2019年1月6日 『神にコミットする人生』(ルカ21章1~4節) | 説教      

2019年1月6日 『神にコミットする人生』(ルカ21章1~4節)

 今日の箇所は、主イエスが十字架に掛けられる直前の水曜日のことと思われます。その日は、主イエスは一日中、ユダヤ教の祭司や律法学者たちとの論争が続いていました。ユダヤ教のリーダーたちは、イエスに対する憎しみを抱いており、難しい質問をしてイエスを陥れようとしていました。彼らの質問の目的はイエスを陥れるためなので、イエスがいくら真剣に彼らに信仰の意味を教えようとしても、彼らには聞く耳がありません。主イエスが何を言っても彼らの心はますます頑なになっていました。今日の箇所の直前、ルカの福音書の20章45~47節では、主はユダヤ教の律法学者たちの信仰態度が人にどう見られるのかということにばかりこだわっているのを見て、彼らを批判しておられます。46節を読みましょう。「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回るのが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。」彼らは自分たちに権威があることを示すために服装にこだわっていました。彼らは普通の人が着ているものよりも裾の長い服を着ていたので目立っていました。また広場にはいつも多くの人々が集まっていたので、そこに行って自分の姿を見せることにも熱心でしたし、プライドがあったので、礼拝を捧げる時も宴会をする時も、いつも自分が一番良い席に座ろうとしていました。彼らはそれだけでなく、47節にあるように、自分たちに捧げものをすることが信仰深い行いだと教えて貧しいやもめたちに無理なささげものをさせたり、あるいは、自分が敬虔な信仰者であることを人々に見せるために、人の前で長々と祈りを捧げていました。彼らの行動は、外側だけが立派に見えて、まったく心が伴っていませんでした。私たちは他の人の外側しか見えませんから、どうしても外側をよく見せようとします。しかし、聖書に「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と書かれているように、神様が見ているのは、私たちの外側の姿や外側の行いではありません。私たちの心の中を見ておられるのです。ユダヤ教のリーダーであったパリサイ人や律法学者たちは、自分たちは敬虔な信仰者と思っていましたが、主イエスは彼らを見て「白い墓」だと言いました。つまり、外側はきれいにしているが内側は死んでいるということでした。主イエスは、人々を教える立場であった彼らがそのような生き方をしていることが残念であり、また憤りを感じておられました。今日の出来事は、そんな中で起きた、主を喜ばせる出来事でありました。

 主イエスは、神殿の前のところに座って人々の様子を見ておられました。時は、ユダヤ教最大の祭りである過越しの祭りの時でしたので、神殿には大勢の人が出入りしていました。ユダヤ教の神殿は一番外側に異邦人が入れる異邦人の庭があり、その内側にユダヤ人の女性が入ることのできる婦人の庭、さらにその内側にユダヤ人男性が入れる庭がありました。主イエスと弟子たちは、婦人の庭で忙しく出入りしている人々の姿を見ていたようです。この婦人の庭に、人々が献金を捧げるための献金箱が13個置いてありました。これは箱ではなく、金属でできたもので、その形からトランペットと呼ばれていました。ラッパの先をひっくり返したような形になっていました。献金を入れる口が狭くて、その下が広がっているビーカーのような形でした。狭い入口のところは絶えずコインが入れられていますし、人々の手も触りますので、照り輝いていました。人々がお祭りに参加するために神殿に来るときには必ず献金をささげますので、この時、この場所には大勢の人が行き来していたに違いありません。その騒がしさの中で、主イエスはじっと献金をささげる人々の様子を観察していました。ただ、主イエスは人々の行動だけを見ていたのではありません。その人の心の中、すなわちどんな動機で行動しているのかを見ておられました。そして、外側の行いや言葉だけを見ておられるのではなく、彼らの心の中を見ておられました。私たちは他の人の目をごまかすことはできますが、神様をごまかすことはできません。詩篇139篇の2でダビデは「あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。」と述べています。彼はそのことを経験したからです。彼は自分の部下の妻であった場てシェバと不倫をしてしまいますが、それを隠すために軍の将軍に命令して彼女の夫ウリヤを戦場の一番危険な場所に送り、敵が攻撃した時に彼を見捨てることによって彼を死なせました。人間的には完全犯罪であり、しかも自分の手で犯罪を犯していません。誰もこのことで文句を言う人はいなかったのですが、神様の目をごまかすことはできませんでした。

(1) 主イエスが見ておられたもの
 主イエスは神殿の庭で人々が神を礼拝するためにやって来て、そこで献金を捧げる様子を見ておられたのですが、主はそこで何を見たのでしょうか。過越しの祭りに参加するために多くの人々が神殿に来て献金を捧げていました。献金箱は金属でできていました。しかも捧げるお金は硬貨ですから、婦人の庭はどれほど騒がしかったことか想像できると思います。1節によると、イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられました。過越しの祭りには、エルサレム近くに住む人々だけではなく、地中海沿岸一帯に広く住んでいた海外在住のユダヤ人たちも集まっていました。自分の国からエルサレムに来るには当然費用がかかるので、エルサレムに来る巡礼者たちのほとんどが裕福な人々でした。彼らにとっては一生に一度ぐらいの巡礼ですから、自分の国の美しい服装で身を包んでいたでしょう。祭りの時のエルサレムの神殿は、とても華やかな場所であったにちがいありません。当然、金持ちはそれなりの金額を捧げていたと思いますので、何枚もの硬貨を投げ入れるとじゃらじゃらと大きな音がしたと思います。そのために、裕福な人々の中には、多くの献金を捧げていることを他の人に見せつけるために、多くの人が集まっている時に目立つように献金を捧げた人も多かったと思います。彼らは、献金を捧げると、大きな音が響くので庭にいた人々がいっせいに献金箱のほうを見ます。人々の視線を感じた金持ちたちはひそかに優越感を感じていたでしょう。主イエスはそんな心を見ておられたのです。もちろん、金持ちの献金がすべてそのようであったわけではありません。純粋な神様への感謝の心から自分にできるだけの献金を捧げていた金持ちも多かったと思います。ただ、彼らの献金が特に主イエスの心をひくことはありませんでした。
 ところが、そのようなきらびやかなエルサレムの神殿に、ひとりの貧しいやもめがやって来ました。旧約聖書の時代からイエスの時代に至るまで、夫をなくした女性は経済的に非常に厳しい状況に置かれていました。助けてくれる親戚がいないと本当に大変でした。神様はそのことをよく知っておられたのでやもめには特別な憐れみを示しておられます。例えば、申命記24章21節にはこう書かれています。「ブドウ畑のブドウを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。」新約の時代も教会はやもめを助けるようにと教えられています。それほど、当時やもめが生きて行くことは大変でした。当然、彼らは服装もみすぼらしいものだったでしょう。このやもめも、大勢の立派な服装をした人々の間で、少し引け目を感じながら献金箱にやって来たのだと思います。そして、彼女はレプタ銅貨を2枚献金箱に入れました。レプタとは新約聖書に出てくるお金のなかで一番価値の低い銅貨でした。ローマ人の読者のために書かれたマルコの福音書では、読者にその価値が分かるようにわざわざ「それは1コドラントにあたる」と説明しています。1レプタは2分の1コドラントになります。当時ローマの銭湯の入浴料が1回1コドラントだったそうなので、今でいうと2レプタは300円ぐらいになるのでしょうか。大勢の人がたくさんの献金を捧げている中で、彼女はそっと献金箱に近づき、だれにも気づかれないように体をかがめてそっと2枚の銅貨を入れたことでしょう。ただ、彼女はどうしてもこの2枚の銅貨を神様に捧げたいという強い願いがありました。貧しい生活であっても、彼女は毎日の生活の中で神様の恵みを感じ、神様の守りと祝福があることを知り、神様への感謝の思いで心は満たされていたからです。神様のために彼女は自分が持っていたすべてのお金を捧げたのです。彼女が献金を捧げた動機は、決して人に見せるためではありません。だれも2レプタの献金を見てすごいと思うひとはいませんから。彼女がすべてのものを神様に捧げた動機は神様への愛でした。ユダヤ人が旧約聖書の中でもっとも大切にしていた律法は申命記の6章5節です。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」彼女は、ほかの誰よりも、この律法の教えを実践したのでした。

(2)イエスの評価
 この時、婦人の庭にいた大勢の人の中で、このやもめがレプタ銅貨2枚を献金したことに気づいたのはイエスだけでした。本当に小さな献金でしたが、彼女の献金は純粋な神様への愛から出たものでした。その日捧げられた数えきれないほどの献金の中で、神様を最も喜ばせたのが、このやもめの献金でした。主は言われました。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多く投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
この世界では、例えば寄付金を集める場合、集める側の人が一番関心があるのは寄付された金額です。その人が喜んで寄付したのか、それともいやいやながら寄付したのか、そういうことはどうでもよいのです。この世界ではどれだけ捧げたのかが重要ですが、神様にとっては、どのような心で捧げられたのかが最も重要なことなのです。第一コリント13章3節でもパウロは次のように述べています。「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ何の役にも立ちません。」しかし、このやもめのように、たとえレプタ銅貨2枚というわずかな金額であっても、全力で神を愛する心から捧げられるならば、どんな金額の捧げものよりも価値のある捧げものになるのです。このやもめの捧げものは、本当に目立たずにひっそりと捧げられた献金でしたが、神様はそれを用いて大いなる技をなしてくださいました。主イエスの時代に神殿でささげられた献金は、数えきれないほど多くの人々によって、数えきれないほどの金額が捧げられました。しかし、主イエスが目を留めて、そして、2000年後の私たちにまで知らされている献金はこのやもめが捧げた献金しかありません。イエスの時代から今日にいたるまで、このルカの記事を読んで、このやもめのように心から愛をこめて献金をしようと決心して実行した人々の数も数えきれないほどいるに違いありません。小さな一人のやもめの行いが、歴史を通じてどれほど大きな影響を与えたか分かりません。この女性が、献金を捧げた後どうなったのか、それは聖書に記されていないのでわかりません。しかし、確かなことは、彼女は天に宝を積みましたので、この地上の生涯を終えて天に入れられた時に、彼女はどれほど豊かなものとして迎え入れらたれたことでしょう。
 今日は、石黒妙子先生が天に召されて10周年の記念の礼拝です。妙子先生も、このやもめのように全力で神を愛し、そして、産婦人科医として、またクリスチャンとして自分自身を愛するように人々を愛して人生を駆け抜けられたと思います。その生き様を神様はすべて見ておられて、大変喜んでおられ、召された妙子先生を大喜びで迎えてくださったはずです。私たちは、自分の置かれたところで、自分にできる範囲で、やもめのように妙子先生のように神様を全力で愛する人生を貫きたいと思います。

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