2019年7月7日 『イエスの死と私たちのいのち』(ルカ23章:44-49節) | 説教      

2019年7月7日 『イエスの死と私たちのいのち』(ルカ23章:44-49節)

主イエスは、隣で十字架に掛けられていた犯罪人がイエスを信じる信仰を告白すると、「あなたは、今、わたしとともにパラダイスにいる。」と宣言されました。その男は十字架刑になるほどの、極悪人でした。社会にいても何の役にも立たず、かえって害になるだけの人間でした。しかし、そんな人間にも神様の救いの開かれています。その時、ちょうど昼の12時ごろになっていましたが、突然、全地が真っ暗になりました。そして、その暗闇状態が午後3時ごろまで続きました。特別に分厚い雨雲がエルサレムの街を覆ったのでしょう。十字架の近くにいた人々もひどく驚いたことと思います。主イエスがお生まれになった時は、ベツレヘムの夜空にまぶしい光が現れました。しかし、33年後、主イエスが地上の生涯を終える時には、闇が地を覆いました。
 この闇は何を意味するのでしょうか。旧約聖書では、しばしば闇は死を悼む悲しみのシンボルと考えられていました。預言者アモスは次のような言葉を記しています。「その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。」この闇は
父なる神がひとり子イエスのいのちを犠牲にする深い悲しみを表すものでありました。もう一つは、闇は悪の力の支配を表すものでした。主イエスがゲッセマネの園での祈りが終わって園から出て来た時に、主はイスカリオテのユダに先導されてやってきたユダヤ教指導者たちによって捕らえられますが、その時、主は次のように言われました。「わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」この暗闇に覆われた3時間の間、十字架に掛けられた主イエスには悪の力、罪の力が強く働いていました。全人類の罪が、まったく罪のない聖なるイエスの上に投げつけられ続けたのです。この状況は私たちには想像することもできない恐ろしい出来事でした。例えば、私たちの顔に3時間続けて唾を吐きかけられ続けたら私たちはどうなるでしょう。しかし、聖なるイエスにとって、自分が最も嫌う人間の罪を浴びせられ続けることは、本当に耐えがたいことであったと思います。それだけではなく、主イエスは、神に見捨てられる恐ろしさを私たちに変わって経験してくだったのです。このことについて使徒パウロはガラテヤ人への手紙3章13節で次のように述べています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」とは旧約聖書からの引用なのですが、ユダヤ人は犯罪人を十字架にかけることはせず、石打ちの刑と言って、石を投げつけて死刑にしていました。しかし、神の律法に対して恥ずべき恐ろしい罪を犯した人間は木にかけて人々への見せしめにしていました。主イエスは、私たちの身代わりとなって、その恥ずべき者となってくださいました。ガラテヤ3章13節には「十字架のイエスが私たちを律法の呪いから贖いだしたくださいました。」と書かれていますが、「贖いだす」とはどういう意味でしょうか。「贖う」とは、昔奴隷がいた時代に、奴隷を自由にするために奴隷の主人にお金を支払うことを意味する言葉でした。旧約聖書の時代は律法が中心の時代で、人々は神の律法を完全に守らないと、天国に行くことはできませんでした。しかし、律法を完全に守ることのできる人などいません。そのために、当時のユダヤ人は、少なくとも年に1回、動物のいけにえをささげて、完全に律法を守れない自分の罪を赦してもらわなければなりませんでした。私たちも神の律法をすべて完全に守ることはできないので、私たちは律法によって裁かれなければならない人間です。この状態をパウロは律法の呪いと呼びました。しかし、主イエスは、有罪判決を受けなければならない私たちに変わって、ご自身はまったく罪のない方なのに、私たちの有罪を自分の有罪として受けてくださり、十字架の死刑を受けてくださったのです。その結果、今、私たちは主イエスを救い主と信じることによって、自分の罪は主イエスが十字架の上で代わりに罰を受けてくださったことにより、罪を赦されて、神のこどもとなる資格が与えられています。これが、神様が私たちに最も伝えたいと思っておられることなのです。

 主イエスは、地が暗闇に覆われたいた時に3つの言葉を言われました。最初に言われた言葉はマタイの福音書に記されていますが、それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言う言葉です。主イエスは父なる神に質問しているわけではありません。この言葉は詩篇22篇の言葉の引用なのですが、主イエスが、いつも一つとなって存在していた父なる神から見捨てられるという、私たちには想像もできない恐ろしさを主イエスが経験しておられたのです。赤ちゃんにとって、母親は絶対にそばにいなければならない存在です。赤ちゃんを母親から引き離すと、激しく泣きます。それは赤ちゃんにとって我慢できない恐ろしいことだからです。しかし、人間が神に見捨てられることは、それよりもはるかに恐ろしいことなのですが、私たちがそれを経験しなくてもよいように、主イエスが代わりに経験されたのです。主イエスにとっては、十字架刑の肉体の苦しみよりも、神から見捨てられるということのほうがはるかに辛く恐ろしいことでした。しかし、この主の苦しみは私たちに対する主イエスの愛が現れているのです。その後、主イエスは「完了した。」と言われてから、46節に記されているように、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って、息を引き取られました。実は、この「わが霊を御手にゆだねます。」というのは、ユダヤ人が眠りにつく時に祈る、おやすみの祈りの言葉でした。ユダヤ人が眠りにつく時に、神を信頼し、神が自分を守ってくださるという信仰を現した祈りで、人々はこの祈りを祈って心を平安にして眠りについていました。主イエスは、肉体の死という眠りにつく時に、父なる神にこの祈りを捧げられたのは、父なる神への絶対的な信頼を表しています。主イエスは実に平安に満ちた死を迎えられました。そのことは預言者イザヤが預言していました。53章11節に次のように記されています。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみの後を見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」普通、十字架に掛けられた犯罪人は激しい苦しみによって、徐々に体力を失い、最後は意識を失って死に至ります。しかし、主イエスは、力強く「完了した」と、人間の罪が赦されるために必要な働きを全部完了したことを宣言し、最後は、父なる神への完全な信頼を持って息を引き取られたのです。そして、自分の働きによって、多くの人が救われるための道が開かれたことを見て、主イエスは満足と喜びを持って死なれました。主イエスの死は普通の人の死とは全く異なっていました。彼は満足と喜びのうちに死んだのです。

 イエスに死が訪れた時、そこに居合わせた人にいのちが訪れました。その一人がローマ兵士のリーダーであった百人隊長です。47節にはこう書かれています。「「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。」彼は、主イエスがピラトの前で裁判を受けた時からイエスの近くにいました。彼は、イエスが激しく鞭で打たれる様子を見ていました。また、悲しむ婦人たちにやさしい言葉をかけられるところも目撃していました。また、主イエスが自分と自分の部下の兵士たちを見て、「父よ。彼らをお許しくあさい。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」と祈ったイエスの祈りを聞いています。また、イエスが隣の犯罪人に、「あなたは、今、わたしと共にパラダイスにいます」と言うところも目撃していました。そして、最後に主イエスが大声で「完了した」と」言った力強い叫び声を上げて、主イエスが満足した様子で息を引き取るところも見ていました。そのすべてを見た百人隊長は「本当に、この方は正しい方であった。」と言ったのです。恐らく、その後、いつかは分かりませんが、弟子たちの説教を聞いて主イエスを信じたと思います。神に選ばれた民であるユダヤ人たちの多くはイエスを拒絶しましたが、ユダヤ人ではない異邦人の百人隊長はイエスを受け入れました。そして、彼には永遠のいのちが与えられました。このことからも明らかなように、ユダヤ人が中心であった旧約聖書の時代はイエスの十字架によって終わり、罪の赦しと永遠のいのちの約束は、世界中のすべての人々に開かれたのです。
 その時、もう一つの出来事がエルサレムのユダヤ教神殿の中で起きていました。エルサレムにあったユダヤ教神殿の中に天上から床まで手のひらほどの厚さがある立派なカーテンが掛けられていました。そのカーテンの奥の場所は、最も聖なる場所で「至聖所」と呼ばれていましたが、そこには神様が臨在しておられると考えられていました。人は神を見ると死ぬと言われていましたので、誰もその中に入ることは許されていませんでした。汚れた人間は聖なる場所には入れないのです。ただ、例外として、1年に1回、ユダヤ教のトップである大祭司が、自分の罪とイスラエルの民全体の罪の赦しを求めて、その中に入って動物のいけにえを捧げることが許されていました。しかし、主イエスが十字架の上で、私たちを罪の裁きから解放するための「贖い」の業を完了したと宣言された時に、まだ闇に覆われていたくらい神殿の中で、この分厚いカーテンが上から下に向かって真っ二つに裂けました。このカーテンは非常に分厚かったので、人間の力で引き裂くことはできません。しかも、たとえできたとしても、人間が引き裂くなら、カーテンは下から上に裂けるはずです。従って、この出来事は人間によるものではなく、神様によるものでした。では、これは何を意味するのでしょうか。キリストが十字架に掛けられる以前は、大祭司を除いて、誰も神様がおられるところに入ることができませんでした。しかし、罪のないイエスが私たちの身代わりとなって十字架で罪の罰を受けてくださった結果、人間と神を隔てていた壁が崩れ去って、人は神に近づけるようになりました。また、人間は動物のいけにえを捧げる必要がなくなりました。主イエスの十字架の死は自分のためであったと信じる者は、イエスを信じる信仰によって、罪が赦されて神に近づくことができる者とされたからです。ただ、当然のことですが、主イエスが言われたように、だれも主イエスをとおしてでなければ神の前に行くことはできません。イエスの十字架によって、主イエスには死が訪れましたが、私たちには永遠のいのちの道が開かれました。

主イエスの死は、他の誰の者とも異なる特別の死でした。ソクラテスように哲学的な考えによる死でもなく、ユダヤ教指導者たちの陰謀によって死に追いやられたものでもありません。自分から進んで私たちのためにいのちを捨ててくださった死です。主イエスはある時こう言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら豊かな実を結びます。」一粒の麦は、そのまま食べてしまえば食べた人にちょっとおいしい味を与えて終わりです。しかし、その一粒を地中に蒔くと、一粒の麦として食べることはできなくなりますが、その麦から芽が生え出て、収穫の時にはたくさんの麦粒を実らせます。それと同じように、主イエスが、人々の求めに応じてローマ帝国を滅ぼしてユダヤ人の国を独立させたならば、その時代の人々がちょっと良い生活をするようになるだけで終わります。しかし、主イエスが十字架にかかって命を捨てれば、それによって、その時代の人々だけでなく、それ以前に生きた人々も、その後に生きた人々も、イエスを信じるすべての人の罪が赦され、それらの人々が天国において永遠に生きるという素晴らしい祝福をもたらすのです。主イエスは、実際に、ご自身が一粒の麦となって、私たちに永遠のいのちを与えるために、十字架で死んでくださいました。イエスの死が私たちに永遠の命をもたらしたのです。

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