2019年7月28日 『主イエスの復活』(ルカ24章1-12節) | 説教      

2019年7月28日 『主イエスの復活』(ルカ24章1-12節)

 主イエスの復活は、神様の人間を罪の裁きと束縛から救い出すための働きの中で一番大切なものであり、聖書の教えの根本をなすものです。主イエスの復活のないキリスト教は存在しません。パウロもコリント教会に書き送った手紙の中で次のように言っています。「もし、キリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいるのです。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」イエスの復活は、単に十字架に続く出来事ではなく、主イエスこそが聖書の教えの最終的なゴール、最終的な勝利です。キリスト教会は、最初からそのことをよく理解していました。それで、彼らは礼拝の日を、ユダヤ教のように安息日の土曜日ではなく、主イエスが復活された日曜日に集まるようになりました。最初のクリスチャンはほぼ全員ユダヤ人であり、もともとはユダヤ教徒でした。彼らにとって安息日というのは非常に大切な日で、モーセの十戒の中にも、安息日を聖なる日とすること、そして安息日にはいっさいの仕事をしないことが教えられていますが、彼らはそれを徹底して守っていました。今でもユダヤ人は安息日にあたる土曜日を特別な日として過ごし、仕事はしません。ところが、初代教会は、最初から安息日の土曜日ではなく日曜日に集まって礼拝をしています。このことは、彼らが主イエスの復活をどれほど重要なこととして捕らえていたかを示しています。聖書の教えを福音と言いますが、これは良い知らせと言う意味です。良い知らせの内容は何でしょうか。それは、主イエスの十字架によって私たちの罪が赦されるということですが、そこで終わるのではありません。主イエスを信じる者は、イエスの十字架によって、罪が赦されて新しい人生を始めることができます。そして、主イエスが復活されたことによって、主イエスを信じる者は、イエスと同じように、死んだ後、新しい栄光の体をもって復活し永遠に生きる者となるという約束が与えられています。人間にとって生きること死ぬことは最も大きな問題であり、いろいろな宗教がいろいろな教えを語っています。この点について聖書の教えははっきりしています。死は、人間の存在が終わることを意味するものではありません。死は、永遠の世界に入っていく入口であって、すべての人がその入り口を通らなければなりません。言い換えると、すべての人間は、い生きている時とまったく同じ意識を持って、永遠に生きるのです。ただ、肉体の死の後には二つの世界があり、一つは永遠の喜びの世界であり、もう一つは永遠の苦しみの世界です。ヨハネの福音書の5章28-29節には次のように書かれています。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」聖書の教えが真実であるとすれば、私は真実だと信じていますが、死は永遠の休息ではありません。永遠のいのちの世界に行くか、永遠のさばきの世界に行くかの分かれ道なのです。主イエスは、この教えを語るときに「まことにまことに、あなたがたに言います。」と言われました。この言葉は、これから話すことは非常に大切な教えだからよく注意して聞きなさいという意味を込めたものです。このことを私たちは真剣な思いで聞かなければなりません。

(1)イエスの墓は空であった(1-3節)
 1節から3節を読みましょう。「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。」ここに、彼女たちと書かれていますが、この女性たちは、アリマタヤのヨセフとニコデモが金曜日の夕方、日が沈む前に大急ぎでイエスの遺体をおろして、イエスの遺体に薬を塗って亜麻布で巻いて、そしてヨセフが用意していた墓に埋葬する様子をそばで見ていました。これは、私の想像なのですが、男性二人が急いでイエスの遺体に薬を塗って亜麻布を巻くと、女性の目から見ると、やはり雑な感じがしたのではないでしょうか。彼女たちは、イエスを愛し、慕っていたので、もう少し丁寧に遺体を整えたいという思いがあったのだと思います。彼女たちは安息日は何もできないので、安息日が明けてまだ暗いうちにイエスの墓に準備しておいた香料を持って出かけました。彼女たちが香料を持って出かけたのを見ると、彼女たちもイエスが復活することなど考えていなかったことは明らかです。イエスの遺体をきれいにすることが彼女たちが墓に行った目的なのですから。彼女たちは、墓に行っても入口をふさいでいる岩をどうすればよいか分からず困っていました。しかし、それでもとにかく行って見ようということで彼女たちは墓に来たのですが、ついてみると、岩がわきに転がっていたので、彼女たちは何の問題もなく墓の中に入ることができました。ただ、そこにはイエスの遺体はありませんでした。墓が空っぽであったことは紛れもない事実でした。実は、墓の前にはローマ兵が交代で警備をしていました。ところが主イエスが復活された朝、大きな地震が起こって、天使が現れたのを見てローマ兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり死人のようになっていました。このローマの兵士たちも墓が空っぽであることを知っていました。それで、墓の前にいても意味がないので、彼らはその場を離れていました。ユダヤ教の指導者たちも、イエスの墓が空っぽである事実を知っていました。そのために、彼らは相談してローマの兵士に金を渡して、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗んで行ったと話すように頼んでいます。墓が空っぽでなかったら、こんなことをする必要はありません。(参照:マタイ28章11-15節)女性たちの中のマグダラのマリヤは、弟子たちにこのことを伝えに行くのですが、それを聞いてペテロとヨハネの二人が墓に来て、彼らも墓が空っぽであることを知りました。後に、彼らが伝道を始めた時、二人は大胆にイエスの復活について語りました。すると、ユダヤ教のリーダーたちは困り果てて、彼らを捕らえて牢に入れました。翌日、二人はユダヤ教の指導者たちから取り調べを受けるのですが、この時に「イエスの復活」が本当なのか嘘なのかということは全く問題になっていません。ユダヤ教の指導者たちは教育を受けていないペテロとヨハネが力強く説教をするので、そのために多くの人々がイエスを信じるのではないかと恐れていました。もし、イエスの墓が空っぽでなかったら、二人がイエスの復活を語った時に、イエスの遺体を持ち出して、彼らの説教を完全に否定することができるはずなのですが、そういうことはまったくありませんでした。弟子たちは、もともと主イエスの復活を信じていませんでしたし、墓の前にはローマ兵が交代で24時間見張りをしていましたから、遺体を盗むなんてことはできるはずがありません。イエスの墓が空っぽであったという事実は、イエスの復活を証明する重要なことなのです。

(2)天使からのメッセージ
女性たちは、墓が空っぽだったために墓の外で途方にくれました。そこにまばゆい衣を着た二人の人が近づいて来ました。あまりのまばゆさで彼女たちは怖くなって地面にひれ伏しました。他の福音書にはこの2人は天使だと書かれています。二人のうちの一人が話しました。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」天使はやんわりと彼女たちの不信仰を叱っています。主イエスは、「わたしはよみがえりです、いのちです」と言っておられました。(ヨハネ11:25)彼女たちもイエスの言葉を聞いていたはずです。彼女たちはイエスが死者の中から復活することを知っていなければならないのに、イエスの遺体に油を塗るために墓に来たことを叱られているのです。イエスを死者だと思って墓に来るとは何事かと、天使は彼女たちを叱っているのです。そして、そのような不信仰な彼女たちに目が開かれるようにと、み使いが彼女たちに語り掛けています。「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」み使いは、彼女たちに、イエスを探す場所を間違えていることを教えています。イエスを死者の中に探す限りイエスを見つけることはできません。主イエスを、歴史に現れた偉大な人物だと考えて、イエスを死んだ者と見ている限り、主イエスを見ることはできないのです。ところが、この世の中には、イエスを死んだ人間と同じだと考えている人が非常に多いです。イエスの教えが素晴らしいと考える人が大勢います。イエスが愛に満ちた方であると多くの人が考えています。しかし、イエスを他の死んだ人間と同じだと考えている限り、イエスに出会うことはできないのです。主はよみがえられました。そして、み使いは彼女たちに、かつて主イエスが繰り返して十字架につけられるが三日目によみがえることを預言しておられたことのを思い出しなさいとチャレンジしています。イエスの地上のでの働きが終わろうとする頃、主イエスと弟子たちは群衆から離れて、自分たちだけで北の端のピリポ・カイザリアと言う地方に行かれました。そこで、イエスは弟子たちに、あなたはわたしを誰だと思うか」と尋ねられたときに、弟子のペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです。」と素晴らしい答えを言いました。その時から、主は将来自分が十字架にかかることと、三日目に復活することを話し始められました。マタイの福音書には、そのイエスの言葉が3回記されていますが、3と言うのは聖書では「完全数」なので、実際には3回だけでなく、何度も何度もそのように語っていたはずです。それにも関わらず、イエスの復活を本気で信じた人はいませんでした。彼女たちだけでなく、弟子たち自身がイエスの復活を本気で信じていなかったので、誰もイエスの墓に行こうとしていません。恐らく、彼女たちも弟子たちも、イエスが話された言葉は何かの例えとして言われたことで、実際にイエスに起こる出来事とは考えていなかったのだと思います。このみ使いの言葉を聞いて、ようやく、彼女たちもイエスの言葉を思い出し、主イエスが本当によみがえったことを理解し始めました。
 
 それで、彼女たちは、イエスの墓から町に戻って11人の弟子たちのところへ行って、自分たちが見たこと聞いたことを彼らに報告しました。ところが、イエスの側近であった11人の弟子たちも、彼女たちの話を聞いて、たわごとを言っているのだと思いました。彼女たちが作り話とは思えないほど詳しく見聞きしたことを語っていたにも関わらず、弟子たちは彼女たちが馬鹿なことを言っているとしか考えませんでした。ただ、ルカの記述によるとペテロだけが墓を見に行ったと書かれていますが、他の福音書を見るとヨハネも見に行っています。中を覗き込むと、そこにはイエスの遺体を巻いていた亜麻布だけが残っていました。ルカは、ペテロについて、「彼はこの出来事に驚きながら自分のところに帰った。」と書いています。ペテロもヨハネも、主イエスから何度も十字架に掛けられた後三日目に復活することを聞いていたのですが、まだはっきりとイエスの復活を信じることができませんでした。イエスと3年間生活を共にした弟子たちでさえ、イエスの復活を信じることはできませんでした。ペテロをはじめ弟子たちは、最初、イエスの復活を聞いても信じられずたわごとだと思いました。そして、ペテロは墓に行って事実を確認したのですが、まだその出来事に当惑しています。しかし、その後、彼らは復活のイエスと出会って、イエスの復活をようやく事実として受け入れることができました。その後、彼らは、主イエスの教えを人々に伝えるために自分の人生を捧げて生きて行きましたが、その時になって、彼らは、確かに主イエスが復活されたことを確信し、毎日の激しい迫害の生活の中でも、いつも主イエスがともにいることを感じながら生きることができました。

 イエスの復活がなぜ、それほどに重要なのでしょうか。それは、第一に、復活こそがイエスが本当に神の御子であり、救い主であることを証明するものだからです。主イエスだけが、すべての人間が持っている根本的な問題、罪の問題を解決することができる方です。第二に、主イエスが死に勝利されたように、主イエスを信じる者も死に勝利し、永遠のいのちが与えられることを確信できるからです。私たちが生きている今の時代は、決して明るい時代とは言えません。明日何が起きるか分からない時代です。しかし、主イエスは全能の力を持っておられる方です。ご自分のいのちを犠牲にしてでも、私たちを罪を赦してくださる愛に満ちた方です。そのイエスは今も生きておられます。私たち一人一人に寄り添ってくださる方です。そのことを知っていれば、私たち一人一人の人生には意味がありますし、また、将来、周囲の状況がどのようなのであっても、私たちには永遠の希望と平安という未来が待っていることを確信できるのです。あなたはイエスの復活を信じますか?

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