2019年3月3日 『いつまでも残るもの』(1コリント13章1-8 13節) | 説教      

2019年3月3日 『いつまでも残るもの』(1コリント13章1-8 13節)

 今日は、創立記念礼拝ということで、いつも読んでいるルカの福音書から離れて、教会にとって何が一番大切なのかということを聖書から学んでみたいと思います。新約聖書に「教会」という言葉が出てきますが、ギリシャ語で「エクレシア」と言います。この「エクレシア」という言葉の意味は、「呼び集められた人々」という意味です。私たちは「教会」という言葉を聞くと、第一に思い浮かぶのは建物のことです。ヨーロッパに行くと大聖堂と呼ばれる立派な教会がたくさんあり、その建物を見るだけで、その偉大さに圧倒されます。しかし、教会とは、建物ではなく、そこに集まって一緒に神を礼拝している人々の集まりであることを私たちは覚えなければなりません。今日読んだ「コリント人への手紙第一」というのは、当時のギリシャの商業の中心地コリントという町の教会に宛てて使徒パウロが書いた手紙です。コリント教会は、パウロによって建てられた教会ですが、パウロはずっとコリントにいたのではなく、ほかの地域の人々にもキリストを伝えるために、コリント教会はリーダーに委ねて伝道旅行を続けていました。すると、ある時、コリント教会に大きな問題が起こって、それを知らせる手紙がパウロのもとに届きました。その問題を解決するために書かれたのがこのコリント人への手紙第一です。
 教会は人間の集まりですが、聖書は、すべての人間は神の前に自己中心の性質にしばられた罪人であると教えています。人は生きて行く中でいろいろな問題とぶつかりますが、その問題の根本は周りの社会や学校や家庭の中にあるのではなく、自分の心の中の自己中心な性質にあると聖書は教えます。従って、人間にとっての一番の問題は、心の中にある罪の問題を解決することなのですが、これは人間の努力や修行などでは、決して解決できません。それを本当に解決できるのは、十字架にかかられたイエス・キリストの愛だけであるというのが聖書のメッセージです。神を信じるとはどういうことかというと、自分が神の前には自己中心な罪人であることを認めて、神のひとり子イエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、私の罪が赦されるためであったことを信じて、これからは神様が喜ぶように生きて行こうと決心することです。そうすると、私たちがどのように罪深い人間であっても、その罪が赦され、神の子どもという新しいアイデンティティを受け取り、将来、たとえ肉体は朽ち果てても目に見えないいのちは永遠に生きるという約束を受け取ります。この状況を救いと言います。何から救われるのかと言うと、自分の罪の裁きから救い出され、死んだ後の永遠の滅びから救い出されるのです。そこには日本人も外国人も区別なく、社会の身分も経済力も関係なく、救いは信じるすべての人に平等に与えられます。ただし、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰をもった瞬間に聖人になるわけではありません。信仰者として教会生活を過ごしながら、聖書の言葉によって教えられ、少しずつキリストに似た姿に変えられて行くのです。パウロが建て上げたコリント教会のクリスチャンたちも、そのような信仰成長の途中にありましたが、教会生活の中でいろいろな問題が起きていました。このことは今の私たちの教会も同じです。私たちは皆、イエス・キリストを信じる信仰によって罪を赦された罪人にすぎません。そんな私たちが神様から「神の家族の一員」に加えていただいたので、素直にそのことを感謝し、そして、これからは神の家族の一員にふさわしい生き方をしていこうという決断をすることが信仰生活にはどうしても必要です。コリント教会は大都市にあった教会で、救われれてクリスチャンになった人々の数も多かったし、知識や芸術やが技術に優れた有能な人々がたくさんいたようです。また、信仰の熱心な人も多く、多くの人が神様から豊かな信仰的な賜物を与えられていました。祈りに非常に熱心な人、教える能力がある人、人の前で話すのが得意な人、伝道に熱心な人、一生懸命に奉仕をする人、お料理が上手な人など、コリント教会のメンバーは本当に才能にあふれた人が多かったようです。それらのすぐれた能力は神様から与えられたものなので、教会では「賜物」と呼びます。
 この「賜物」自体は素晴らしいものなのですが、コリント教会のクリスチャンたちは、その賜物の使い方を間違っために、教会の中で争いがあったり、分裂があったりと、多くの問題を抱えていました。それらの問題を解決するために、使徒パウロがこの手紙を書きました。そして特に13章は、12章と14章の間に置かれているのですが、12章は、教会の中に与えられている様々な賜物について書かれていて、14章はそれらの賜物の一つの「異言」という賜物について書かれています。「異言」というのは神様から与えられる賜物の一つで、声に出して祈る時に、いつもの言葉とは違って、周囲の人には分からない言葉で祈るという賜物でした。12章と14章の間に「愛の章」と呼ばれる13章が置かれていることの意味は、パウロがコリント教会の人々に「どんなに素晴らしい賜物であっても、どんなに素晴らしい信仰であっても、そこに愛がなければ何の役にもたちませんよ。」ということを伝えるためです。別の言い方をすれば、教会だけでなく、人間の社会でも、どんな問題があるにしても、もしそこに神様の愛があるなら解決できるということになります。
 第一コリント13章の4~8節はよく結婚式で読まれる箇所です。夫婦が結婚をして家庭を築き、残りの人生を共に生きることを誓う時に、夫婦の間においても最も大切なものが愛であることは明らかです。ここに記されている言葉は確かに素晴らしい言葉なのですが、私たちは本当にその愛を実践できるのか、そこが大きな問題です。聖書は、道徳の本ではありません。また人生を生きるためのハウツーを教える本でもありません。これがただ神様からのアドバイスであるとしたら、私たちは「こんなのは絵に描いた理想にすぎない」と言って、最初からあきらめてしまうのではないでしょうか。聖書の教えを福音と言いますが、それは「良い知らせ」という意味です。それでは、聖書の福音が良い知らせとはどういう意味なのでしょうか。聖書が何度も繰り返して言っていることは、まず、神様があなたを愛しておられるということです。聖書には神のことを表す言葉が色々ありますが、もっとも多く言われているのは「神は愛です。」ということです。しかも、それは漠然とした愛ではなく、あなたや私を愛してくださる愛であり、私たちと個人的なつながりを持つ愛なのです。例えば、第一ヨハネの3章1節にはこう書かれています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなに素晴らしい愛を与えてくださったかを考えなさい。事実私たちは神の子どもです。」クリスチャンとは誰なのか?クリスチャンのアイデンティティとは何かと言うと、それは、神様から絶大な愛を受けていることを知って、神様の招きに応えて神の子どもになった者ということができると思います。自分のアイデンティティがよくわからないと、私たちは何のために生きているのだろうかという疑問が残って、この世の中でうまく生きて行くことができません。クリスチャンには、神の愛とか神に愛されているということがあまりにも当たり前になってしまっていて、それがどれほどすごいことなのかを見失っていることはないでしょうか。今年のケズィックの説教の中でもこのテーマが取り上げられたものがありました。講師の先生が一つの例えを言われました。ある学校に一人の男の子がいたのですが、その子供が養子だったために、クラスの子たちからいじめられていました。でも、ある時、この少年が自分を守るためにこう言いました。「何とでも言ったらいいよ。とにかく、僕のお父さんとお母さんはたくさんいる中から僕一人を選んでくれたんだ。」私たちクリスチャンも、信じる前は神様から遠く離れていましたが、主イエスを救い主と信じた時に、神の家族に養子として迎えられました。養子に迎えられることは決して恥ずかしいことではありません。神様と言う素晴らしい方に自分を選んでもらったのですから、むしろ大いに誇るべきです。さきほど引用した第一ヨハネ3章1節には「御父がどんなに素晴らしい愛を与えてくださったのか」という言葉がありますが、私たちは、もう一度、自分が神様から与えられた愛がどれほど素晴らしいものであったのかをよく考えることが大切です。私たちは、自分が特別な愛で愛されていることを体験すると、生きる意欲が出てきます。その人のために生きようとします。それは義務感からではなく、感謝の心からです。ずいぶん昔のことですが、台風が北海道を襲ったことがありました。その台風のために青函連絡船の洞爺丸が転覆し、大勢の乗客が海に投げ落とされてしまいました。救命胴衣が全員には足りませんでした。その船にたまたま乗り合わせた一人の宣教師が、海で人々に救命胴衣を配っていたのですが、途中でなくなってしまいました。見ると、ひとりの若い女性が救命胴衣を着けていません。それで、とっさにその宣教師は、女性に近づき「あなたはイエス・キリストを信じていますか?」と尋ねると、その女性は「信じていない」と答えました。すると彼は「じゃあ、私のこの救命胴衣をあなたにあげるから、あなたはぜひ助かってください。助かったらどこでもいいから教会に行って、イエス様の話を聞いて信じてください。」と言って救命胴衣を彼女に上げました。やがてその宣教師は、海に沈んで行きました。この女性は助かり、教会に行ってイエス様を信じました。この女性にとって宣教師はいのちの恩人ですから、喜んで言われたとおりに教会に行ったはずです。そして、その人の分まで一生懸命に生きようと誓ったと思います。この宣教師のように、主イエスは、私たちが神の子どもと言う新しいアイデンティティをもって生きるために、私たちの代わりに十字架で死んでくださいました。私たちは、神様がどれほど大きな犠牲を払って私たちのために死んでくださったのか、そのことを決して忘れてはなりません。その愛を知れば知るほど、自分はなんと幸いな人生を生きているのかが分かります。そして、そのことを知ると、私たちは喜んで他の人を愛することができるようになるのです。

 パウロは愛を語った結論として13節で次のように述べました。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」パウロはこの世の中でいつまでも価値が残るのは信仰と希望と愛であると言っています。私たちの信仰は、過去を振り返って、自分の過去の罪はすべてイエスの十字架によって赦されていることを確信します。この確信が私たちの人生の土台です。一方、キリストにある希望とは将来に対する希望です。神様は信じるすべての人々に永遠のいのちを約束しています。主イエスは、十字架にかかる前に信じる者たちのために天国に住まいを準備しに行くと言われました。私たちの主にある希望は、永遠のいのちと天国での生活あって私たちの未来に関わるものです。そして、愛は、私たちの現在の生活に関係するもので、先ほど述べたように、神に愛されていることが私たちのすべてを支えてくれます。神様の愛を受けて私たちの心が満たされて、私たちを愛の行動へと駆り立てます。ギリシャ語には愛を表す言葉がいくつかあります。人間の男女の愛を表すのはエロスの愛ですが、この言葉は聖書では使われていません。兄弟や仲間の愛を表すのはフィリアという言葉です。また親が自分の子供に対して抱く愛情はストルゲーと呼ばれていました。ところが、神様の愛は、これらの人間のどの愛ともまったく違うものでしたので、聖書では、神の愛を表す時には「アガペー」という言葉を用いました。聖書では、神の愛が一番強く表れているのが主イエスの十字架です。
主イエスは、ある時、こう言われました。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」主イエスは、私たちを自分の友だと見てくださったから、私たちのために身代わりとなって死んでくださいました。この愛こそが永遠に価値のあるものです。そして、その神様の驚くほどの愛が私たちに注がれています。人が何と言おうと、学校でいじめられていた少年のように、私たちは神様によって選んでもらった特別な人間であることを誇りにして、そのことを感謝しつつ日々の生活を過ごしたいと思います。

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