2018年12月9日 『私たちと共におられる神イエス』(マタイ1章18-21節 | 説教      

2018年12月9日 『私たちと共におられる神イエス』(マタイ1章18-21節

 今日は、新約聖書の最初の書物「マタイの福音書」に記されたイエスの誕生について読みたいと思います。まず、「福音書」という言葉は、「良い知らせ」「グッドニュース」という意味なのですが、聖書は、私たちにどんな良い知らせを伝えているのでしょうか。聖書全体のテーマは人間の救いです。人間は神によって創られ神の教えに従って生きる時に最高の生き方ができるにも関わらず、人間は神から離れ、神の教えに従おうとしないで自分勝手な生活をしています。それが人間の罪なのですが、その結果、人はしなければならないことができかったり、してはならないことをしてしまったり、お互いに傷つけあったりする、そんな生活をしています。そのような状況から救い出してくださる救い主が私たちのところに来てくださった、それが福音なのです。

 クリスマスは救い主がこの世に生まれた日、この世に来られた日をお祝いするのですが、神様にとっては、これは決して楽しい訪れではありませんでした。それは、来られた目的が人間の問題を解決するためであり、しかも自分が犠牲を払って解決するためだったからです。神様は完全な方ですので、私たちの罪の問題を解決するためにも完全な方法を考えられました。それは、救い主が私たちの完全な身代わりになって、私たちの罪の罰を受けることでした。私たちの罪は、この世に生まれた後、しばらく成長した後に身に着けるものではなく、生まれる時に罪の性質をもって生まれて来るのです。そのために、神様は、私たちとまったく同じいのちのプロセスを通るために、母の胎内からスタートすることを決められたのです。もし、救い主がヨセフとマリヤの子どもであったら罪の性質を持ってしまいます。罪を持つ人の罰を身代わりに受けるためには、救い主に罪があってはなりません。そういうことで、神の救い主は特別な方法でいのちが創られますが、生まれてくるプロセスは私たちと同じプロセスだったのです。イエスの処女降誕を信じられないという人が多いですが、クリスチャンにもそのような人がいるみたいですが、私たちの罪が赦されて神の子どもとなって永遠のいのちが与えられるためには、主イエスの処女降誕、十字架の身代わりの死、復活、そして天に帰られたこと、これらはすべて、私たちの罪が赦されるという福音には絶対に欠かすことのできない出来事なのです。これがすべてそろって初めて、救い主イエスは真の神であり同時に真の人間となりうるのです。確かに私たちの限られた知識と能力ではあまりにも不思議な出来事ですが、何もないところからこの世界を創り出された神様にとっては非常に簡単なことです。イエスの処女降誕は、特別な誕生をしたという伝説を造ってイエスの権威を高めようとしたのではなく、私たちを罪の裁きから解放するという働きを全うするためには、この方法しかなかったということをご理解ください。

 18節を読みましょう。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」イエスの母となるマリヤは当時14,5歳であったと思われますが、ヨセフという男性と婚約していました。ユダヤの習慣では、結婚は2段階になっていて、まず婚約をして、それからだいたい1年後に結婚式を挙げて二人は夫婦としての生活を始めることになっていました。だいたい、婚約を決めるのは親同士で、昔の日本みたいに本人同士は何も知らない間に、結婚が決められることが多かったようです。この婚約の期間中に、女性が婚約相手以外の男性との間にこどもを身ごもるようなことがあった場合、旧約聖書の律法では、町の外で石を投げつけられて殺されることになっていました。まだ、若い二人にとって、とんでもないことが起きてしまったのです。
 19節を読みましょう。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」ここに、ヨセフは正しい人であったと書かれています。彼は正しい人であったために、この時の悩みは非常に大きかったでしょう。ルカの福音書によれば、マリヤが救い主を身ごもることがまずみ使いによってマリヤに知らされました。マリヤは非常に驚きました。彼女はこれから自分にどんなことが起きるか想像できたと思いますが、神様のみこころを受け入れ、み使いに対して「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。そこにはマリヤの大きな信仰と決意がありました。彼女はすぐにこのことを婚約者のヨセフに話したはずです。2000年前の人間にとっても、女性が聖霊によって赤ちゃんを身ごもることなど信じられません。しかし、これまでマリヤと付き合って来たヨセフは、彼女が嘘を言う女性ではないこと、自分に隠れて他の男性と関係を持つことなどありえないことは分かっていました。しかし、彼には何が真実なのか分かりませんでした。ただ、マリヤが身ごもっている赤ちゃんが自分の子供ではないことは明らかですから、ヨセフは、このまま結婚することはできないと考えました。彼は、このことを人々に知らせることによって、マリヤが人前で屈辱的な扱いを受けることには耐えられなかったので、彼は、マリヤを密かに遠くに行かせて彼女を守ろうと考えました。ヨセフは本当にいい人だったと思います。彼は決してイエスの父と呼ばれることはありませんし、聖書の中でもイエスの誕生の時とイエスが12歳の時に一緒に神殿に行った時に登場するだけなので、おそらく比較的若い時に亡くなったと考えられています。しかし、彼が正しい人で会ったので、神様の計画がスムーズに進みました。もし、彼が正しい人でなかったら、この後の展開は全く違っていたと思います。
 そのような重苦しい時を過ごしていたヨセフにみ使いが現れました。み使いがもう少し早くヨセフに現れていたら、彼もそんなに苦しまなかっただろうと思うのですが、これもまた神様がお決めになったタイミングだったのです。20節を読みましょう。「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」み使いはヨセフのことを「ダビデの子ヨセフ」と呼びました。マタイの福音書の冒頭に非常に長いイエスの系図がありますが、私たちにとっては無意味に思われる系図ですが、実は、非常に重要な意味を持っています。この系図は、救い主が旧約時代の英雄であったダビデ王の子孫として生まれるという預言が成就したことを示しているからです。救い主の誕生は非常に不思議な誕生で、生まれる前からどこで生まれるのか、どの家系から生まれるのかということが預言されていました。ヨセフは実際にはイエスの父親ではありませんが、法律上、戸籍の上ではヨセフの子どもです。ヨセフの家系に生まれることによって、主イエスの誕生に関する一つの預言が成就しました。そして、み使いはヨセフに「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と言いました。マリヤが妊娠したのは、彼女に何か落ち度があったのではなく、聖霊の働きの結果でした。聖霊とは神ご自身です。天地創造の神が何もないところからこの世界を創られた時にも聖霊が現れています。創世記の1章1、2節にはこう書かれています。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」神の霊が動いていたと書かれています。最初は混とんとしていた世界に、神の霊が働いて、形と秩序を持った世界が生み出されました。神にはどんなこともできるのです。これが聖書が宣言している神についてのシンプルな応えです。
 さらに、み使いはヨセフに21節でこう言っています。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」神様の特別な働きによってマリヤは男の子を生みますが、その名前をイエスとつけるようにとみ使いはヨセフに命じています。イエスというのは新約聖書が書かれているギリシャ語発音なのですが、ヘブル語では、ヨシュアと発音します。ヨシュアとは、ヘブル語で「神は救う」という意味です。ここで、主イエスがこの世に来られた目的がはっきりと示されました。世の中の人々を罪から救い出すために、神ご自身が人間の世界に来てくださったのです。罪人が他の罪人を救い出すための身代わりにはなれません。罪のない者にしかできないのです。そのために、救い主イエスは私たちとまったく同じ人間でありながら、まったく罪のない者でなければなりませんでした。

 マタイは22,23節でイエスの誕生が旧約聖書の預言の成就であることを示しています。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」救い主の不思議な誕生は、神様が800年も前に預言者イザヤをとおして語っておられた約束の完成であったのです。マタイの福音書には、何度も繰り返して、イエスに関するいろいろな出来事が旧約聖書の預言の成就であると述べています。それは、マタイは、この福音書をユダヤ人のために書いたからです。主イエスがダビデの家系から生まれたのですから、当然、ユダヤ人としてお生まれになり、そして、まずユダヤ人に、自分こそが旧約聖書が預言していた救い主メシヤであることを教えられたのですが、当時のユダヤ人の多くは、ローマ帝国の支配の中で生活が苦しかったために、もっと強い救い主、ローマ帝国を滅ぼしてくれるような救い主を期待していたので、主イエスを救い主と認めませんでした。そのようなユダヤ人に対して、イエスこそが旧約聖書が預言していたメシヤであるとマタイは訴えているのです。
 そして、生まれてくる男の子は「インマヌエル」と呼ばれるとみ使いが言いました。21節では、み使いはヨセフに生まれて来る男の子に「イエス」という名前をつけるように命じていますが、ここでは、「インマヌエル」と呼ばれると言われています。「インマヌエル」とは名前と言うよりも、イエスのタイトルというかイエスがどんな方なのかを示すものと考えると良いと思います。その意味は「わたしたちとともにおられる神」です。たとえば、イギリスの国王に獅子心王リチャード1世という王様がいます。とても勇敢な王様だったので、ライオンのような心を持った王様ということで、獅子の心、獅子心王と呼ばれていました。そういえば、以前スマップの歌に「ライオンハート」というのがありました。少し気になって歌詞を調べてみたのですが、ライオンハートを持つのはイエス様かななんて思いました。歌詞の中に「君を守るため、そのために生まれて来たんだ。あきれるほどに、そうさ、そばにいてあげる、眠った横顔震えるこの胸ライオンハート」という言葉があったからです。主イエスが「インマヌエル」と呼ばれる理由は、神であるお方が、栄光と権威に満ちておられた方が、そのすべてを捨てて、一人の人間と言う本来の姿とはまったく違う小さな低い姿になってくださって、私たちの間で生きるためにこの世に来られたからです。神様は上から下にいる私たちにむかって「ああしろ、こうしろ」と指図する神ではありませんでした。私たちとまったく同じ生活をしながら、私たちを教え、そして、最終的には、私たちのみがわりとなって自分のいのちを犠牲にして十字架にかかってくださいました。主イエスは、ライオンハートの歌詞にあるように、「君を守るため、そのために生まれて来たんだ。あきれるほどに、そうさ、そばにいてあげる」その心を持って私たちのところに来てくださいました。マザーテレサも同じような生き方をしました。彼女は18歳の時に修道院に入り、やがてインドの修道院で教育の仕事をしていましたが、ある時、「すべてを捨てて、最も貧しい人の間で働くように。」という神からの啓示を受けました。彼女は修道院を出て、カルカッタのスラム街の中に入り、質素なサリーを身にまとって貧しい人々のために働きを始めました。彼女も、貧しい人の所を訪れ、彼らとともにいる人になりました。主イエスはインマヌエルの主です。私たちを救うために、私たちのところに来てくださいました。そしてイエスを信じる人の心の中に入って、私たちを慰め、導き、助け、祝福し、戒めながら私たちの人生のガイドとなってくださるのです。

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