2018年8月26日『救い主と出会った罪びと』(ルカ19章1-10節) | 説教      

2018年8月26日『救い主と出会った罪びと』(ルカ19章1-10節)

 今日からルカの福音書19章に入ります。いよいよ十字架の時が近づいていました。先週もお話ししたように、エリコからエルサレムまでは25キロほど。主イエスは、今日の出来事の後、エリコを出るとエルサレムに向かって進んで行かれました。今日の箇所に登場する取税人ザアカイは、実は、主イエスが十字架にかかる前に個人的に出会った最後の人間です。先週の箇所では、エリコの町に入る前に目の見えない乞食が、イエスを信じる信仰によって目が開かれ救われましたが、その後、主イエスはエリコの町に入られました。主イエスと弟子たち、そして一緒について来ている大勢の人々は、大きな奇跡を見た後でしたので、町に入ってきた人達も、彼らを迎えるエリコの町の人々もかなり熱狂的な雰囲気になっていたことと思います。

 エリコにザアカイと言う人が住んでいました。彼は取税人のかしらでした。取税人とは、税金を集める人ですが、当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていたので、ユダヤ人たちはローマ帝国に税金を納めていました。ローマ帝国はユダヤ人を雇って彼らに税金の取り立てをさせていましたので、取税人は同胞のユダヤ人たちから非常に憎まれていました。彼らが外国人の手先となって働き、仲間のユダヤ人から厳しく税金を取り立てていたからです。しかも、税金の取り立ての中で不正が行われていて、取税人は自分の立場を利用して非常に裕福になっていました。ザアカイは、その取税人のかしらでした。イスラエル国内には、エルサレムとカペナウムとエリコの3つの都市に税務署があり、ザアカイはエリコの税務署の所長でした。彼は自分で税金を集めるのではなく、部下の取税人が集めた税金を受け取ってローマ帝国に収めていました。ここでも不正が行われていたので、ザアカイは大金持ちになっていました。取税人はこのようなことをしていたために、ユダヤ人から憎まれ、ユダヤ教の会堂に入ることを許されていませんでした。彼は、子どもの頃は親から旧約聖書を教えられていたと思いますが、今では会堂から追い出されていたので、彼も神から遠く離れた人生を生きていました。しかし、3節を見ると、「 彼は、イエスがどんな方か見ようとした」と書かれています。この日本語では、この日たまたまイエスがエリコの町を通ったので、気まぐれな好奇心からイエスを見ようとしたとも解釈できそうですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉をもう少し詳しく訳すと、彼は「何度もイエスに会おうとしていた」あるいは、「イエスに会いたいと願っていた」となります。彼は以前からイエスに会いたいと思っていたのです。では、ザアカイはなぜ主イエスに会いたいと思ったのでしょうか。一つ考えられるのは、彼の取税人仲間のレビがイエスから声をかけられてイエスの12弟子の一人になっていたことです。彼はイエスの弟子になってマタイと呼ばれるようになりました。取税人はユダヤ人社会では村八分になっていたので、彼らは自分たちの仲間同士か、やくざのような罪人以外の人から声をかけられることがありませんでした。ザアカイは仲間のレビがイエスの弟子になったことを聞いて非常に驚いたと思います。また、主イエスはユダヤ教の指導者たちから「取税人や罪人の仲間、友達」と言われていました。ザアカイは大金持ちであり欲しいものは何でも手に入りましたが、彼の心は何かが足りないと感じていたのではないでしょうか。アウグスチヌスという4世紀の有名なキリスト者がいますが、彼は「人間の心には神様以外のものではどうして埋めることのできない穴がある」と言いました。また、ザアカイは、いつも、ユダヤ人から憎まれていたので、町を歩いていてもひどい言葉を浴びせられるようなことを何度も経験していたことと思います。人々から拒絶されて生きることは、決して楽なことではありません。彼は、取税人として人々を苦しめて来ましたが、彼自身の心も痛んでいたのだと思います。そんな時に、エリコにイエスが来ることを聞いて彼はどうしても会いたいという思いに駆られて、主イエスが通られる道に出て行きました。
 3節には「ザアカイは背が低かったので、群衆のためにイエス見ることができなかった。」と書かれています。通りにはすでに大勢の人々が集まっていたので、ザアカイがやって来た時には、人々が壁のようになっていて後ろからは何も見えませんでした。少し空いているところから中に入りこもうとしても、だれもザアカイに場所を譲るような人はいません。むしろ、日ごろから苦しめられている人物なので、意地悪をして、ザアカイを絶対前に行かせまいと立ちはだかっていたと思います。しかし、ザアカイは盲人のバルテマイと同じように、簡単にはあきらめません。以前からずっと会いたいと願っていた主イエスが今、そぐそばにおられるからです。そこで、彼は列の前にでることをあきらめて、近くにあったイチジクぐわの木に登って、上から主イエスを見ようと考えました。イチジク桑の木は頑丈な木で幹が太く短く、太い枝が広がって伸びているので、登りやすい木でした。しかし、彼は50才ぐらいの中年で、税務署の所長という地位についている人でした。2000年前でも高い地位についている人は木に登るようなことはしません。木に登るのは子どものすることです。しかし、この時のザアカイは、そんなことまったく気にしていません。彼は背が低くておそらく太っていましたから彼が木に登る姿はちょっと滑稽だと思います。彼を見て冷やかしたりののしったりした人もいたことでしょう。しかし、彼は、イエスを一目見るために必死になって木の上に登りました。

 木の上からザアカイはドキドキしながら主イエスが近づいて来られるのを待っていました。すると主イエスと一行が彼のほうに近づいてきました。5節には次のように書かれています。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」主イエスは、彼に近づくと、彼の顔を見て「ザアカイ」と名前で呼ばれました。二人はこの時初めて出会ったのですが、主イエスは彼のことを知っておられました。彼がどんな仕事や生活をしていて、今どんな気持ちで生きているのか、そのすべてを見抜く力を持っておられました。ザアカイはびっくりしたと同時にうれしかったと思います。そして主は「今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。ザアカイは、これまで一度主イエスに会いたいと思っていましたが、実は、主イエスもザアカイに会うことを求めていたことが主イエスの言葉で分かります。日本語では「泊まることにしてあるから」と訳されていますが、ギリシャ語では「泊まらなければならないから」と表現されています。この日、取税人ザアカイと主イエスが出会ったのは、決して偶然ではなく、神様がそうなるように動いておられたのです。主イエスがザアカイと会うことを求めておられたのは、神の恵みの働きによるものです。パウロの言葉を借りれば、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあるように、ザアカイと主イエスのこの出会いは、神様のご計画によるものでした。主イエスは彼に命令しました。「急いで降りて来なさい」ザアカイは喜んで主の命令に従いました。6節にはこう書かれています。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」今まで、彼の家に遊びに来たのは仲間の取税人か罪人と呼ばれた人々だけだったでしょう。彼は、初めて、自分の家にそれ以外の人を迎えるので、うれしくて、飛び跳ねるようにして木から下りて、主イエスを自分の家に案内しました。彼は、自分の家に主イエスを招いて、そこで主イエスと話ができることを、夢のように思ったことでしょう。彼の心は喜びでいっぱいでした。
 
 主イエスは、ザアカイがこれまで行った来た多くの不正や悪を大目に見て、ザアカイの家に行ったのではありません。ザアカイを今の生き方から救い出すために彼の家に行かれたのです。しかし、この様子を見ていた群衆は、主イエスを強く批判しました。彼らは、イエスが取税人の家に行くことを許せなかったのです。特にユダヤ教の指導者たちは、外国人であるローマ人の手先になって働く取税人の家にいくことは自分が汚れることだと考えていました。彼らは人が救われることよりも、自分が汚れないことのほうが大切だったのです。ルカは、主イエスがザアカイの家にいってどのように福音について教えたのか、それに対してザアカイがどのように答えたのか、一切書いていませんが、ザアカイが自分の罪を悔い改めて主イエスを信じたことは、彼の変りぶりを見ればあきらかです。彼は主イエスや弟子たちから教えられ、日ごろから自分が行って来た不正や悪事のことは気にかかっていたのでそれを悔い改め、そして、彼らに祈られて、彼は罪から救われるという救いを経験していました。彼の考え方、生き方は、主イエスを信じることによってすっかり変わりました。これまでは自分が金持ちになることだけを生きがいにしてきましたが、今では金持ちになりたいという気持ちはすっかりなくなっていました。ザアカイは自分の財産を手放す必要はなかったし、イエスもザアカイには、あの若い役人に言ったように「自分の持ち物を売って貧しい人に施しなさい」と言っておられません。しかし、彼は心からの願いとして、自分の財産の半分を貧しい人に施したいと思うようになりました。以前は自分のことだけを考え、貧しい人のことなど全く頭になかったのに、彼は貧しい人の苦しさを自分のことのように感じて何とか彼らを助けたいと思いました。また、彼は自分が不正を働いた人々に対して、盗んだお金を4倍にして返すと約束しました。旧約聖書の律法では、人がお金を盗んだことが見つかった場合、2倍にして返しなさいと命じられています。彼はその償いをするために、盗んだお金を4倍にして返すことを決心しました。彼は多くの人の金を盗んでいましたから、これを全部実行すると、彼がこれまで必死になって蓄えて来た財産をほとんど失うことになります。彼は、若い役人とは違い、主イエスから言われなくても、自分から持ち物をすべて手放して、主イエスについて行くことを決心しました。彼の心には惜しむ思いはまったくありません。イエスを信じ、罪が赦されたこと、そして、やがて天国で受ける素晴らしい栄光を考えて、彼の心は喜びで満ち溢れていたからです。

 これを見て、主イエスは言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」主イエスは、ザアカイの変化を見て彼の信仰が本物であると確信されました。ザアカイは、ユダヤ人ですから、民族的に言うと、アブラハムの子孫の一人です。しかし、ただ血液の中にアブラハムから続く血が流れているだけではだめなのです。「アブラハムは神を信じた。それによって彼は神から正しい人と認められた。」と創世記に書かれているように、人は、自分の罪を悔い改め主イエスを救い主として信じる時に、はじめて本当の意味でのアブラハムの子になるのです。エリコに住む人々は、誰もザアカイが神に救われるとは考えてもいなかったでしょう。彼は、それほどに悪にそまった人生を生きていました。しかし、神様はザアカイを捜し求めておられました。彼の心の中に自分の生き方の間違いに気づいて生き方を変えたいと言う願いが起きたのも、神様が彼の心の中に働いておられたからです。そして、パーフェクトなタイミングでザアカイは主イエスと出会いました。人の目には不可能に思えることも、神にとっては可能です。先週お話しした盲人のバルテマイと同じように、聖書の中で取税人の名前が記されているのは弟子になったレビ以外ザアカイ一人です。もしかすると、このザアカイも初代教会において有名なリーダーであったのかも知れません。主イエスの出会いが、彼の人生をすっかり新しくしました。あなたは、自分の人生を新しくしていただく必要はありませんか。

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