2019年8月4日 『私たちの心を燃やすイエス』(ルカの福音書24章13-35節) | 説教      

2019年8月4日 『私たちの心を燃やすイエス』(ルカの福音書24章13-35節)

(1)二人の信者の落胆
 主イエスが復活された日曜日の朝、イエスの復活を信じた人はほとんどいませんでした。日曜日の早朝イエスの墓に出かけた女性たちは、イエスの遺体に香油を塗ることが目的でした。イエスの弟子たちは、イエス自身の口から何度も繰り返して主が苦しみを受けて死んだ後三日目に復活するという預言の言葉を聞いていたにも関わらず、イエスの言葉を真剣に信じていた弟子はいませんでした。女性たちがイエスの墓が空っぽであることを発見し、また彼女たちの前にみ使いが現れて、主イエスが復活したとのメッセージを聞いたという話を聞いても、弟子たちは、彼女たちが冗談を言っていると思っていました。念のために墓を見に行ったペテロとヨハネも、イエスの墓が空っぽであったことは確認したのですが、それでもなお、二人は当惑するばかりで、イエスの復活を確信することはできないでいました。そのような噂は、エルサレムの街にいたクリスチャンたちにも広まっていたのですが、その日の午後になっても、まだイエスの復活を信じる人はほとんどいない状況でした。そんな中で、二人の信者が、エルサレムの街を出て、エマオという村に向かって歩いていました。この二人も、他の信者たちと同じように救い主として信じていたイエスが十字架に掛けれられて死んでしまったために、すっかり希望を失い、悲しい心のまま歩いていました。18節に一人の人の名前がクレオパと書かれていますが、多くの人は、この人はヨハネの福音書19章25節に出て来る「クロパ」と同じ人だと考えています。そうなると、もう一人はその妻のマリヤと考えるのが自然です。このマリヤはイエスの十字架のそばに立っていました。二人はイエスを救い主と信じていて、21節では、「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました。」と言っています。二人は、そのイエスが十字架に掛けられて犯罪人として死んでしまったために、すべての希望を失い、すっかり落ち込んでいて、将来に向けてすべての希望を失っていました。ただ、彼らがそのような状態になったのは、彼らの信仰が間違っていたからなのですが、二人は、イエスに対する失望と、怒りを感じていました。
 そんな二人の足取りは重く、歩くスビードが落ちていたと思います。次々と同じ道を旅している人々が二人を追い抜いて行きました。そんな二人に、復活の主イエスが彼らに近づき、彼らと一緒に、歩いていました。ただ、16節に書かれているように、二人の目は遮られていて、一緒に歩いているのがイエスだとは気が付きませんでした。この二人はごく普通の信者であったと思います。そして、彼らはイエスの十字架の意味が理解できず、またイエスの復活を信じることができなかったために失望していました。彼らの失望は彼らの不信仰だったのですが、主イエスはそのような二人に信仰の目を開かせるために、近づいてこられました。主イエスは、たとえ信仰が不十分な者であっても、決して見捨てることはしません。むしろ主イエスから近づいて、彼らの問題を解決してくださる方です。主イエスから二人に話しかけられました。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると二人は暗い顔をして立ち止まりました。二人はそれほどに失望していたのでしょう。クレオパが答えました。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか」ここは、ちょっとおもしろい場面です。クレオパは、この人物がエルサレムで起きた出来事を知らないことにあきれて、皮肉っぽく答えているのですが、この時、話している相手が復活されたイエスであることを知らずに皮肉を込めて話していたのがクレオパ自身であったからです。主イエスは彼に腹を立てることもなく、「エルサレムで起きたこととはどんなことですか?」と尋ねました。するとクレオパが事細かに答えています。ここで注目したいのは彼の答えの後半の部分です。彼はこう言っています。「実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(21~24節)イエスの復活の出来事を知っている私たちからすると、これだけの情報を受けたのであれば、主イエスが復活したことをなぜ信じられないのか不思議に思います。しかし、人間は落ち込んでいる時、悲しんでいる時は、どんな情報を聞いても悪いほうにしか解釈できず、どんな知らせも悪い知らせだと思い込んでしまうのです。二人も主イエスから主が十字架の苦しみを受けた後三日目に復活するという言葉を聞いていたはずです。そして、確かに、その三日目にイエスの墓は空だったっという事実を知りましたが、それでも二人は、イエスの復活を信じることができず、誰かがイエスの遺体を盗んで行ったと思い込んでいたのだと思います。彼の言葉には、失望、当惑、幻滅、信仰の迷い、怒り、いろいろな感情がこもっていました。このようなクレオパの言葉を聞いて主イエスはどう思ったことでしょう。

(2)イエスの教え
 主イエスは彼らの言葉に対してこう答えています。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」主イエスは、二人が救い主に関する聖書の預言を自分に都合のよい読み方をしていることを示しておられます。これは二人に限らず、当時のユダヤ人の大部分が救い主について同じように考えていました。旧約聖書には、救い主に関する預言があちこちに数多く出て来ますが、そこには2つの異なったイメージがあります。一つは勝利者としての救い主であり、もう一つは、苦しむ僕としての救い主です。ところが、当時のユダヤの人々はローマ帝国に支配されて、外国人の支配という屈辱を味わっていましたし、生活も苦しかったので、人々は自分たちの生活を良くしてくれる、そんな救い主を望んでいたのです。しかし、人間は生活が良くなっても本質的な問題は解決されません。それは、人間にとって一番大きな問題は、神から離れて生きているという状態だからです。そのためにすべての人は自己中心になってしまっています。人間は生活が良くなっても、かならず新しい不満が生まれます。人間関係のトラブルは生活の環境が変わっても続きます。人間の一番の問題は人間の心の状態から来ているからです。当時のユダヤ人は旧約聖書の救い主に関する預言の言葉も、自分の考えに合う部分だけを受け入れて、自分の考えに合わない教えは受け入れなかったのです。彼らにとって十字架で苦しむ僕が救い主であるという考えが理解できませんでした。彼らは力強い救い主を求めました。この考え方は2000年たっても変わりません。私たちの罪のために身代わりとなって十字架の苦しみを受けてくださった救い主という教えは、今日の人々にとっても理解しにくいものだと思います。この世の価値観は、強い者が一番という考え方だからです。
 そこで、主イエスは2人と歩きながら、旧約聖書全体から、救い主がどのようなものなのかを一つ一つ丁寧に教え始められました。27節には「イエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」と書かれています。主イエスご自身から聖書の講義を聴くことができるとは、この二人は本当に恵まれていると思います。イエスの教えを聞きながら、ひどく落ち込んでいた二人の心がだんだんと不思議な喜びと力に満たされて行きました。二人は、十字架での苦しみは、イエスが救い主であることを否定するものではなく、神様は、イエスが十字架の苦しみという犠牲をはらうことによって、私たちの受けるべき裁きを取り除いてくださったこと、私たちの心の問題を解決するためには救い主は苦しまなければならないということが少しずつ理解できるようになりました。二人は、もし、最初から聖書の言葉を正しく理解していれば、これほど落ち込むことはなかったはずです。私たちも、聖書を読むときには注意して読まないと、彼らのように聖書の言葉を自分に都合の良いように読んで、正しい信仰から離れてしまう危険性があります。私たちは聖書を読むときに、自分の価値観で読むのではなく、神様の価値観に基づいて読まなければなりません。二人が、イエスの十字架の意味を理解し始め、救い主は、イエスご自身が語っておられた「十字架の苦しみを受けて、その後三日目によみがえらなければならない」という言葉が分かって来ました。それと同時に、イエスの墓が空だったことの意味も分かりました。二人は、イエスによって教えてもらったみ言葉によって救い主の復活を信じるようになりました。これは大切なところです。彼らはイエスと出会ったという体験によって信じたのではありません。聖書の言葉、預言の言葉をそのまま受け入れてイエスの復活を信じたのです。イエスの復活を信じた二人の心はふたたび熱く燃え上がっていました。
 二人は、イエスにぜひ自分たちの家に泊まってもらいたいと思い、イエスにそうするように強く勧めたので、イエスは彼らと一緒に彼らの家の中に入りました。そして、彼らと一緒に食事をする時に、イエスがパンを手に取って神様に祈りを捧げて、そして、そのパンを裂いて、二人に手渡しました。。その瞬間、彼らの目が開かれて、そこにいるのがイエスご自身であることが分かりました。多くの人は、この時、二人がイエスの手に釘の跡があるのを見たからイエスだと分かったのだろうと考えています。また、イエスは、5000人の人々に食べ物を与えるという奇跡をおこなわれた時にも、同じようにパンを手に取って神様に祈ってから、パンを裂いて弟子たちに手渡していました。二人は、その時、群衆の中にいたはずですから、イエスのパンを取って祝福の祈りを捧げる姿を見て、イエスと分かったのかも知れません。いずれにせよ、二人が、ずっと一緒にいた方がイエスだと分かった瞬間に、イエスの姿が見えなくなりました。イエスの復活の体は、栄光の体に変わっていたので、主イエスの行動は復活の前と後ではすっかり変わっていました。彼らは二人だけ家に取り残されたのですが、彼らの心は、失望することなく、新しい力と情熱で燃え上がっていました。32節にはこう書かれています。「二人は話し合った。『道々お話くださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」彼らはうれしさのあまり、家にじっといることができませんでした。エルサレムから心身ともに疲れ果てて家に帰って来た二人でした。しかも日が暮れて夜になっていました。エマオからエルサレムまでの道は険しい上り坂です。また、夜中に道を歩くことには大きな危険がありました。どこに山賊が隠れているか分かりません。しかし、二人にとってそんなことは妨げになりませんでした。二人は、直ちに立ち上がって、エルサレムに戻りました。

 エルサレムに向かって坂を上る二人の心は燃えていました。イエスの姿は見えなくなりましたが、二人はイエスが自分たちとともにおられることを感じていました。喜びに満ちていた二人には、真っ暗な道を歩いていても、強盗や悪人を恐れることはありませんでした。二人は、イエスの弟子たちとほかの仲間が集まっている場所を見つけて、中に入りました。すると部屋の中では彼らが話し合っていたのは、「本当に主イエスはよみがえって、シモン、つまりペテロに姿を現された」ということでした。ペテロ以外の弟子たちはまだ、復活の主に会っていませんでしたが、復活の主と出会ったペテロの話を聞いて、ようやく弟子たちも、この素晴らしい出来事が実際に起きたことを理解し始めていました。この直後に、主イエスが彼らの前に姿を現してくださり、ようやく、彼らは完全に主イエスの復活を信じるようになります。これまで、自分たちのいのちが狙われることを恐れて隠れていた臆病な弟子たちが、すっかり変わり、大胆にイエスの十字架と復活を人々に語り始めました。弟子たちの多くはそのために命を落としましたが、彼らは喜んで、自分の生涯をイエスのために捧げて地上のの生涯を全うしますた。
 この主イエスが復活された最初の日曜日、この二人は、朝、とても憂鬱な気持で目を覚ましました。主イエスにかけていた希望がすべて砕かれたからです。しかし、この二人は、午後には気づかないままでしたが主イエスに出会いました。そして、イエスから聖書の教えを聞いていくうちに彼らの心は不思議に燃えていました。そして、夕方になると、二人は、いっしょに食事をしている方がイエスだと分かりました。その時、彼らの目の前からイエスの姿は見えなくなりましたが、彼らの心は燃え続きました。二人は急いで弟子たちの所に行きましたが、そこで、彼らは再び復活のイエスと出会いました。彼らの一日は、私たちの人生を表しているようにも思えます。イエスの復活を知らずに、失望しているところから、聖書の言葉をとおしてイエスを知り、そして、一日の終わりにイエスと出会って、心が喜びで燃え上がりました。そして、この後、彼らの心はずっと燃え続けたのです。彼らの一日のクライマックスは夜に訪れました。私たちは、年を取り、人生の終わりが近づくと、気持ちが落ち込むこともあります。しかし、主イエスを信じてい生きるなら、この二人のように、人生の終わりになっても、心は燃え上がり、喜びに満ち溢れます。それは、復活の主が私たちと一緒にいてくださるからです。主イエスは、復活されたからこそ、21世紀を生きる私たちにも寄り添ってくださり、祈りを聞いてくださり、私たちに新しい力と助けを与えてくださいます。英国の18世紀に信仰のリバイバルをもたらしたジョン・ウェスレーは、臨終の床で次のような言葉を残しました。「The best of all is God is with us.」その意味は、「私の人生において一番良かったことは、神が私たち共にいてくださったことだ。」です。

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