2018年12月2日『暗闇を照らす真の光』(イザヤ9章1-7節) | 説教      

2018年12月2日『暗闇を照らす真の光』(イザヤ9章1-7節)

 今日からクリスマスを迎えるアドベントに入ります。アドベントとはラテン語で「到来」「やってくること」を意味する言葉で、神様が人間の姿を取って罪に満ちた暗闇の人間世界に来てくださったことを感謝して待ち望む4週間を意味します。日本語では主イエスの降誕を待ち望むという意味で待降節と呼ばれます。イエスの誕生は非常に不思議で、旧約聖書には、イエスの誕生に関する預言が数多く記されていますが、最も主イエスに関する預言で有名な書物が、イザヤ書です。これはイザヤという預言者が神からのメッセージを受け取って書き記したものです。イザヤは、主イエスが生まれる800年近く前に活動した預言者です。聖書の神は、今から約4000年前にアブラハムという人間を選んで、彼からイスラエル民族を作り上げられました。神様は、イスラエルの民を選んで、彼らの働きをとおして全世界の人々に神の教えや祝福をもたらそうと計画されました。ところが、イスラエルの人々は自分の立場を勘違いして、自分たちは神に選ばれた特別に優れた民族だと考え、神の教えに従おうとせず非常に傲慢になっていました。その様子がイザヤ書1章の21-23節に記されています。神の教えを離れると人間はどんどん悪くなって行きます。イスラエルの人々は神様から特別な祝福を受けていましたが、それに気づかず、忠実な民が不忠実な民になってしまっていました。しかし、神様の愛は、彼らがこのように堕落しても変わることはありません。何とか彼らを立て直そうとされました。そのことが1章の25-26節に書かれています。26節の最後に書かれているように、神様は不忠実になったイスラエルの民を忠実な都と呼ばれるような神様に忠実な民に変えようとされました。しかし、問題は、どのようにすれば不忠実な人間を忠実な人間に変えることができるかという点です。イザヤ書はこのことを中心的なテーマとして書かれている書物です。結論から言うと、人間は修行や努力だけでは変わらりません。人間が本当に不忠実から忠実に変身するためには、神様ご自身が救い主としてこの世に来ること以外に方法がありませんでした。
 
 当時のイスラエルは歴史的にはどのような状況だったのでしょうか。7章の1-2節を読みましょう。当時のイスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれていました。預言者イザヤは南ユダ王国に住んでいました。イスラエルは西にエジプト、東に当時アッシリアという非常に強い国に挟まれていて、しかも北側には今も存在するシリアという国がありました。強い国に囲まれた小さな国は生きて行くのが大変です。イスラエル民族にとって当時はまさに暗黒の時代でした。そのような時代に神様は預言者イザヤをとおして希望のメッセージを語られたのです。
 9章の1,2節を読みましょう。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」ここで、いくつかの地名が出てきます。ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤですが、これらはいずれもイスラエルの北のガリラヤ湖という湖を取り囲む地域です。イスラエルにとって、当時一番恐ろしい国は現在のイラクに位置していたアッシリアでした。アッシリアがイスラエルに攻めてくる場合、イスラエルの真東にはアラビア砂漠が広がっているので、アッシリアは必ず北から攻めて来ました。すでに、北イスラエルは、何度も彼らに踏みにじられていた地域でした。つまりこれらの地域に住む人々が最もアッシリアに苦しめられていたのです。また、ガリラヤ地方にはユダヤ人以外の人々も住んでいたため、ガリラヤは軽蔑的な意味で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。ところが、神様は、ユダヤ人たちから軽蔑されていたこの地域の人々を特別に心に留めてくださいました。ここで、預言者イザヤは「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」とか「やみの中を歩んでいた民は大きな光を見た」言っています。預言ですから、まだこのことは実際には起きていないのですが、「光栄を受けた」とか「光を見た」とすでに起こったかのように過去形で語っています。これはヘブル語の表現方法で、英語にも同じようなものがありますが、預言敵過去と言います。それは、その出来事が起きることが100%確実な時には、まだ実際に起きていなくても、まるで起こったかのように過去形にして語るのです。当時のガリラヤはアッシリアの侵入を恐れて真っ暗な状況でしたが、預言者の目は将来を見ていて、将来人々は栄光を受け光を見ることを預言しているのです。神様は何度も大きな苦しみを経験していたガリラヤの人々に栄光を約束してくださいました。主イエスは、30歳の時に、人前に現れて神の子としての働きを始められました。主は、初めは、イスラエルの南、都エルサレムとその近くに住むユダヤ人に福音を伝えましたが、彼らが心を固くして主イエスを信じなかったので、主は、ガリラヤ地方で人々に福音を伝えられました。幸いなことに、ガリラヤでは多くの人々がキリストを救い主として受け入れました。イザヤは預言しています。罪と自己中心な欲望に支配されて、霊的には死んでいた人々が大きな光を見るのです。大きな光とは主イエスのことです。ヨハネの福音書1章4,5節には次のように書かれています。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」主イエスは、神ご自身が、わざわざ私たちと同じレベルにま自分を低くして私たちの世界に生きてくださいました。この世界は闇ですが、どんな闇でも、一つの光があれば、真っ暗闇は消えます。そして、主イエスの光はどんな闇も覆いつくすことができない光でした。これは、イザヤの預言を聞いた時代の人々にも、また主イエスがこの世に来てくださった時代の人々も、また、今生きている私たちにも、誰にとっても当てはまる約束です。どんな暗闇の世界に生きている人であっても、主イエスが来てくださると闇は光になるのです。

 旧約聖書の預言というのは多くの場合、その預言は一つの時代だけではなく、いくつかの時代に重なってなされています。例えば、晴れた日に関越道を群馬の方面にドライブすると、いくつかの山々が重なって見えます。こちらから見るといくつかの山がくっついて重なって見えますが、実際に近づくと、それらの山々はかなり離れていることが分かります。それと同じように、イザヤの預言の場合も、イザヤに近い時代に実現したこともあれば、主イエスによって成就したものもあれば、まだ実現していなくて、この世界が終わりを迎える時に成就するものもあって、それらが折り重なって預言されています。3節から5節には、イザヤが大きな喜びを感じて預言している言葉が記されています。3節には「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。」もともとイスラエル民族は12部族あったのですが、アッシリアによってそのうちの10部族が滅ぼされてしまいました。そして、残った民のうちの大部分がユダという部族だったので、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになりました。純粋なイスラエル民族の血が流れている人々の数はかなり少なくなってしまいました。この時イザヤは遠い未来を見ていました。ですから、ここでは、神様は少数の残った民を見ているのではなく、将来、神がこの民族を大きくし、神の民は悲しみを経験するのではなく、喜びを経験し、国や家を失うのではなく、戦争に勝った後の兵士たちのように、多くの戦利品を獲得すると預言されています。そして、自分たちを束縛していた「重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖」を神様が打ち砕いてくださることが預言されています。4節の「ミデヤンの日のように」とは、イザヤよりもずっと昔、イスラエルを苦しめていたミデヤン人の13万5000人の大軍隊を神に選ばれたギデオンというリーダーによってたった300人で打ち破ったという出来事を指していて、大勝利を意味する言葉です。この時、イスラエルの300人は武器を使って戦ったのではなく、神様の命令に従って空っぽのツボを壊して中に隠していた松明の火をともして、大きなラッパを吹いただけでしたが、大勝利したのです。そして、5節にあるように、戦場にあったものがすべて火に焼かれて、姿を消してしまいます。ここに描かれている状況のいくつかは神様がアッシリアを滅ぼし、エルサレムとその中に住む住民を奇跡的に守ってくださった時に実現しているのですが、これらの預言が完成するのは遠い将来です。そして本当の平和が実現するためには、まず、神に逆らっていたユダヤ人たちが劇的に変わらなければなりませんでした。彼らは、神様に創られ、神様に選ばれ、神様に養われた者であったのに、神様を忘れ、神様に反抗する者となっていたからです。

 ここで、神様は、人々が劇的に変えられるためには、どうしても神ご自身が人間の世界にやって来て、神ご自身が働かなければならならないことを明らかにされました。6節以降の有名な救い主の預言が始まります。ただ、神様の方法は人間が考える方法とはまったく異なっていました。普通に考えると、神が人間の世界に来られるのであれば、栄光に満ちた姿で現れると考えます。しかし、神は、誰にも気づかれずに一人の赤ちゃんの姿でこの世に来られました。物を燃やす時に、上のほうに火をつけても十分には燃えずに消えてしまいます。下の部分に火をつけると全部燃やすことができます。救い主イエス・キリストは人間の社会の最も低い所から火を燃やしてくださいました。そして、その救い主は「私たちに」与えられました。救い主は「あの人のため」「この人のため」に来られたのではありません。私たちのために、私たちの所に来てくださったのです。そして、イザヤの預言はイエスの時代の預言だけでなく、この世の終わりの時の遠い将来をも見ています。救い主は赤ちゃんとして私たちのところに来てくださり、私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。その姿は、この世の人々の目には敗北した人間のように見えます。しかし、「主権はその肩にあり」と書かれていますが別の訳では「政治はその肩にあり」と訳されています。イザヤの時代のイスラエルは人間の力ではどうすることもできない、滅びに向かっている状況でした。国を敵の攻撃から守り、国を支配する力はありませんでした。私たちが信じている主イエスは、やがて時が来るとすべての権威と栄光をもってこの世界を支配してくださることが約束されています。イザヤはそのことを知っていたので、救い主が赤ちゃんの姿で来られても安心することができました。
 救い主には4つの名前が与えられていました。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。この4つの名前はみな、神を示す面と人間を示す面で組み合わされています。「不思議な助言者」の「不思議な」という言葉は神様にだけ用いられる言葉です。「助言者」とはカウンセラーです。救い主はあらゆる知恵と知識があっていつでも私たちが相談できる顧問のような存在になってくださる方です。「力ある神」は「力ある」が人間の面で神は神です。英語ではAlmaighty God です。オールマイティとは絶対に負けることがないという意味です。私たちに与えられた救い主はすべてのことに勝利された方です。また、「永遠の父」では「永遠」が神の面で「父」は人間の面です。父とはこどもを愛しやしない、子どものためにはいのちさえも惜しまない親を表しています。この世の父親はいつか死にますが、救い主は決して死ぬことのない方であり、父が息子を愛し養うように私たち一人一人を取り扱ってくださる方です。最後が「平和の君」です。平和とはヘブル語で「シャローム」で、これは神が与える平安を意味しているので、神を表し「君」が人間の面を現しています。主イエスを信じて生きる時に、私たちは神との平和が与えられ、心の平安が与えられます。私たちが、本当にこの世の問題や苦しみから解放されるためには、神ご自身がわざわざこの世に来てくださり、私たちへの愛を表すために、十字架にかかってくださいました。私たちは、このイエスを自分の救い主として信じ、自分の心をいつも主イエスに向け、イエスの教えに従って生きて行く時に、私たち自身が変えられ、この世界も神様が願っておられるような世界に変わるのです。7節の最後に「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と書かれています。働いてくださるのは神様です。神様が何とかして私たちが神様が願っておられるような生き方をするためにと、この世に来られました。反抗する息子を何とかまともな人間にしようと熱心に働く父親のように、神様の熱心がすべての働きを成し遂げてくださいます。神様がどれほどの熱い思いと決意をもってこの世に来てくださったのか、そのことを忘れずにアドベントの時を過ごしましょう。

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