2019年4月21日『信じる者になりなさい』(ヨハネ20章24-29節) | 説教      

2019年4月21日『信じる者になりなさい』(ヨハネ20章24-29節)

 先週は、イエスの12弟子のひとりペテロがイエスを3回も知らないと嘘をつく大きな失敗をしたことを取り上げました。彼は主イエスのためなら死ぬ覚悟ができていると本気で信じていましたが、自分の弱さ知らなかったため、そのような失敗をしてしまいました。今日は、主イエスが復活された日ですが、イエスの12弟子にはもう一人主イエスの復活をすぐに信じなかったことで有名になってしまった弟子がいます。それはトマスです。彼はいつも「疑い深いトマス」と呼ばれています。トマスだけでなく、今でも大部分の人は聖書を作り話のように考えていますし、主イエスの復活を信じていません。彼らは「聖書は非科学的だ」と言い、現代の科学がすべてだと主張します。しかし、彼らはそう言いながら科学のことをほとんど知らないのです。今日ここにおられる方の中に、たぶん近いうちにノーベル賞の候補になるほどの科学の研究をしている人はいないでしょう。聖書も読まず、当時の歴史も調べずに、ただ信じることを拒否している人がほとんどです。そういう方々にぜひおすすめします。一度、真剣に探求してみてください。探求してから結論を出してほしいと思います。
 かつて、アメリカにインガーソルという有名な無神論者がいました。ある日彼が友人のルー・ウォーレスと汽車に乗りセントルイスに向かっていました。町が近づき大きな教会が見えて来た時に、インガーソルはウォーレスに言いました。「おい、あの大聖堂を見ろ。ひどい金の無駄遣いだ。キリストが実在の人物でないことなど分かり切っているのに。あんな神話を信じることがどれほど愚かなことか、誰かが教えなければならないな。」そしてウォーレスに「君が本を書いたらどうだ?キリストは空想の人物で神の子なんかじゃないとはっきり証明してやればいい。」と本を書くことを勧めました。すると、彼は「分かった。やって見よう。」と答えました。それから、ウォーレスはキリストに関する資料を見つけられるかぎり集め、多くの書物を読み、古代の写本を調べ、聖地イスラエルを訪れ、聖書も読みました。すると、彼に奇妙なことが起こりました。彼が資料を調べれば調べるほど、それらの資料はキリストが実在していることを示すものであることが分かりました。さらに熱心に資料を調べましたが、とうとう、彼は一つの結論に達しました「キリストは歴史上の人物の中で、もっとも多くの資料で存在が証明される人物である。」そして、彼は同時にイエス・キリストを神の子であると信じる決心もしたのです。彼は多くの時間とお金をかけて研究してきました。膨大な資料が手元に残りました。そこで彼は、妻の勧めもあって、自分が集めた資料と研究に基づいて、キリストに関係する本を書くことにしましたが、その内容は最初の計画とはまったく異なるものでした。このようにして出来上がったのが、映画にもなった「ベン・ハー」なのです。「科学」という言葉を持ち出して信じない人は多くいますが、キリストの十字架と復活は、私たちにお金では絶対得ることのできない、平安や生きる喜びを与えます。ぜひ、まだイエスを信じることのできない方々は、真剣に探究してみてください。
 イエスの復活は歴史的な出来事なので、科学の実験を行って証明することはできません。歴史の中での状況証拠から証明することしかできません。今日はその中で、2つだけを取り上げます。一つは、イエスの遺体が出てこないということです。当時、イエスの弟子と信者は本当に少数です。一方、ユダヤ教の指導者たちやローマ帝国の軍隊は絶大な力を持っていましたので、彼らが少し動けば、いくら弟子たちがイエスの遺体を隠したとしてもすぐに見つけられるはずです。しかしイエスの遺体はどこにも現れていません。もう一つはイエスの弟子たちの変化です。イエスの弟子は12人いましたが、一人はイエスを裏切ったイスカリオテのユダ。彼はイエスを裏切った後、罪悪感に悩まされて結局自殺してしまいます。残り11人ですが、イエスがローマの兵士たちによって捕らえられた時、ペテロとヨハネ以外の9人はどこかに逃げて姿を隠しました。ペテロとヨハネは遠く離れてイエスの後をついて行ったのですが、その後、ペテロは3回「イエスを知らない」とうそをついてしまいます。そして、主イエスが十字架に掛けられた時、その近くにいたのはヨハネ一人でした。ペテロだけでなく、弟子たちは皆同じように、主イエスのためなら死ぬ覚悟はできていると言っていたのに、ヨハネ以外は、皆、自分のいのちを守るために、逃げ去ったり、嘘を言ったりしました。主イエスが復活した日も、彼らはユダヤ人たちを恐れて戸を閉めて隠れて集まっていました。そんな弟子たちが、復活の主イエスに出会い、そして、聖霊の力を受けると、すっかり変わってしまいました。彼らは大胆に主イエスの十字架と復活を人々に語り始め、そして、最後にはそのようなことをしたために殺されたのです。もし、これがすべて偽りだとしたら、弟子たちはローマの警察の目を盗んでイエスの死体をどこかに隠し、嘘であることを知りながら、イエスが復活したことを人々に語り、その結果死んだことになります。2000年前の人間であっても、死んだ人が生き返るなど信じがたいことです。また、弟子たちにとって、イエスが復活したというフェイクニュースを語ったところで、何の得にもなりません。そんな嘘のために人間はいのちをかけることができるでしょうか。しかし、弟子たちは変わりました。そして、そのように歴史が動いて行きました。こう考えると、その時、そこで何かが起こったとしか考えられないのではないでしょうか。

 主が復活された日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を閉じて集まっていました。神殿の警察が彼らを見つけ出して逮捕し、イエスに関するすべての働きを完全に終わらそうとしていると思われたからです。首謀者であるイエスが逮捕された後、今度は自分たちが捕まえられる番だと考えるのは当然のことです。そんな時、突然、復活の主イエスが彼らの目の前に現れました。主イエスの復活の体は、見た目は同じでしたが栄光の体、天国で生きるのにふさわしい体に変わっていました。そのため、扉が閉じられていてもイエスは通り抜けることができました。このことは主イエスを信じる私たちにとって大きな希望です。主イエスが復活されて栄光の体に変えられたように、私たちクリスチャンも、地上の体は壊れますが、その代わりに栄光に満ちた新しい体が与えられるのです。復活後の主イエスは、十字架で死ぬ前とはまったく異なる動きをしています。壁を通り抜けることができたり、突然遠く離れた別の場所に移動することができたりしました。ということは、私たちも死んだ後、天国で生きる時の体はこの時のイエスを同じだということになります。私は想像しているのですが、おそらく天国では、私たちは空が飛べると思います。いくら走っても疲れて倒れることがないと思います。天国に行けばどんな若者よりも元気に楽しく、どこへでも飛んで行くことができるからです。そういう風に考えると、死んだ後の生活を考えるとワクワクします。
 主イエスは、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちに対して「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちはイエスが突然現れたので、気まずい思いをしていたはずです。彼らは皆、イエスが捕まる前には「主イエスのためなら死ぬ覚悟ができています」と格好いいことを言っておきながら皆、イエスを見捨てて逃げていたからです。しかし、主イエスは彼らを叱ることなく、彼らの恐れと不安をなくすために、彼らに平安を与えられました。主イエスが弟子たちに傷のついた手と脇腹を見せられたので、弟子たちは主イエスが確かに十字架で死んで、そして復活されたことを確信し、彼らの心は大きな喜びで満たされました。それまでの悲しみや不安や恐れはどこかに飛んで行ってしまいました。ところが、この時に、どういうわけか、12弟子の一人トマスだけがその場にいませんでした。その理由は聖書に書いていないの分かりませんが、十字架で死んだイエスに失望したのか、自分は見捨てられたと感じたのか、あまりにもショックが大きかったために一人になりたかったのかも知れません。トマスが弟子たちのところに戻ってみると、彼らはひどく興奮していました。恐らく彼らはトマスに言ったでしょう。「お前、いったいどこに行ってたんだ。イエス様が復活されて俺たちのところに来られたんだぞ。」彼らが全員興奮している様子を見ると、トマスにも彼らが嘘言っているのではないことは分かりました。25節に「ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言ったと書かれています。日本語では「言った」と訳されていますが、「言い続けた」と言う意味を持っています。トマス以外の弟子たちは、復活のイエスに出会った喜びが大きくて、話さずにはおれない状態になっていました。トマスの心は葛藤していました。なぜ主イエスがわざわざ自分のいない時に現れたのだろうか。もう2度と会うことはできないのだろうか。彼が復活の主に会いたいのは明らかです。しかし、あまりにも喜んでいる他の弟子たちに嫉妬したのでしょうか。彼は思いもよらぬ言葉を言ってしまいます。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」トマスがこんな言葉を言ってしまったので、彼は「疑い深いトマス」と呼ばれるようになります。ただ、これは彼の本心ではないと思います。イエス様の手の傷跡やわき腹に手を入れたいなんて考えていないのですが、悔しい気持ちからそんな言葉を言ってしまいました。ただ、トマスが偉い点は、そのような状況でも他の弟子たちから離れなかったことです。おそらく次の日曜日までの一週間、トマスは非常に気まずい思いで他の弟子たちと一緒過ごしたと思います。一人でいたほうが気楽だったと思います。イエス様も、次の日に現れてくださったらトマスもそんなに長い時間悩まなかったと思うのですが、主は次の日曜日まで弟子たちの前に姿を現されませんでした。その間、トマスの信仰が試されたのではないでしょうか。彼は復活の主イエスに逢いたいという願いを持っていましたので、弟子たちから離れることをしませんでした。そのことがトマスに素晴らしいチャンスを与えました。
 次の週の日曜日に、再び弟子たちが集まっているところに復活のイエスが現れました。一週間前と同じように、イエスは彼らに「平安があなたがたにあるように」と言われてから、すぐにトマスに向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。ここにも主イエスのトマスに対する愛があふれています。主イエスは、この夜はトマスのために現れてくださいました。主イエスはトマスという一人の弟子のことを心に留めて、彼を疑いや迷いから解放してあげたいと思われたのです。トマスにとって、この状況の中で自分から主イエスに言葉をかけるのは難しかったと思います。何と言ったらいいのか。もしかしたら、イエスは自分が一週間前に言った言葉を知っていて怒っているかも知れないと考えると、なおさら話しかけにくかったと思います。そんなトマスに、主イエスは叱りつけるのではなく愛をもって彼に言葉をかけておられます。主イエスはトマスの心の中の全てを知っておられました。トマスが主イエスをを慕っているからこそ、自分がいない時に、イエスが他の弟子たちに現れたので、口惜しさと寂しさと怒りを感じて、本心からではなく悔し紛れに「イエスの手の釘の跡に指を入れ、脇腹に手を入れなければ信じない」と強がりの言葉を言ったこと、そのことすべてを主イエスは知っておられました。それで、主イエスは、トマスの気が済むように、トマスが求めた復活の証拠である体の傷に触れるように言われました。目の前に手に傷跡を残しているイエスを一目見ただけでトマスは十分でした。彼の心の葛藤は一瞬にして消えました。彼は素晴らしい信仰告白をしています。「私の主、私の神よ。」トマスはイエスを触って信じたのではなく、主イエスを見て、イエスと出会って信じました。この時からトマスの生き方が変わりました。トマスは、言い伝えによると紀元52年にインドに行きました。そして、彼はインド南部の海岸に到着し、そこに7つの教会を建てました。彼の働きの影響は今日まで続いています。彼は紀元72年に、インド南部の街、マドラス(チェンナイ)で暴漢に襲われていのちを落としました。彼の人生はイエスに対する「私の主、私の神」という信仰告白によって支えられたのです。あなたの人生はどんな土台の上に立っているでしょうか。

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