2019年3月31日 『イエスの苦悩の祈り』(ルカ22章39-46節) | 説教      

2019年3月31日 『イエスの苦悩の祈り』(ルカ22章39-46節)

 イエスと弟子たちとの最後の晩餐は、イエスの大きな失望とともに終わりました。イエスは弟子たちと最後の食事をすることを強く願っておられました。弟子たちと過ぎ越しの祭りの食事をしながら、イエスは食卓のパンとブドウ酒を用いて、神と人間の間の新しい契約を表す、聖餐式を制定されました。クリスチャンにとって最も大切な教えであったにも関わらず、そこで主イエスが経験されたのは、大きな失望でした。イスカリオテのユダはイエスを裏切ることを決心し、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げて行き、ペテロは3回イエスを知らないと3度も嘘をつくことになります。最後の晩餐で主イエスが最後に言われた言葉は「それで、十分」という言葉でした。それは弟子たちがイエスの教えを理解せず、全く的外れなことを言うからでした。主イエスは、大きな失望を感じながら、最後の食事をした部屋を出て、弟子たちと共にエルサレムの東にある「ゲッセマネの園」に行かれました。ゲッセマネとは「油絞り」という意味です。エルサレムの街の東側にある山は「オリーブ山」と呼ばれていましたが、たくさんのオリーブの木が生えていました。山のふもとにオリーブオイルを造る場所があったので、「油絞り:ゲッセマネ」と呼ばれていたのでしょう。

(1)主イエスの苦しみの祈り
 ルカの福音書には書かれていませんが、ゲッセマネの園につくと、11人の弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた後に、8人は入口に残して、ペテロとヤコブ、ヨハネの3人を連れて中に入りました。マルコの福音書14章の33-34節には次のように書かれています。「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」主イエスが、これほど苦しみ悶える姿は今まで一度もありませんでした。ゲッセマネの園で、主イエスは、まさにオリーブの実がつぶされるかのように深い苦しみと悲しみを経験しておられたのです。
 救い主を預言したイザヤは53章3節で「彼は、悲しみの人で、病を知っていた」と書かれています。新改訳2017では「病を知っていた」となっていますが、「病」と訳された言葉は苦しみという意味をも持っています。救い主イエスは悲しみと苦しみを経験するべき救い主でした。これまでも主イエスは何度も悲しみを表しておられます。ある時は、イスラエルの人々の心があまりも頑ななことを悲しみ(マルコ3:5)、ある時は、ユダヤ教の指導者たちの不信仰を悲しみ(マルコ8:12)、ある時は親しい友であったラザロの死を悲しまれました(ヨハネ11:35)。また、十字架にかかるためにエルサレムに来られた時には、街が見えて来た時に、将来エルサレムがローマによって滅ぼされることを預言して泣かれました。しかし、今回の悲しみは、それまでのものとはまったく異なっていました。悲しみのあまり死ぬほどですという主の言葉が悲しみの深さを物語っています。
 また、主イエスは、これまで恐れを感じることは一度もありませんでした。神の子としての働きを始めたころ、主イエスは自分の故郷ナザレに行かれましたが、町の人々はイエスを殺そうとしました。しかし、ルカの記事によると、主イエスは彼らのただなかを通り抜けて去って行きました。十字架に掛けられる時が近づくと、主イエスは弟子たちに繰り返して自分が十字架で苦しみを受けることを話しておられました。主イエスは、いつも冷静で、力があり、悪霊を追い出し、人々の病をいやし、嵐を鎮めて来られました。最後の晩餐の時も、食卓のパンとぶどう酒を取って、それが十字架で裂かれる自分の体であり、そこで流される自分の血であると教えられたのです。これまで主イエスは恐れることは一度もありませんでした。
 では、なぜ主イエスは、ゲッセマネの園では、これほど深い悲しみを味わわれたのでしょうか。歴史上の人物で平安な死を迎えた人はたくさんいます。クリスチャンは天国の希望とともに死を迎えます。河村幹夫兄は、死ぬ間際に優子主事と一緒に病床でハレルヤコーラスの一節を歌っている間に召されました。東島の父も、最後息を引き取る時に、いつも家から出掛けるときと同じように片手をあげて、まるで「行ってくるよ。」と言っているような姿で召されました。このように多くの人が死を恐れずに死んで行きましたが、なぜ、神の子であり、十字架にかかることを使命としてこの世に来られた主イエスが、ここに来て、これほど深い悲しみと苦しみを経験しておられるのでしょうか。
 キリストは完全に私たちと同じ人間としてこの世に来られました。へブル人への手紙には、イエスは罪を犯すことは決してありませんでしたが、私たちと同じように試みを受け、苦しみを経験されたので、私たちの弱さに同情することができると書かれています。もし、主イエスにとって、十字架にかかることは何の苦しみでもなくへっちゃらなことで、ほいほいと十字架に掛られたとしたら、主イエスと私たちの間にあまりにも大きな違いがあって、主イエスの十字架は私のためであったということを実感できないと思います。主イエスは、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈られました。聖書の中で「杯」はすべてを飲み干すものと見なされていて、特に、神のさばきや怒りなどを受ける時に使われています。主イエスは杯を飲み干さなければならなったのですが、その杯の中に何が入っていたのでしょうか。一つは私たち人間のすべての罪が入った盃でした。神がもっとも嫌うのは罪です。ニュースを見ていると、本当に恐ろしい事件が次から次に起こり、人間の心の醜さを痛感します。100%聖なる神にとって罪ほど憎むべきものはありません。きれい好きな人はどんな小さな汚れでも大騒ぎをするほどに嫌いますが、神の罪への憎しみとは比べ物になりません。それを全部飲み干さなければならないのです。ちょっと想像してみてください。自分が一番きらいな虫か生き物を飲み干せと言われたら、私たちは卒倒してしまいます。主イエスにとっては肉体の苦しみは問題ではありませんでした。非常におどろおどろしい罪を飲み干さなければならないことが苦しみでありました。
もう一つ、この盃の中に入っていたのは神の怒りと裁きでした。主イエスは父なる神と完全な愛によって一つにつながっていました。それが、十字架の上では、神の怒りと呪いを受けて、神の裁きを受けなければなりませんでした。神の裁きとは、永遠に神から引き離されて、黙示録の言葉によると、燃える火の池に投げ込まれることでした。自分が最も愛する者から呪われ、激しい怒りを受け、その人から見捨てられることに、私たちは耐えられるでしょうか。主イエスは、神の栄光のただ中におられましたが、私たちの身代わりとなって十字架にかかるために、栄光の場所を離れてこの世に来てくださいました。それだけでなく、主イエスは私たちの代わりに神の裁きを受けて、神から引き離されて、一度地獄に落とされるのです。毎週礼拝の中で唱和している使徒信条の中にも「十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り」とあります。栄光に満ちておられる方が地獄に落ちる時に、これほどの苦しみを味わわないほうがおかしいと思います。これら苦しみのすべては、本当は私たちが受けなければならなかったものなのですが、主イエスがそれを身代わりに受けてくださいました。

(2)主イエスの従順の祈り
 しかし、イエスは、そのような苦しみの中でも第一にしていたことは、父なる神に従うことでした。だからこそ、イエスの祈りは、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」主イエスは「みこころなら」の後に続いて「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」という祈りでした。主イエスには2つの願いがありました。一つの願いは、父なる神のお許しがあって、人間の罪を飲み干して神の裁きと怒りを受けなくてもよいこと」であり、もう一つの願いは、父なる神の御心に従いたいという願いでした。そして、主イエスは、杯を取り去ることが神のみこころではないことを確信し、杯を飲み干すことが父の御心であることを受け入れられました。自分の願いよりも父なる神の御心に従うことを選ばれたのです。私たちの罪が赦される道は、この主イエスの父なる神への完全な従順のおかげで実現しました。私たちは、主イエスが父なる神の御心に従順に従って極限の苦しみを経験された結果、ただ主イエスを信じる信仰だけで私たちのすべての罪が赦されるのであるということを、いつも心にしっかりと覚えておかなければなりません。

(3)主イエスの勝利の祈り
 43節には、「すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。」と書かれています。主イエスの前にみ使いが現れるのは、イエスの生涯のおいて2回しかありません。1度目が神の子としての働きを始める前に悪魔の誘惑を40日間経験された時であり、2度目はゲッセマネの園で祈られた時です。父なる神は御子イエスがどれほどの苦しみを経験しているか知っておられたので、み使いをおくって御子イエスに力を与えられました。イエスは苦しみもだえていよいよ力強く祈られたおで、汗が血のしずくのように地に落ちました。これは、英語でhematidrosisと言う、日本語では血汗症と呼ばれる非常にまれな症状です。この症状は、死の危険のような極度のストレスによって引き起こされるものです。レオナルドダビンチにも現れ、その他、戦いに出て行く直前の兵士や突然の死刑宣告を受けた人々にこの症状が現れたことが記録に残っているそうです。このように激しい祈りを捧げてから3人のもとへ戻ると彼らは眠っていました。それで、主イエスはもう一度彼らに「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言って、再び離れたところで一人祈られました。そして、また弟子たちの所に戻ってみると、また弟子たちは眠り込んでいました。もう一度主イエスは一人になって父なる神に祈りました。この3度の祈りをとおして、主は十字架に行く備えができました。45節に、イエスは祈りが終わって立ち上がったと書かれています。「立ち上がる」という言葉がイエスの心の状態を示しています。父なる神の前でひれ伏して祈っておられたイエスが立ち上がりました。そして弟子たちに言いました。これもマルコの福音書の引用ですが、「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」主イエスが3度目の祈りを終えて立ち上がった時に、地面にはイエスの血がにじんでいました。しかし、この時、主イエスは最後の誘惑に勝利をされたのです。この時にすでに、闘いの勝負は決まっていました。主イエスが十字架のうえで最後に「完了した」と叫んで息を引き取った時、主イエスは、罪と死に対する勝利を宣言されました。主イエスの使命が完了したのです。それは主イエスが私たちの罪をすべて背負って罪だらけになって罪びとが受けるべきすべての罰を受けられたことの宣言です。私たちのすべての罪を主イエスがご自分の身に引き受けて、私たちの身代わりになって死んでくださったのです。そして、三日目に復活されたことによって、罪の結果である死に対しても勝利を宣言してくださいました。
 主がこれほどの苦しみを味わって祈られたことを私たちは忘れてはなりません。私たちが苦しまなくてもよいようにと主が苦しんでくださったのです。そこに私たちに対する主イエスの愛が現れています。私たちは、自分のためにここまで苦しんでくださった主イエスの愛を受けて、その愛に心を燃やされて、主のために生きる者でありたいと思います。

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