2019年4月28日 『今も生きておられる主』(ヨハネ21章1~14節) | 説教      

2019年4月28日 『今も生きておられる主』(ヨハネ21章1~14節)

 ヨハネの福音書21章は、20章でいったん書き終わったものの後に付け加えられたエピローグのようなものだと考えられています。というのは20章の終わりの部分でヨハネが次のように書いているからです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(31節)それは1章の1節から18節までが、イエスの地上での働きを書き始める前のプロローグになっているのと同じです。そこには、永遠の存在である神の御子イエスが、人となってこの世に来られたことが記されています。それでは、21章はどういう目的で書かれたのでしょうか。その一番の理由は、弟子たちの心にあった心配、また福音書を読んだ人の心にあった心配に対する答えとして書かれていると言えます。その心配とは、主イエスが天に戻られて、彼らの前から姿が見えなくなる時に、誰が弟子たちの世話をするのか、弟子たちはこれからどうなるのか、そのような心配に答えるためにこの箇所が記されたのだと考えられます。11人の弟子たちは主イエスと3年余り生活を共にして来ましたが、これからは自分たちだけで生活しなければなりません。これまでは生活の必要はいつも主イエスが与えておられました。弟子たちはこれから、主イエスの弟子を続けるのか、それとも元の生活に戻るのか、自分たちの将来について考えていました。

(1)人間の弱さと失敗
 1節に「その後」と書かれています。それは20章に書かれている主イエスの復活の日と、1週間後の出来事から少し時間をおいてからという意味でしょう。弟子たちは、エルサレムを離れて自分たちの故郷であるガリラヤ地方に戻っていました。11人の弟子たちが全員一緒に行動したのではないようです。2節を見ると、ペテロ、先週お話ししたトマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちとはヨハネとヤコブ、そして他に2人の弟子たちと書かれているので合計7名です。他の2人は名前が書いていないので確証はないのですが、恐らく、アンデレとピリポだっと思います。アンデレはペテロの兄弟ですし、ピリポはペテロと同じ町の出身で、ナタナエルをイエスを紹介したのがピリポだったからです。主イエスは弟子たちにガリラヤに行くようにと言っておらたので、彼らはガリラヤに向かったのでしょう。1節に「ティベリア湖畔」と書かれてますが、これはガリラヤ湖の別名です。湖の西側にローマ皇帝のために創られたティベリアという大きな町があったので、そのようにも呼ばれていました。3節を見ると、ペテロがほかの弟子たちに「私は漁に行く。」と言っています。これは、退屈なので釣りをして楽しもうと思って言った言葉ではないと思います。ペテロも弟子たちも、これからの生活のことを考えていたはずです。恐らくペテロは、イエスの弟子として生きるのを止めて、昔の仕事に戻ろうと考えて言った言葉だと思います。ここに集まっていた7人はほぼ皆漁師でした。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師だったと書かれていますし、ピリポもペテロと同じベツサイダという町の出身ですが、ベツサイダと言う地名は「漁師の家」という意味なのです。ペテロが「私は漁に行く。」と言った時に、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言っていますが、彼らも、おそらく、将来のために元の生活に戻ろうと考えたのではないでしょうか。3節に彼らは出て行って、小舟に乗り込んだと書かれていますが、彼らは、一緒にガリラヤ湖畔に行って、そこにたまたま小舟があったので乗り込んだとすれば、英語で言えばa boatとなります。しかし、ここでは、theという言葉がついているので、どれでもよい小舟ではなく、あの小舟と一つの決まった舟に乗り込んだことになります。おそらく、ペテロが以前使っていた小舟だったと思います。ペテロはしばしば衝動的に行動するのですが、彼の決心を見て、他の弟子たちも彼について行きました。彼らは主イエスから、「あなたたちはこれから人間を取る漁師になるのだ」と言われていてイエスの弟子になるように召されていたのですが、イエスの姿が見えない将来に不安を感じたのか、ペテロは以前の生活に戻りたいと思い、他の弟子たちもペテロと同じように感じていたようです。
 7人の弟子たちは、その小舟に乗って漁に出かけました。ところが、彼らは夜通し働いたにも関わらず、魚は一匹も捕れませんでした。彼らは子どものころからガリラヤ湖で漁をしてきたベテランの漁師ですから魚がいそうな場所を知っていたでしょうし、夜が魚を取るのに一番良い時間であることも知っていました。ところが、その夜、魚は一匹も捕れませんでした。このことは何を示しているのでしょうか。漁をすることは悪いことではありません。立派な仕事です。しかし、彼らは、主イエスから人間を取る漁師になるように召されていた者たちです。彼らは、昔の生活に戻るべきではありませんでした。神様の御心に反することを行おうとすると、この時の彼らのようにどんなに人間的な知恵や力を使って働いても、良い結果は生まれないのです。7人の弟子たちはどれほどがっかりして、岸辺に戻って来たことでしょうか。
 夜が明け始めた時に、主イエスがガリラヤ湖の湖畔に立たれました。ところが7人は、それがイエスだとは分かりませんでした。夜明けの湖畔には、漁を終えた漁師から魚を買う仲買人が岸辺に立っていましたし、朝焼けや朝日の光で、弟子たちにはその姿がよく見えなかったのかも知れません。その時、イエスは彼らに向かって言われました。「こどもたちよ。食べる魚がありませんね。」がっかりしていた弟子たちは力なく「ありません。」と答えました。彼らは自分たちがどれほど無力なのかを痛感したことと思います。彼らは、主イエスが自分たちのために、どれほど素晴らしい計画を持っておられるのかを忘れてしまい、また主イエスには人間の思いを超えるはるかに大きな力があることも忘れていました。彼らは、主イエスを離れては何もできない者であることを痛感したに違いありません。ただ、彼らがこの朝経験したのは、自分の弱さだけではありませんでした。主イエスの神としての力を彼らは再確認し、主イエスが自分たちのすべての必要を満たしてくださることも知ることになります。

(2)神の力強さと神による成功
 がっかりしている弟子たちに、主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と言われました。7人の弟子たちは一晩中漁をしていたので非常に疲れていたでしょうし、一匹も魚が獲れなかったことで少々イライラしていたことでしょう。しかも、魚を捕ることに関しては弟子たちのほうは専門家です。それに、魚は小さな舟の右か左を選んで集まるなんていうことがあるのでしょうか。彼らは誰がしゃべっているのか分かっていませんから、主イエスに向かって「人のことに口出ししないでくれ」と言いたくなったかもしれません。ただ、その声には権威に満ちた響きがあって、弟子たちは異議を唱えることができませんでした。それで、彼らは主イエスに言われるように、小舟の右側に網をおろしました。すると、びっくりしたことには、彼らが網を下ろすと同時におびただしい数の魚が網にかかって、網を引き揚げることができないほどになりました。おそらく、一晩中、魚の群れを弟子たちが乗った小舟から遠ざけておられた主イエスが、その時に、彼らの舟の右側に魚の群れを導いていたのでしょう。この時、ヨハネは3年ほど前の出来事を思い出しました。それはまだペテロが正式にイエスの弟子になる前のことでした。主イエスはガリラヤ湖で主イエスが群衆に教えておられたのですが、話を終えるとペテロに「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚を取りなさい。」と言われました。この時も前の夜にペテロたちは夜通し漁をしていたのに何も取れませんでした。ペテロはイエスに「夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。しかし、お言葉ですので網を下ろしてみましょう」と言って網を下ろすと、今回と同じようにおびただしい数の魚が入って網が破れそうになったのです。今回の出来事がその時とあまりにも似ていたので、ヨハネは、その人がイエスであることが分かりました。それヨハネはペテロの耳元で「あれは主イエスだ」と言うと、衝動的に行動するペテロは、漁のために裸だったので、慌てて上着を着て湖に飛び込みイエスの所へ移行と懸命に泳ぎました。舟が岸に着くのが待てなかったのです。ただ、上着を脱いで泳ぐのなら分かりますが、彼はわざわざ上着を着て飛び込みました。主イエスにお会いするのに裸はよくないと思ったのでしょう。
 他の弟子たちも陸地に到着した時に、彼らは、そこに炭火とその上に魚とパンが載せられているのを見ました。主イエスは、弟子たちが一晩中働いて疲れており空腹であるのを知っておられたので、彼らのために食事を用意しておいてくださったのです。主イエスご自身がいつも言っておられたように、主は仕えられる者として来られたのではなく、仕える者となるためにこの世に来てくださいました。弟子たちは自分の力で自分の必要を満たすことができませんでしたが、彼らの必要を主イエスが満たしてくださいました。さらに、主イエスが弟子たちに「今捕った魚を何匹か持って来なさい。」と言われたので、ペテロが網を引き揚げると、網の中には153匹の魚が入っていました。153という非常に細かな数字が記されているので、この数字に何かの意味が含まれているのではないかと想像する人たちがいますが、これは単純に彼らが捕らえた魚の数を表しているだけだと思います。主イエスは弟子たちに「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と彼らを呼びますが、ユダヤ人にとって、食事はただ食べることだけでなく、最も深い交わりを意味しました。主イエスは、彼らに「さあ、食事をしながらゆっくり話をしよう。」と言われたのです。彼らは、自分たちがイエスの弟子であることを辞めて、昔の仕事に戻っていたことに罪悪感を感じていたことでしょう。そんな自分たちのために食事を整えてくださった主に向かって、だれも、「あなたはどなたですか」と尋ねる弟子はいませんでした。そして、イエスに招かれたものの、誰も主イエスが用意してくださったパンや魚を食べようとしませんでした。それで、主イエスが彼らに近づいて、パンを取って彼らに食べるように分け与え、魚も同じように彼らに分け与えてくださいました。この食事の間、彼らが主イエスとどんな話をしたのかは、ヨハネは何も書いていないので分かりませんが、彼らは主イエスと親しい交わりを持つことができました。

 この出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか。彼らが主イエスの弟子を辞めて昔の仕事に戻ろうとしましたが、魚は一匹も捕れず失敗に終わってしまいました。ところが、彼らが主イエスの言葉を聞いて、それに従った時には、思いがけずにたくさんの魚が獲れました。さらに主イエスが彼らのために食事を用意してくださったことをとおして、弟子たちは、主イエスが復活された後も、主は自分たちの必要を満たしてくださる方であることを理解しました。イエスから離れた時に、彼らは失敗しましたが、イエスの声に従った時に、彼らは成功しました。彼らはこれからも主イエスの声を聞いてその言葉に従うことを決心したと思います。そして、彼らは生涯、イエスの弟子であり続けました。私たちも、彼らと同じように、昔の自分に戻ることなく、生涯、イエスの弟子として生きて行くことが人生の成功の秘訣であることを覚えておかなければなりません。
 エリック・ワイヘンメイヤーという人が2001年の5月にエベレスト登頂に成功しました。彼は目の病気を患い13歳の時に視力を失いました。しかし、彼は視力を失っても落ち込むことはありませんでした。登頂に成功するのは10%だけ、1953年以来200人近い人が命を落としています。しかし、エリックは栄光しました。その秘訣は、彼の音や声を聴く能力にありました。彼は自分の前を行く人の体につけられた鈴の音を絶えず聞いていたので、どちらの方向に進めばよいか分かりました。チームメイトの声や指示を一つも漏らさずに聞きました。杖で氷をたたいてその厚さを知りました。そのように徹底的に聞くことによって彼はエベレスト登頂に成功したのです。私たちも人生という道を進むときに、絶えず神の言葉を聞いて行くならば、人生において必ず成功することを覚えておきましょう。

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