2019年3月24日 『イエスを失望させる弟子たち』(ルカ22章31-38節) | 説教      

2019年3月24日 『イエスを失望させる弟子たち』(ルカ22章31-38節)

 先週は、最後の晩餐での出来事として、12人の弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉いのか」と議論していたことを取り上げました。これは、主イエスが十字架に掛けられる前夜のことでした。主イエスは、いよいよ自分がこの世に来た目的、使命を果たす時が近づいてきたことを知って、とても気持ちが引き締まっていました。そして、弟子たちに、自分が十字架にかけられることは神と人間の間の新しい契約が始まることを意味するのだと教えられました。私たちの信仰にとって最も大切な教えです。にもかかわらず、12人の弟子たちは、イエスに教えられたことよりも、自分たちの中で誰が一番偉いのだろうかと、イエスの教えとまったく関係ないことを議論していました。その様子を見た主イエスはどれほどがっかりしたことでしょうか。主イエスは、弟子たちの心の中にあったプライドや妬みの心を見抜いて、彼らに謙遜に生きることこそがイエスの弟子にふさわしいことを教えられると同時に、彼らには将来素晴らしいことが約束されていると教えられました。主イエスは弟子たちの弱さを知っておられましたが、主イエスの愛はどこまでも一法的に私たちを愛しておられるので、失敗だらけの弟子たちに対する愛は変わることがなく、彼らへの約束も変わることがありません。このことはすべてのクリスチャンに当てはまることですが、私たちは、弟子たちの姿を見て、主イエスを失望させないクリスチャンでありたいと思います。今日の箇所は、先週の続きですが、ここでもまた弟子たちは主イエスを失望させているようです。

(1)ペテロへの言葉
 31節で、主イエスが「ペテロ、ペテロ」と2度彼の名前を呼んでいます。神が人の名前を2度繰り返して呼ぶことが何度かありますが、相手に対する深い愛情があることを示しています。また、この時はペテロへの警告の言葉であったので、ペテロに注意して聞いてほしいという気持ちが含まれていました。主は言われました。「見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」ここで、「あなたがた」と言われているので、これはペテロだけのことではなく弟子たち全員にかかわることでした。主は「サタンが私に願った」と言われました。この「願う」と訳されているギリシャ語は、普通、立場の低い人がより強い権威を持っている人に許可を求めるという意味で使われます。そのことから、サタンの力に限界があることと、主イエスはサタンよりも大きな権威を持っていることが分かります。同じようなことが旧約聖書のヨブという人にも起こります。神様はヨブが本当に正しい人で、サタンが彼にどんなことをしようとも、彼は信仰を失わないことを知っておられたので、サタンがヨブに苦しみを与えて、彼の信仰を試すことを許可されました。サタンは私たちの信仰をつぶして神様から引き離そうとしますが、神様はサタンよりも力強い方であることは大きな慰めです。この時も、主イエスは、ペテロがサタンによって信仰がふるいにかけられることを許可しましたが、主イエスは、ペテロが信仰的につまずいても、完全に信仰を失うことがないように祈ることを約束されましたし、その時に、ペテロが立ち直ることも知っておられました。
 ふるいにかけるとは、当時、小麦などを脱穀して実ともみ殻を分けるために行っていた行為ですが、農夫は大きなざるに脱穀した小麦を入れてざるを左右に大きく揺り動かしました。すると、軽いもみ殻がだんだんと上に上がってきます。次にざるをシーソーのように動かして表面に浮かんだもみ殻を風で飛ばして捨てるのです。ふるいにかける目的は、必要なものと不必要なものを分けることです。サタンは、私たちの生活の中で、信仰を激しく揺さぶることをしてきます。その目的は、私たちの信仰をつぶすことですが、神様はサタンよりも強い力で、私たちを守ってくださるのです。神様がこのことをお許しなるのは、ちょうど小麦の実ともみ殻が分けられるように、この経験をとおして、私たちの心の中にあるものが明らかにされて、信仰にとって不必要なものが取り除かれて、その人の信仰がより純粋なものになるためです。私たちの心の中に間違った考えや罪や弱さがあるならば、それらは信仰の妨げになります。神様はそのようなものを取り除こうとされるのです。
 神様は、ペテロに、サタンからの攻撃があることを警告されましたが、それだけでなく、ペテロにとって大きな励みとなる言葉を言われました。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」主イエスは、ペテロや他の弟子たちにこれからどんなことが起きるのか知っておられました。主イエスは、弟子たちの信仰が完全に失われることのないように祈られたのです。他の人のために祈る祈りを「とりなし」と言いますが、復活された主イエスは、今、天において、私たちのために祈っておられるのです。へブル書7章25節には次のように書かれています。「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになるのです。」私たちは自分のためや他の人たちのために祈りますが、主イエスも、私たちのことを知っておられ、私たちのために祈ってくださるのです。っそして主イエスは、ペテロに対して、立ち直ったら兄弟たちを力づける人になりなさいと新しい使命を与えられました。恐らく、失敗を経験しないままの自信たっぷりのペテロのままであったら、彼は他の人を力づける人になることはできなかったと思います。彼が、本当に自分を嫌いになるほどの大失敗を経験したペテロだったからこそ、他の人を力づけることのできる弟子になったと思います。彼の手紙が新約聖書に加えられていますが、これらの手紙は、ガラテヤ地方にいたクリスチャンにあてて書かれた手紙ですが、手紙によると、これらのクリスチャンは、イエスを信じる信仰のために、人々から非難され、脅しを受け、悪人呼ばわりされていました。(4:14、3:14、2:12)ペテロは、そのような苦しみを味わっていた信者たちが、苦しみの中でも喜びを経験し、世の終わりの時の希望をしっかり握るように励ましています。パウロもテサロニケの教会の信者たちに次のように勧めています。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」私たちは、お互いに祈り合い、支え合い、励まし合い、助け合う者でなければなりません。誰かを助けるためには、その人が抱えている問題を知らなければなりません。相手の状態を理解しなければなりません。病気の治療をする時も、どこが悪くてどんな状態なのかを知らないと治療はできません。人がけがをした場合も、どこをけがしたのか、どんなケガなのかを知らないと、正しい薬を正しいところに塗ることはできないのです。私たちが互いに助け合う時には、相手の立場に立って、相手の問題を十分に理解しないと、本当の助けはできません。誰かを助けるためには本当に敏感な心が必要です。この時のペテロには相手の心を思いやる敏感さが欠けていましたが、大きな失敗をとおして、彼の心は変えられたのです。
 しかし、この食事の時のペテロには、主イエスの言葉を受け入れる謙遜な心がありませんでした。弟子たちの間で、だれが一番偉いのかと議論していた直後に、主イエスはペテロに向かって、他の弟子たちの前で、彼が信仰を失うような経験をすると言われたので、ペテロは心の中でひどく怒っていたと思います。「なぜ、自分は12弟子のリーダーだと自負しているのに、彼らの前で恥をかくようなことを言うのですか?」と彼は思ったことでしょう。この時、彼は、自分の中では主イエスのためなら命を捨てるだけの覚悟ができていると信じ切っていました。それで彼は、主イエスの言葉に反論しました。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と断言しました。彼は本気でした。それほどに、ペテロは主イエスを自分の師匠として尊敬していましたし、主イエスを弟子として恥ずかしくない生き方をしたいと願っていました。しかし、それは彼の自信過剰だったのです。彼は、まだ自分の弱さを知りませんでした。まだ、彼の本当の力や勇気を試される経験がなかったからです。彼の主イエスに対する思いは正しかったのですが、突然、サタンの揺さぶりを受けた時に、落ち着いて対処する力を持っていませんでした。自分の信仰が揺らぐことはないとペテロはイエスに向かって強く主張しましたが、主イエスは、すべてのことを見抜いていました。ペテロには、とてもショックだったと思いますが、主イエスは「あなたは、今日、鶏が鳴くまでに(つまり夜ことをが明ける前に)三度わたしを知らないと言います。」と言って、ペテロが大きな失敗をすることを預言されました。食事の後、イエスと弟子たちはゲッセマネの園に行き、そこで主イエスがお祈りをされます。祈りが終わって園から出て来た時に、主イエスはイスカリオテのユダが連れて来たローマの兵士によって逮捕されます。そのころには真夜中になっていましたから、ペテロがイエスを知らないと言うのは数時間後の出来事でした。ペテロのプライドは大きく傷ついたことでしょう。しかし、実際に、彼は主イエスを三度知らないと言ってしまうのです。

(2)イエスのアドバイス(35-38節)
 続いて、主イエスは弟子たちにアドバイスをしておられます。主は自分がまもなく捕まること、そして十字架に掛ることを知っておられました。イエスに敵対する人々にとっては、イエスの弟子たちも危険な人物ですから、彼らが11人の弟子たちにどのようなことをするか分かりません。主は弟子たちのことを心配して、これからのために十分に備えをしておくようにと言われました。35.36節を読みましょう。以前、主イエスは弟子たちに悪霊を追い出し病気を癒すための力と権威を与えて、救いの福音を宣べ伝えるために、彼らを送り出すことがありました。その時に、主は弟子たちに「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も持たずに出かけなさい。」と言われました。しかし、彼らは何一つ足りないことがありませんでした。そのころは、人々はイエスの教えを喜んでいましたので、イエスの弟子たちが来ると彼らを歓迎して、弟子たちのために宿を提供したり、食べ物を出したり、献金をしたりしたので、彼らの必要はすべて満たされていたです。しかし、今は状況がまったく変わっていました。以前はイエスの弟子たちを援助していた人々も、ユダヤ教の指導者たちのイエスに対する反対が強くなっていくのを見て、トラブルに巻き込まれるのを恐れてほとんどの人が弟子たちに援助することを止めていたと思われます。それで、主は弟子たちに「財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。」と言われたのです。
 では、なぜ、主イエスは「剣のないものは上着を売って剣を買いなさい。」と言われたのでしょうか。主は弟子たちの身の安全を心配しておられました。この言葉に続いて37節で主イエスは、これから自分に起こることを弟子たちに言われました。「あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」主イエスはイザヤ書53章12節の言葉を引用して、イザヤが救い主メシヤに関して預言していたことが自分によって実現することを教えられたのです。主は罪のない方なので、不法な者ではありませんが、自分から進んで十字架にかかった時に、人々から不法な者の仲間と見なされました。本当は、私たち一人一人が不法な者なのですが、主が私たちの身代わりになってくださいました。その結果、人々はイエスの弟子たちを見ても「不法な者の仲間」と見なすので、弟子たちに何をするか分かりません。彼らも、ある程度、主と同じ苦しみを経験することになります。彼らを待ち受けていたのは霊的な戦いです。戦いに向かう時に、武装していない兵士はいません。相手を攻撃し自分の身を守る武器を持っていなければなりません。主イエスは、弟子たちにそのことを覚悟させるために、弟子たちに剣を買うように言われましたが、それは、実際に店に行って剣を買うということでなく、信仰の闘いのための備えをしなさいという意味であったと思います。このように、主イエスは、救い主メシヤの使命として、間もなく苦しみを受けて十字架にかかることを教えられたのですが、弟子たちは、まったく別のことを考えていたようです。主イエスが「剣を買いなさい。」と言われたのを聞いて、弟子たちはすぐに自分たちが持っている武器を調べました。すると、剣が二つありました。彼らは、これで何をしようとしていたのでしょうか。彼らには、この時になってもまだ主イエスがこの世に来られた目的を理解していませんでした。主イエスは十字架にかからなければならないのですが、弟子たちは、2本の剣を使って、イエスを捕らえようとする者たちと戦おうとしていたのです。彼らの中には、依然として、主イエスがローマ帝国を打ち破って、イスラエルに新しい王国を築くことを夢見ていた者がいたかも知れません。それにしても、12人の弟子たちが2本の剣で戦っても、この後、イエスを逮捕しに来るローマ兵の軍団と戦うには、剣2本は武器としてあまりにも少なすぎます。弟子たちが、まだ十字架の意味を理解していないことを見て、主はどう思われたでしょうか。主は「それで十分」と言われましたが、剣2本が十分なのではなく、もうこれ以上話しても仕方がないと思われて、弟子たちとの会話を止められたのだと思います。

 聖書では、剣は聖霊やみ言葉に例えられています。エペソ人への6章に出てくる信仰の武具のリストの中に「御霊の剣」が挙げられています。私たちにとって、信仰による困難に打ち勝つためには聖霊の助けが必要でしょう。一方、へブル人への手紙には「神の言葉は生きていて、力があり、両刃おの剣よりも鋭い」と書かれていますから、困難に打ち勝つもう一つの武器は「み言葉」です。主は、剣によって自分の身を防御して霊的な戦いに備えなさいと言っておられるのではないでしょうか。

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