意味します。彼が主イエスに求めたことは「私をあわれんでください。」ということでした。彼がそう言ったのは、彼は自分には何も神様に求める資格がないことを認めていたからです。彼の心は、18章の最初に登場した、神殿で「私をあわれんでください」と祈った取税人に通じるものがありますし、主イエスが、幼子を抱いて「天国とはこれらの幼子のためのものだ」と言われた主の教えにも通じるものがあります。神様に受け入れられる人とは、自分の中に神様に何かを求める資格がないことを認める人だからです。盲人で乞食をしていたバルテマイは、社会においては何の役にも立たない、仕事もできない、価値のない人間だとみなされていました。それで、彼が主イエスに向かって叫んだ時に、列の先頭にいた人は、汚い乞食が大声を出して大切な学びの場の邪魔をすることに腹を立てて彼を黙らせようとしました。彼の思いは、「ここはお前が出てくる所じゃない。どこかに隠れていろ。」というものだったでしょう。彼の目には、バルテマイは邪魔な奴としか見えていませんでした。他の弟子たちやイエスについてきていた人々も同じ思いだったと思います。しかし、39節を見ると、「盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。」と書かれています。彼は、必死です。イエス以外に誰も頼れる人はいません。彼はますます大きな声で叫び声をあげました。

 私たちは、この盲人バルテマイの姿勢から見習う点がいくつかあると思います。第一に、彼が主イエスに助けを求めて近づこうとしたときにそれを妨げようとする人が大勢いました。私たちが主イエスを求めて、イエスを信じて生きようとする時に反対する人が現れたとしても驚くことはありません。この世は、神に反対していますから。だからこそ、今日の世界に多くの深刻な問題が存在するのです。第二に、私たちが周囲の人々からどんな反対を受けようとも、このバルテマイのように、神様の助けを求め続けなければなりません。彼は、イエスに叫び続けることを恥ずかしいとは思いませんでした。彼が主イエスから決して離れなかったことが、彼の奇跡をもたらしました。聖書の神は、天地創造の神です。また、私たちの罪が赦されるために自分の最も大切ないのちさえも惜しむことなく捨ててくださる神様です。この神様から離れることほど大きな損失はありません。第三に、バルテマイは、主イエスとの出会いはこの時しかないという思いで、必死に叫び続けました。もし、彼が、今回はあきらめて、近い将来に会えればいいと考えていたならば、彼は永遠に主イエスと出会うことはありませんでした。主イエスはエリコを出てエルサレムに行き、そこで、十字架にかけられたからです。主と出会うことを先延ばしにしてはなりません。19世紀のアメリカの有名な伝道者D.L.ムーディーは1871年10月8日に大きな失敗をしました。彼は、その後の人生で同じ失敗を決して繰り返さないと誓ったほど彼にとって大きな失敗でした。その日曜夜の伝道集会で、説教を終えようとしていました。非常に多くの人が集まっていました。いつもは、説教の最後に聴衆がイエスを信じる決心ができるように、人々に主イエスを信じる決断の時を持っていました。しかし、この夜、彼は非常に疲れていたので、それをするのをやめて、こう言いました。「皆さん、次の日曜日までの一週間、今日聞いたイエスキリストについてよく考えてください。来週、決断の時を持ちます。」そして独唱者が讃美歌を歌って、集会が終わろうとしていた時に、突然、大きな鐘の音とサイレンの音がシカゴ中に鳴り響きました。有名なシカゴの大火事が起こったのです。何千人もの人が命を落とし、何万人もの人々が家を失いました。犠牲者の中には、ムーディーの説教を聞いた人も含まれていたはずです。ムーディーは愕然としました。その時以来、彼は、説教の最後には必ず人々に、主イエスを信じる決断の時を持つようになりました。第二コリント6章1,2節に次のような言葉があります。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 バルテマイの叫び声を聞いた主イエスは、立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられました。主イエスは過ぎ越しの祭りに間に合うようにエルサレムに到着するために急いで旅をしておられました。しかし、主は、この哀れな目の見えない乞食のために立ち止まったのです。世の中の人々は、この乞食は価値のない人間だと見ていましたが、主イエスは彼一人のために、自分の大切な時間を犠牲にされました。主イエスが癒しの業を行われる時、自分から近づいたり、体に触られたりすることが多いのですが、この時は、彼を連れてくるように言われました。すると、マルコの福音書によると、彼は、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところにやって来ました。乞食が持っていた上着は、おそらく彼の唯一の財産だったでしょう。当時の上着はオーバーのようなかなり厚手のものでした。この地域は夜昼の温度差が大きく、昼は非常に暑くても夜は急に気温が下がります。そのため、この上着は布団の役目も持っていました。当時は、上着を担保にしてお金を借りることができたほどです。彼が、イエスの声を聞いて上着を脱ぎ捨てて、イエスのところに来たのは、彼がすべてを捨ててイエスに従う純粋な信仰を持っておたからです。彼が近寄って来ると、主イエスは彼に「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられるとました。主イエスは、癒しの業を行う時に、いつもこのような分かり切った質問をされますが、それは、この盲人が自分の必要を知りそれを自分の口で告白することによって、彼の信仰がはっきりするようにと願っておられるからです。またこの質問からもう一つのことが分かります。「わたしに何をしてほしいのか」という質問は、本来、この世界の創造主であり、王の王、主の主であるお方が、バルテマイのために働く者、仕える者になろうとしておられることを表しています。もし、あなたの所に天皇陛下が突然来られて「私に何をしてほしいですか」と尋ねられたらあなたはどのように反応するでしょうか。びっくりして恐れ多くて頭が真っ白になるでしょう。しかし、天においても地においても一切の権威を持っておられた神の御子イエスが、乞食のバルテマイのために仕える者になられたのです。それは、主イエスが最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗われたのと同じ姿です。バルテマイは答えました。「先生。目が見えるようになることです。」日本語では「目が見えるようになること」と訳されていますが、ギリシャ語では、「視力を取り戻す」という言葉が使われています。このことから、彼が生まれつきの盲人ではなく、人生のどこかで目が見えなくなったことが分かります。彼は、肉眼ではものが見えませんでしたが、彼の信仰は主イエスが救い主メシアであることをはっきりと理解して、そして、自分には何が必要であるのかをはっきり知って、主イエスを完全に信頼しました。すると主イエスは彼に言われました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」この時、主イエスは、「あなたの信仰があなたを癒したのです」とは言われずに「あなたを救ったのです」と言われました。肉体の目が癒されるためには、特に主イエスを神と信じる信仰はいりません。しかし、罪が赦されて神のこどもとして受け入れてもらうためには、信仰が必要です。盲人バルテマイにはその信仰がありました。彼の信仰は、癒された後の行動にも表れています。彼は、イエスがいかれるところについて行ったのです。

 彼は目が見えるようになった時、何をしたでしょうか。その視力を自分の楽しみのために持ちるのではなく、彼は主イエスや弟子たちについて行きました。エルサレムに行き、そこで主イエスが過ごされた1週間の出来事を目撃したはずです。自分を癒してくれた救い主が十字架にかけられるのを見て、彼はどう思ったことでしょう。もしかすると、彼は、ペンテコステの日に、部屋に集まって祈っていた120人の一人だったかも知れません。マルコの福音書を書いたマルコは12弟子ペテロのためにギリシャ語の通訳を務めていましたので、実際にはペテロの福音書と言ってもいいのですが、この福音書が盲人の名前をわざわざバルテマイと書いたのは、当時の初代教会で、彼が有名な人物であったからなのかもしれません。主イエスによって彼の人生はまったく新しくされました。社会で役立たずと思われていた人が、聖書に名前を記されるほどの人に変わったのです。あなたは、今の人生をどのように生きていますか?自分にとって何が必要なのかをはっきり知って生きているでしょうか。主イエスは、いつでもあなたの必要を満たすことのできるお方です。

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