2019年8月18日 『良い知らせを伝えなさい』(ルカ24章44-53節) | 説教      

2019年8月18日 『良い知らせを伝えなさい』(ルカ24章44-53節)

 いよいよ、今日でルカの福音書を読み終わります。福音書とは良い知らせという意味です。神であるイエスが、神の栄光の地位を捨てて、自分を低くして私たちと同じ人間になってこの世に来られたのですが、その目的は福音、すなわち良い知らせを告げるためでした。良い知らせとは、神から離れて自分勝手に生きて来た人間が、神のもとに立ち返るための道がイエスの十字架と復活によって開かれるというメッセージです。神から離れて生きる私たちは神の裁きを受けなければならないのですが、その裁きをイエスが身代わりに受けてくださったのが十字架です。イエスが十字架の苦しみを受けられたのは、本当は私やあなたが受けなければならない苦しみを代わりに受けて下ったという意味です。しかし、主イエスはただ十字架で死んだだけではありません。三日目に死から復活されたことによって、ご自身が罪にも罪の結果である永遠の死に対しても勝利者であることを証明されました。もし、主イエスが十字架で死んで終わったら、ただの人間に過ぎず、イエスを救い主と信じ込んでいる人間ほどみじめな人間はいないと聖書は語っています。主イエスは、これから、この良い知らせを人々に宣べ伝える務めをイエスの弟子や信者たちに託されるのですが、それが今日の箇所の中心ポイントです。福音書は4つありますが、どの福音書も、最後は、イエスが弟子たちに福音を宣べ伝える者になりなさいと命令を与えているところで終わっています。ルカの福音書では24章48節で「あなたがたはこれらのことの証人となります。」というイエスの言葉が記されていますが、マルコの福音書では、16章15節で、イエスは人々に「全世界に行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と言われました。イエスの弟子や信者たちが、危険や困難を経験しながらも、この命令に従ったおかげで、イスラエルから遠く離れた日本にまで福音は届きました。ただ、イエスが復活された時、イエスの弟子や信者たちは、復活のイエスを自分の目で見ることは見たのですが、まだ、イエスの復活の意味を十分に理解できずにいました。そこで、イエスは、彼らが今後イエスの証し人としての働きができるように、彼らに旧約聖書から教えられたのが今日の箇所です。
 
 イエス44節で「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」と言われて、彼らに十字架と復活の意味を彼らに丁寧に教えておられます。なぜ、ここでイエスが聖書を使って教えておられるのかと言うと、これから弟子たちや信者たちが福音を人々に伝えて行くために、彼らの十字架と復活に関する信仰は、経験によって支えられるのではなく、聖書の御言葉によって支えれられる必要があったからです。奇跡を見たことによって信じる信仰は不十分です。私たちがイエスを救い主と信じるのは、私たちの経験に基づくのではなく、聖書の言葉、聖書に記されたイエスの言葉が真実であること確信することに基づかなければなりません。そして44節で、イエスは「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」と言われましたが、これは旧約聖書を意味しています。旧約聖書の最初の5つの書物、創世記から申命記まではモーセが書いたと考えられているので、「モーセが書いた5つの書物」「モーセ5書」と呼ばれます。また旧約聖書の後ろの3分の1はイザヤから始まってマラキまですべて預言者が書いた書物です。モーセ5書と預言書の間にはいろいろな書物があるのですが一番大きなものが詩篇なので、それで残りのもろもろの書物をまとめて詩篇と呼んでいるのです。モーセ5書の中に、イエスの十字架を示すことがらが数多くあります。その一つが旧約時代のいけにえの制度です。これはモーセ5書のひとつ「レビ記」に詳しく書かれているのですが、旧約時代の人々は、自分の罪を神に赦してもらうために、動物を捧げて、祭司に祈ってもらわなければなりませんでした。しかも、人間は絶えず神の前に間違ったことをしてしまうので、少なくとも毎年、年に1回はささげなければなりませんでした。祭司は捧げられた動物のうえに手を置いて祈ります。そして、動物を殺してその血を神殿の祭壇に注ぎかけました。祭司が動物に手を置いて祈るのは、捧げた人の罪をいけにえの動物の罪にすることを意味しました。それで、その動物の流した血によって、捧げた人の罪が赦されるのでした。この制度は、イエスの十字架を指し示すものでした。イエスが十字架にはりつけにされている間にすべての人類の罪がイエスになすりつけられました。そして、イエスが私たちの代わりに血を流してくださったので、私たちの罪は赦されるのです。旧約時代の人々は毎年毎年動物のいけにえを捧げていましたが、紙であるイエスは自分のいのちを捧げられたので、一度捧げられたことによってすべての時代のすべて人類の罪が赦される道が開かれました。
 預言書はどうでしょうか。イエスの十字架に関する最も有名な預言はイザヤ書の53章に記されています。受難週の時には繰り返してこの箇所を読みますが、本当にびっくりするほどに十字架のことが細かく預言されています。7節には「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と書かれています。確かに、主イエスは十字架に掛けられる前の裁判の時も、処刑されていく時も自分のいのちを守るための言葉は一言も話しておられません。また9節には「彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。」と記されていますが、イエスは二人の犯罪にとともに十字架に掛けられましたが、その遺体は、国会議員であり裕福な人間であったアリマタヤのヨセフの墓に埋葬されました。イエスは46節で「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえる」聖書に書かれていると言われましたが、復活の部分についてはホセア書6章2節の言葉を指していると思われます。ホセア書6章2節にはこう書かれています。「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」
 さらに詩篇ほかもろもろの書物には何が書かれているのでしょうか。詩篇の16章10-11節の言葉はイエスの復活を指していると考えられています。「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」このように見てみると、聖書のあらゆる箇所に、約束の救い主イエスのことが書かれていることが分かります。主イエスは、この時、イエスの復活をまだ完全に信じられないでいた弟子たちや信者たちに、これらの御言葉や、他にもたくさんあるイエスを表したみ言葉を引用して、イエスの十字架と復活は神様の永遠の計画の中で起こらなければならないことを教えられたのです。

このように、主イエスは弟子たちや信者たちに旧約聖書に記された言葉をとおして、救い主が十字架苦しみを受けた後、三日目によみがえらなければならないことを教えられましたが、それに続いて主イエスは次のように言われました。47節と48節を読みましょう。「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」この時の弟子たちは、イエスの教えさえ十分に理解していませんでしたし、社会的にも彼らの多くはガリラヤという地方出身者であり、多くが元漁師で学問も受けていない人々でした。しかし、そのような人々に、福音を世界に広めるという最も大切な働きを委ねられました。彼らがこれから福音を宣べ伝えて行くのはギリシャ文化とローマ文化が咲き誇った世界であり、ロ―マ帝国の皇帝が絶対的な力で世界を支配していた世界に立ち向って行くのです。当時のローマ帝国の人々は、イエスとはユダヤの田舎のナザレで大工をしていた男で、仲間を集めてローマ帝国に反抗して騒ぎを起こしたため十字架にはりつけになって殺された犯罪人だと考えていました。クリスチャンは、そんな十字架で死んだ犯罪人が復活しただの、約束の救い主だのと行って礼拝しているばかげた人間たちと考えられていました。この時にイエスの周りに集まっていた弟子や信者たちの数は120人ほどです。その120人が当時の世界のほとんどを支配していたローマ帝国に向かって福音を宣べ伝えるのは、まさに不可能、無謀なこと、ちょうど少年ダビデが巨人のゴリアテに立ち向うようなものだったのです。しかし、神にとって不可能なことはありません。この後300年間、ローマ帝国は、クリスチャンをこの世から消し去ろうと激しい迫害を繰り返しましたが、結局はローマ帝国は福音を滅亡させることができず、むしろ福音に打ち負かされてしまいました。どんな人間も国も政府も神にかつことはできないのです。神様は、もちろん、弟子たちや信者たちが自分の力だけで福音宣教の働きを行うことができないことを知っておられました。それで、神様は、49節に記されているように、彼らに「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われたのです。彼らに聖霊が注がれる時に、彼らは新しい力を受けて、神様から委ねられた働きを実行できるようになるのです。このことは、イエスが天に戻られた10日後に起こります。その出来事はペンテコステと呼ばれたユダヤ教のお祭りの日に起こりました。初めて、はっきりとした形で、イエスを信じる者たちに聖霊が下ったのです。この時から、ユダヤ人を恐れていた弟子たちが、何をも恐れずに、ローマやギリシャの人々に大胆に福音を伝え始めるのです。

 しかし、神様が弟子たちに福音宣教をお任せになったのはなぜでしょうか。それは神様が一人一人の人間を愛しておられて、一人として滅びることがないようにと願っておられたからです。主イエスは弟子たちに向かってこう言われました。47、48節です。「エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」神様は、弟子たちに、福音宣教をエルサレムから始めるように命じておられます。もちろん、当時弟子たちや信者たちはエルサレムに集まっていましたから、これは当たり前のことのように思えます。しかし、エルサレムに住んでいる人々とは、すなわち、イエスを十字架につけろと叫び、旧約聖書の教えを忘れて、ただ主イエスへの妬みや憎しみにかられてイエスを殺すことだけを考えていた人々です。人間的に考えれば、そんな人間は相手にしないで、どこか他のところへ行って、もっとまともな人々に向かって福音を宣べ伝えるのが当然だと思います。しかし、神様は、ひとり子イエスを十字架につけろと叫んだエルサレムの人々にも愛を注ぎ、寛容の限りを尽くして、彼らこそ、自分たちの間違いに気づいて罪を悔い改め赦しを受けなければならないのだと考えておられるのです。神様は、どんなに神に背を向ける人間であっても、決して見捨てることはありません。この時代、多くのクリスチャンは神の裁きの時がすぐに来ると期待していました。自分たちを迫害する人間たちに神の裁きが早く来ることを願っていたので、なかなかその兆しがないので彼らの中には神がすぐに裁かないことを怒っている者がいました。そんな人々に対してペテロは手紙の中で次のように言いました。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 主イエスは、弟子たちや信者たちにすべてのことを教えられた後、彼らが見ている前で、彼らを祝福しながら、彼らから離れて天に昇って行かれました。イエスの姿が目の前から消えるのを見ていた120人の人たちは、どれほど不安を感じ、将来について恐れを感じていただろうかと思うのですが、52節を見ると、彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰ったと書かれています。彼らは、主イエスの約束を信じていたのです。近いうちに天に戻ったイエスが天から彼らに新しい力となる聖霊を与えてくださると確信していました。私たちと同じ姿になってこの世に来てくださり、神の子として3年半の間弟子たちとともに生活し、多くのことを教え、奇跡の業をなさったイエスが、私たちの身代わりとなって十字架に掛けられ、三日目に死から復活されたイエスが、これからは聖霊として、目には見えませんがいつも自分とともにいてくださるのだと確信していた弟子たちの心から将来に対する不安や敵に対する恐れの心は消えていました。そして、いつもエルサレムの神殿に集まり、イエスが約束された新しい力がそそがれることを求めて心を合わせて祈り続けたのです。すると、それから10日後に、イエスが約束された聖霊が彼らに注がれ、その時から、ローマ帝国を相手にした福音宣教の働きが爆発的に広がって行くのです。主イエスは、北本福音キリスト教会に集まる私たち一人一人にも同じ命令を与えておられ、同じ約束を与えておられます。私たちも、弟子たちのように弱い者ですが、神の力が働けば弟子たちのような働きができるはずです。隣の人に福音を伝える者となりましょう。

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