2019年7月21日 『主イエスの特別な埋葬』(ルカ23章50-56節) | 説教      

2019年7月21日 『主イエスの特別な埋葬』(ルカ23章50-56節)

 主イエスの十字架の死には特別なしるしが伴いました。主イエスが十字架に掛けられた最後の3時間、エルサレムは暗闇で覆われました。その3時間の間に、すべての時代のすべての人類の罪が主イエスの上になすりつけられました。罪のない聖なる方が言わば罪の塊になって、父なる神から見捨てられるという言葉に表せない恐ろしい体験を私たちに変わって受けてくださいました。私たちが犠牲をはらうことができるのは自分が愛する者に対してです。自分の愛する子どものためには親は義務感からではなく、自然に犠牲を払います。主イエスが私たちの身代わりになって十字架の苦しみを受けてくださったのは、私たちがそれだけ神様に愛されていることであり、神様にとって私たちが大切な存在であるということを表しています。
 それと同時に、エルサレムの神殿に掛けられていた分厚いカーテンが天上から床に向けて真っ二つに引き裂かれました。このカーテンは聖なる神と罪に満ちた人間を隔てるものでしたが、主イエスが十字架でいのちを捨ててくださったことによって、私たちの罪がすべて帳消しになったため、神と人間を隔てる壁の必要がなくなったので、このカーテンが引き裂かれたのです。それまでは、そのカーテンの中に入った人間は皆死んでしまいましたが、罪の赦しが完成したので
どんな人も、主イエスを信じる信仰によって神に近づくことができるようになりました。その他にも、マタイの福音書を見ると、大きな地震が起きており、また、死者が生き返るということが起こりました。このように不思議な4つのしるしが起きたので、主イエスが十字架で息を引き取った時に、何か大きなことが起きたことはエルサレムのすべての人は気が付いたに違いありません。主イエスの十字架の出来事も、復活の出来事も神の力強い働きが現れましたが、この2つの出来事の間にあるのが、今日取り上げる主イエスの埋葬です。主イエスの十字架と復活という大きな二つの出来事に比べると、普段あまり注目されない出来事ですが、ここにも不思議な神の働きがあって、神様の御心に従って主イエスは埋葬されました。そして、それは旧約聖書の預言の成就でもありました。
 神様が、私たちの生活の中に直接に働きかけられる方法が2つあります。一つは奇跡によるものです。奇跡とは、神様がご自分の目的が達成されるために、一時的に自然界の法則やプロセスを止めたり、変えたりすることです。聖書は、この世界は神様によって創り出されたものだと教えています。神様は、ただ太陽や星やその中にあるすべての目に見える物質だけをお創りになったのではなく、その世界が調和を保って続いていくための目に見えないさまざまな法則をもつくられました。私たちは、世界がいつも決まったように動いているのを当然のことと考えがちですが、もし法則がなかったら、私たちの世界はまったく調和のないバラバラの世界で、今のような生き方は絶対できません。引力がなかったら、地球や星が規則的に動かなかったら、私たちの世界はどうなっていたでしょうか。この世界のすべての動きは、神様が造られた法則によって守られているからこそ今のような状態を保っているのです。しかし、神様は時々、その法則を留めたり、変えたりすることによって奇跡を起こされました。聖書の中にはそのような奇跡が数多く記されていますが、最も重要な奇跡は主イエスが地上で働かれた時に起こりました。新約聖書には主イエスの奇跡が60以上記されていますが、聖書はイエスのすべての奇跡を書き記しているわけではありませんので、もっと多くの奇跡をおこなわれたでしょう。奇跡をおこなうことによって、主はご自分が神であることを証明されました。
 もう一つ、神様が私たちの生活に働くのは「摂理」によるものです。摂理とは、神様が自然の法則を止めたり変えたりすることなく、絶えずいろいろな方法で人間の心に働いて、ご自分のみこころを実現することです。自由な決断をする力が与えられている人間の思い、決断、行動の中に数限りなく働いて、それを完全に結び合わせてご自身の目的を実現されるのです。ですから、一瞬の間自然の法則に働きをかける奇跡と比べると、摂理というのは、はるかに複雑なもので、そこに神の知恵と力がよりはっきりと表されていると思います。私がクリスチャンになったのは、大学で留学生のグレアムにあったのがきっかけですが、私と彼が出会うという一つの出来事の中にも、そこにいたるまで数多くの出来事が絡んでいました。主イエスの埋葬も神様の摂理によるものでした。

 主イエスの埋葬に関して、神様は最初にローマの兵士たちに働かれました。主イエスは日の朝9時に十字架にかけられ、6時間後の午後3時に息を引き取られました。主は、他の二人の犯罪人よりも早く息を引き取られました。それは、主イエスが木曜日の夜からずっと裁判で引きずり回され、何度もムチを打たれて体がぼろぼろになっていたからだと思われます。ユダヤ教では金曜日は土曜日の安息日を迎えるための「備えの日」でした。そして、次の日は普通の安息日ではなくユダヤ教最大のお祭りである「過ぎ越しの祭り」でしたので、死体を十字架にかけたままにすることはできませんでした。備えの日は日没の午後6時には終わるので、ユダヤ教の指導者たちは焦っていたので、ピラトに「処刑者のすねの骨を折る」ように頼みました。十字架につけられた人は、すねの骨を折られると、息を吸うために体を持ち上げることができなくなって早く死ぬのです。兵士たちはピラトの命令を受けて十字架につけられていた3人のすねの骨を折ろうとしましたが、2人の犯罪人の骨は折ったのですが、イエスはすでに死んでいたので骨を折ることをしませんでした。ローマの兵士たちは、いわば処刑の専門家でしたので、人が死んでいるか生きているかはすぐ判断できたので彼らの判断に間違いはありません。そして、この出来事はじつは旧約聖書の預言を成就するものでした。詩篇34篇20節に「主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、折られることはない。」と記されているからです。主の足の骨が折られなかったという小さな出来事も、神の摂理だったのです。

 イエスの死がローマの兵士たちによって確認されましたが、その次にするべきことは、遺体を十字架から降ろして葬ることでした。ただ、普通は、十字架に掛けられるのは犯罪人なので遺体はエルサレムの街の外にあった谷に投げ捨てられていました。しかし、ここにも神様の摂理が働いて、神の御子の遺体は尊敬と愛情をもって埋葬されることになります。神様はアリマタヤのヨセフという人を選んでおられました。50,51節にはヨセフについて次のように書かれています。「ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。」このヨセフという人はエルサレム近くの街アリマタヤ出身で国会議員でした。エルサレムの議会が主イエスを死刑にすることを決定したのですが、彼は議員の一人でありながら、その議決には加わらなかったようです。この人は、善良で正しい人であるだけでなく、神の国を待ち望んでいたと書かれているので、主イエスを救い主と信じる信仰を持っていたことが分かります。ただ、これまでは自分がユダヤ教と深く結びついた国会の議員という立場から、自分の立場を明らかにしていませんでした。実は、ユダヤ教の指導者や国会議員たちの間にも密かに主イエスを救い主と信じている人々がいました。ところが彼らは自分の立場を考えて信仰を公に告白していませんでした。ヨハネの福音書12章の42,43節には次のように書かれています。「しかし、それにもかかわらず指導者たちの中にもイエスを信じる者たちがたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためである。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」ところが、イエスが逮捕されてユダヤの議会に連れて来られることになった時に、ヨセフはイエスを死刑にするために議会が開かれるということに気づいていたと思います。彼はこの議会には出席しませんでした。マルコの福音書の14章64節には、国会の議員たちは全員でイエスは死刑に当たる罪があると決めているからです。しかし、出席しないということは、議長であるユダヤ教大祭司の意思に逆らうことですから、彼はこのまま議員でいることはできません。彼は自分のすべてをかけてイエスを信じるという自分の立場を明らかにしたのです。彼は議会には参加しませんでしたが、イエスの後を追い、イエスが十字架にかけられた様子を近くから見ていたのではないでしょうか。イエスが十字架で自分を磔にしたローマの兵士たちために祈られたイエスの言葉を聞き、また、となりに磔にされていた犯罪人の罪の赦しを宣言される言葉を聞いて、ヨセフも覚悟を決めたのだと思います。他の人の目を気にして生きるのを止めて自分の信仰を生きて行く決心をしたのです。アリマタヤのヨセフはローマ総督ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願いました。それを聞いたピラトもホッとしたのではないでしょうか。彼はイエスには十字架刑に値する罪はないことを知っていましたが、ユダヤ教指導者たちと、彼らに扇動された群衆から脅迫されたために、自分の意思に反してイエスを十字架刑にしていたからです。彼は他の犯罪人と同じようにイエスの体が谷に投げ捨てられることに良心の呵責を感じていたと思います。だから、ユダヤ人の側から、しかも国会議員のヨセフからの依頼だったことで喜んでイエスの遺体を引き渡したことでしょう。金曜日の日没、すなわち安息日が始まる時間が迫っていたので、彼は大急ぎで遺体を十字架から降ろしました。この時、ヨハネの福音書を見ると、ユダヤ教の指導者で、以前、夜にイエスの所に質問をしに来たニコデモも遺体に塗る薬を30キロも持ってやって来ま した。彼も、アリマタヤのヨセフと同じように、この行いをすることによって、イエスと敵対していたユダヤ教の指導者という自分の立場を捨てて、イエスに対する信仰の姿勢をはっきりと告白しました。二人は、ユダヤ人の習慣に従って香料をイエスの遺体に塗ってから亜麻布で巻きました。そして、二人はイエスを救い主と信じていたので、何とか主の遺体を丁重に葬りたいという思いが起こされて、このような行動を取ったのですが、ここにも神の摂理が働いていました。彼らの働きは、実は旧約聖書のイザヤ書53章9節の預言を成就するものであったからです。イザヤ書53章9節には「彼は富む者とともに葬られた」と記されています。アリマタヤのヨセフは国会議員でしたので、裕福な人間でした。さらに、彼の墓が誰も葬られていない墓に埋葬されたことにも意味があります。まだ、誰も使っていないということは、神様のために聖なるものとして分けられていたことを意味します。聖書で使われている「聖なる」という言葉は、他の目的のためでなく神様のためだけに用いられるものという意味があります。主イエスが地上で生まれる時も、処女であったマリヤの胎内からお生まれになりました。イエスが十字架にかかるためにエルサレムに入る時に、ロバの子に乗って入られましたが、その子ロバもまだ誰も乗ったことのないロバでした。それと同様に、主イエスがまだ誰も葬られたことのない墓に埋葬されたのは、主イエスが単なる王様ではなく、神様から遣わされた救い主であることを示しています。
 
 神様はあらゆる状況の中で働いてくださり、ご自身のみこころを成し遂げられます。アリマタヤのヨセフもニコデモも、彼らがイエスの遺体を埋葬している時に、イエスの復活までは信じていなかったかも知れません。彼らは自分たちにできるベストのことを主イエスにしていただけなのですが、神様がその中に働いてくださり、この出来事はクリスチャンの信仰にとても重要なものとなりました。同じように、神様は私たちの生活の中にも確かに働いておられます。私たちが、自分の人生のすべての状況を用いて、神様のために生きるなら、神様が不思議な働きをされて、大きな意味のある出来事を生み出してくださるのです。そして、神を愛し神を信じる者たちのためには最善のことを行ってくださいます。私たちが地上の生活でどのような状況の中に置かれようとも、神様は私たちを愛し、私たちを今は想像もできないような大きな働きのために用いてるくださいます。私たちにはそのような神様の働きを待ち望む信仰があるでしょうか。

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