2019年8月11日 『主イエスは生きておられる』(ルカ24章33-43節) | 説教      

2019年8月11日 『主イエスは生きておられる』(ルカ24章33-43節)

 今日も、引き続き主イエスの復活についてルカの福音書24章から学びたいと思います。主イエスの復活を否定することは、神を嘘つきだと宣言することになります。ローマ書1章4節の英語の訳では、「イエス・キリストは、聖霊をとおして、死者の中から復活したことよって神の子であること力強く宣言されたお方である」と記されています。すなわち、聖霊なる神ご自身がイエスの復活を力強く宣言しておられるのに、それを信じないという人は、神様が嘘をついていると宣言することになります。また、復活を信じない人は、そもそも信仰者とは呼べないのです。というのはローマ書の10章9節にこう書かれているからです。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」もし、イエスの復活を信じていないなら、救われていないことになります。
 それだけでなく、イエスの復活を否定するためには多くの事実についてきちんとそれに反対する証拠を説明しなければなりません。イエスが復活したことを示す事実がいくつかあります。第一に、イエスは十字架で確かに死なれました。そのこといつも十字架の処刑を担当しているローマの兵士が確認しています。第二に、イエスの遺体は、犯罪者がいつも投げ込まれるヒンノムの谷に投げ込まれたのではなく、アリマタヤという村のヨセフが用意した墓の中に確かに埋葬されました。第三に、イエスの死後三日目、すなわち日曜日の朝に、イエスの墓が空っぽであることが確認されています。そして、復活したイエスは数多くの人の前に現れたことです。使徒パウロによると、ある時、復活のイエスは500人の人々の前に姿を現されました。イエスの復活を否定するためには、これらの事実に一つ一つ反論していかなければなりません。
 復活を否定するために人々はいろいろな説を唱えます。一つはイエスは死んだのではなく気絶しただけだったとする説です。イエスは死んでいないのに死んだとみなされて墓に葬られたのだが、埋葬の時に使われた薬や、墓の中が涼しかったので、息を吹き返した。そして、彼は自分で墓を出て、弟子たちに会いに行ったという説です。しかしこの考えにはいくつも無理な点があります。先ほど言いましたようにイエスの死を確認したローマの兵士はいつも処刑を担当しているので、死んでいない者を死んでいると間違えることはまずありえません。さらに、十字架だけでなく、その前に何度も鞭を打たれて体がぼろぼろになっていたイエスが、三日間何も食べず水も飲まず、しかも何の治療も受けないで生き延びることができたのか。そのイエスが意識を回復したとして、自分の体を巻いていた包帯をほどいて、またもとのようにきちんと巻き戻して、墓の入り口の蓋になっていた思い石の板を動かして、外に出られるのでしょうか。しかも、墓の外にはローマの兵士たちが交代で見張っていましたが、イエスはそんな兵士たちを打倒して、立ち去ることができたのか。どう考えてもこの説には無理があります。
 またある人々は、イエスを本当に慕っていた弟子たちや信者たちが、イエスの幻を見て、イエスが復活したものと思い込んだのではないかと考えます。この考えにも無理があります。幻覚を見るという出来事は極めて個人的なことで、ふつうは一人の人が幻を見るのです。ところが、聖書の記述から考えると、イエスは10回以上、弟子や信者たちの前に姿を現しています。一人だけに現れる場合もありますが、ほとんどは複数の人々が集まっているところに姿を現しておられます。一番多い時は500人以上の人々の前に現れました。どう考えても500人以上の人々が同じ時に同じ幻覚を見ることはありえないことです。
 また、別の人は、イエスが復活した日曜日の朝早く、イエスの墓に出かけて行った女性たちが墓を間違えて、別の墓に行ってみたら、墓が空っぽだったので、イエスが復活したと思い込んだという説です。この説にも無理があります。イエスの墓の場所を知っていたのは女性たちだけではありません。イエスの遺体を埋葬したアリマタヤのヨセフとニコデモも知っていました。また、ユダヤ教の指導者たちもイエスがアリマタヤのヨセフの墓に埋葬されたことを知っていました。それで、彼らは、誰もイエスの遺体を盗まないように、ローマの兵士に見張りを頼んだのです。たとえ、女性が墓を間違えたとしても、それなら、ユダヤ教の指導者やローマの兵士たちがヨセフの墓に行って、墓を開けて、中からイエスの遺体を引っ張り出して、人々に「ここにイエスの遺体があるぞ」と一言いえば、イエスの復活の話など、完全に打ち消されてしまいます。しかし、誰も、イエスの遺体を見つけることはできませんでした。そして、それから2000年。今も世界中にイエスの復活を信じる人々が20億人以上いて、世界中にキリスト教会が立っています。これこそ、イエスの復活が事実であることを証明する事実ではないでしょうか。

 先週は、エマオという村に向かっていた二人の弟子が帰り道でイエスと出会い、復活の主イエスとは気づかないまま家に戻り、イエスを招いて食事をしていたときに、その方が復活の主イエスと分かったけれども、その瞬間イエスの姿が見えなくなったという出来事を読みました。二人の弟子は、イエスの姿が見えなくなった後、話し合って、「そういえば、道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」と言いました。それから、二人は夜も遅くなっていたのですが、じっとしていられなくて、エルサレムの弟子たちが隠れている部屋に行きました。二人が部屋に入って見ると、すでにイエスの弟子10人と、その他の弟子たちが集まっていました。そして、彼らはペテロが一人でいた時に復活の主イエスと出会ったという話を聞いて興奮していました。復活の主イエスは11人の弟子の中で、まずペテロと一対一で出会われました。当然、そこにはイエスの心が現れています。ペテロは主イエスを心から慕っていましたが、主が十字架にかけられる時に、人々から「お前もイエスの仲間だろう」と問い詰められた時に思わず「そんな男は知らない」と3度も嘘をついてしまいました。彼はそのことでひどい自己嫌悪に陥りすっかり心が折れていました。そんなペテロを思いやって、主は、他の弟子たちよりも先にペテロと会って、彼を励まされたのだと思います。ペテロもどれほどうれしく、また新しく生きる希望を持ったのではないでしょうか。そのような場面のところにエマオの村から二人が到着して、集まっていた人々に自分たちも復活の主イエスに出会ったと話しました。その話を聞いて、そこにいた人々もますますイエスの復活を確信していきました。
 その時に、突然、主イエスが彼らの真ん中に現れて「平安があなたがたにあるように」と言われました。復活の主イエスの姿を見て、彼らは喜ぶのではないかと思うのですが、37節を見ると、彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思ったと書かれています。復活後のイエスの体は、天使のように光り輝くものではなく、以前のイエスを同じごく普通の姿をしておられました。イエスの墓の前で復活のイエスと出会ったマグダラのマリアは、イエスを園の管理人と思ったぐらいです。では、彼らがなぜひどくおびえて幽霊を見たと思ったのか、その理由はイエスの現れ方でした。弟子たちは自分たちに反対するユダヤ人を恐れて扉を閉めて隠れて集まっていました。にもかかわらず、部屋の真ん中にイエスが突然姿を現したので、彼ら幽霊を見たのかと思いました。復活の主イエスの体は、見た目には以前と同じ姿でしたが、まったく新しい栄光の体を持っておられました。復活以前はイエスは私たちと全く同じように行動しておられたのですが、復活後は突然姿を消したり、現れたり、と普通の人間には絶対できない動きを見せられました。このイエスの栄光の体こそ天国に住む人に与えられる体であり、私たち主イエスを信じる者は皆、将来この体が与えらえるのです。使徒パウロは、コリント教会へ書き送った手紙の中で、「世の終わりの時に、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」と述べています。パウロが続けて語っていることは、「この時に、『死は勝利に呑み込まれた』と言う御言葉の約束が実現するのです。」ということです。主イエスを信じるならば、私たちは死を恐れることはありません。私たちの死は最終的に勝利に飲み込まれるからです。
 この時、ひどくおびえている弟子たちに向かって主イエスは「平安があなたがたにあるように」と言われました。ヨハネの福音書には、主がもう一度繰り返して彼らに平安があるようにと言っておられます。私たちはこの世で生きる限り、おびえること恐れを感じることは避けることはできません。自分に襲ってくることがあまりにも大きいので、自分の力ではどうすることもできず解決の方法が見当たりません。自分の力で何とかしようと悩むのですが、多くの場合、自分の都合の良いように解決しようとするので、なおいっそう悩みます。ですから、恐れや思い煩いにはけっこう自己中心的な要素も含まれています。聖書は「恐れてはならない。」「思い煩ってはなあらない。」と何度も繰り返して私たちに語っています。私たちは「そんなことは無理だ」と考えます。それは、自分の力だけで解決しようと考えているからです。パウロは困難な状況に置かれていたピリピという町の教会に書き送った手紙の中で次のように書いています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」時には、私たちの生活に次から次へと困難が襲い掛かる時があります。パウロはあらゆる場合に、祈りと願いによって神に自分の願いをしらせなさい。」と命令しています。祈りとは、ありのままに自分の願っていることを神様に話すことです。ただこの祈りは感謝の心で捧げなければなりません。自分が願ったことは神様が答えてくださるのは当たり前のことだという傲慢な心で祈ってはなりません。神様は私たちの人生の問題も、自分の複雑な悩みも、時にはわがままな言い訳も、すべて忍耐を持って聞いてくださるのです。そして、心を開いて神様の答えを受け入れる準備ができると、心の中に人間の思いを超えた平安が与えられることが約束されています。本当の平安、いつまでも続く平安とは、問題が自分の願い通りに解決する時に与えられるのではなく、純粋に幼子のように神様を信頼する時に与えられるのです。
 この時、まだ完全にイエスの復活を信じられないでいる弟子たちに、主イエスは言われました。「なぜ、取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。幽霊なら骨や肉はありません。見てわかるようにわたしにはあります。」そして、主は彼らに十字架の釘の跡がついた手と足を見せられました。これを見て弟子たちや喜んだのですが、あまりにもすごいのでぼーっとしていると、イエスは食べ物がないかと尋ね、弟子たちが焼き魚を差し出すと、彼らの前でその魚を食べて、本当に自分が復活したことを証明されました。このようにして、主イエスは弟子たちに、ご自身が形のある触ることのできる体をもって復活されたことを証明されました。そして、これは私たちにとっても大きな希望となるものです。それは、私たちも、一度死んだ後に、イエスと同じ体を持って復活し、永遠に天国で生きるものとなることが約束されている体です。それはどんな体なのでしょうか。その体は、今の体と同じように、骨や肉によってできている体です。また、それは食べたり飲んだりする体です。私たちは天国でもおいしいものを食べたり飲んだりできるのです。それはパウロがコリント教会に書き送った手紙の中で述べているように朽ちることのない体です。ということは老化をすることもない体なので、永遠に年を取ることのない体でもあります。そして、私たちの地上の体と同じ顔かたちなので、人が見ると誰であるのかが分かる体です。主イエスが復活されなかったら、私たちにはこのような約束はなかったのです。主イエスの復活があったからこそ、私たちは天国での生活がどれほど素晴らしいものかを想像することができるのです。私たちにとって死ぬことは終わりではありません。素晴らしい将来に向かっての第一歩なのです。このことを知っているなら、私たちは死ぬことを恐れる必要はありません。主の復活に心からの感謝を捧げましょう。

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