2019年11月10日 『洗礼者ヨハネの証言』(ヨハネ1章:18-34節) | 説教      

2019年11月10日 『洗礼者ヨハネの証言』(ヨハネ1章:18-34節)

 世の中に偉人と呼ばれる人はたくさんいます。イエスの時代以前にも、アレキサンダー大王のような征服者、ローマ皇帝アウグストのような権力者、ソクラテスのような哲学者など数えればきりがありません。しかし、聖書は、世の中で最も偉大な人間は、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネだと述べています。ただ、彼の人生は、この世の基準で考えると、偉大な人物とはほど遠いものでした。彼は人目のつかない荒野で生活をし、いっさいの権力から離れていました。彼はラクダの毛の着物を着、腰に皮の帯を締め、食べ物はいなごとはちみつだけという貧しい生活をしていました。そのような彼が歴史上もっとも偉大な人物とされているのは、彼が、歴史上最も大切な働きをしたからです。それは、旧約聖書が約束していた救い主・メシヤが来ることを人々に知らせるという働きでした。主イエスは、彼について次のように述べています。「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」なぜ、イエスを信じる者は、一番小さいような者でも、バプテスマのヨハネよりも偉大なのでしょうか。それは、バプテスマのヨハネは、イエスが十字架と復活で、人間を罪から救い出す働きを完了する前に、牢に入れられて処刑されてしまったからです。彼は、イエスの十字架と復活がもたらす神様の恵みを、味わいたいと願っていましたが、その恵みを経験することはありませんでした。一方、今、私たちは、イエスキリストが十字架の死と復活によって私たちを罪の裁きから救い出す働きを完了した後の時代を生きているので、今は、イエスを救い主と信じる信仰によってすべての神の恵みを経験することができます。そういうわけで、主イエスは「天の御国で一番小さい者でさえ、バプテスマのヨハネよりも偉大である。」と言われたのです。彼は主イエスがマリヤから生まれる半年前に、神様の奇跡によって生まれました。年老いたアブラハムとサラに神様が約束されたイサクが生まれたのと同じように、バプテスマのヨハネも年老いた祭司ザカリヤとエリサベツから生まれました。父親のザカリヤは、子供が生まれるという神の言葉を信じなかったために、バプテスマのヨハネが生まれて8日目に割礼を受ける時まで、言葉が言えなくなりました。このように、バプテスマのヨハネの誕生も、主イエスの誕生と同じように不思議な出来事であったのですが、彼は、すぐに表舞台から姿を消します。彼は主イエスが来られるという知らせを伝える任務の時が来るまでの30年間誰にも知られずに暮らしていましたが、時が満ちて、イエスが神の子としての働きを始める直前に、突然、人前に姿を現し、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ、洗礼を受けるように人々への説教を始めました。今日の箇所には、バプテスマのヨハネの証言が書かれています。これは、彼が主イエスに洗礼を授けた後の出来事で、19節から1章の終わりまでの4日間に、主イエスは、毎日、異なったグループの人々に救い主イエス・キリストについて証言しています。今日は1日目と2日目のの証言について見てみたいと思います。

(1)一日目(19-28節)
 19節に「ヨハネの証言はこうである。」と書かれていますが、これは19節から37節までに書かれているヨハネの証言です。証言と訳されたギリシャ語は「マルチュリア」というのですが、この言葉は英語になると「殉教者」という意味に変わります。キリスト教が誕生してからローマ帝国に受け入れられるまで、実際に、クリスチャンが自分の信仰を人々に語ることは命がけのことでした。彼のところにユダヤ人たちが祭司とレビ人を遣わしたと書かれています。ヨハネの福音書の中でユダヤ人と書かれている場合、ユダヤ人全体を指すのではなく、ユダヤ教の指導者たちを指すことが多いです。一般のユダヤ人の間で、悔い改めの洗礼を受けよと命じるバプテスマのヨハネの人気が急速に高まっているのを見た指導者たちが危機感を抱いて、彼のもとへ祭司とレビ人を遣わして、彼が誰なのかを質問させたのです。祭司とは教会の牧師のような人々ですが、ユダヤ教の場合、祭司は特に神と人々の間を取り持つ働きをしていました。ユダヤ教では、人々は罪が赦されるために神殿や聖所に動物のいけにえを持って行き、祭司がその動物の血を祭壇にささげて、その人の罪の赦しを求める祈りを神にささげていました。レビ人は神殿でいろいろな儀式を行う時に祭司を助けるアシスタントであり、また神殿を守る警察のような働きも行っていました。ユダヤ教の指導者たちが、祭司とレビ人をバプテスマのヨハネのもとにつかわして彼に「あなたは誰なのだ」と質問させたことは、指導者たちがバプテスマのヨハネについて混乱していたことが分かります。彼は、旧約聖書が約束している救い主メシヤなのか、それとも、預言者なのか、預言者なら正当な資格を持っているのか、なぜ、多くの人が彼から洗礼を受けに来ているのか、彼はなぜ多くの人を引き付けているのか、などなど、色々聞きたいことがユダヤ教指導者たちにはありました。一方、バプテスマのヨハネは、彼らが自分のところに質問に来た理由が分かっていました。人々が自分を救い主メシヤだと勘違いしていることに気づいていたからです。それで彼は単刀直入に答えています。「私はキリストではありません。」20節に、彼は告白して否まずとありますが、これは彼が自分がキリストでないことを断固として否定していることを表しています。
 すると彼らは「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」と尋ねました。旧約聖書の最後の書物である「マラキ書」4章5節に「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」という預言が記されています。ユダヤ人の多くは、救い主メシヤが来られる前に、旧約聖書の有名な預言者エリヤ本人が現れると期待していました。エリヤは死ぬことなく、たつまきに乗せられて天に引き上げられた人物なので、いっそうエリヤの現われをユダヤ人は期待していました。そして、エリヤは、第二列王記1章8節によると、「毛衣を着て腰に革帯を締めていた」ので、バプテスマのヨハネの姿にそっくりだったのです。しかし、バプテスマのヨハネは彼らの質問に対して「そうではありません。」と否定しています。すると、ユダヤ人たちは「あなたはあの預言者ですか。」と尋ねています。この彼らの質問は旧約聖書の別の書物、申命記の18章15節の預言から来ていると思われます。旧約聖書の偉大な人物モーセが死ぬ前にイスラエルの民に残した言葉の中に次のような預言がありました。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。」ここに言われているモーセのような預言者に関して、イエスの時代のユダヤ人の間では、それが誰を意味するのか意見が分かれていました。バプテスマのヨハネは、この質問に対してもはっきりと「違います。」と否定しています。バプテスマのヨハネに質問していた人は、彼が何を尋ねられても「ノー」と否定するので、いらいらしました。それで彼らは言いました。「あなたは誰ですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」彼らは、自分たちでいろいろ推測するのをあきらめて、彼に直接答えを言わせることにしました。
 バプテスマのヨハネの答えは、彼らが期待しているようなものではありませんでした。ヨハネは「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」彼の答えは非常に謙遜な答えでした。多くの人が彼から洗礼を受けるために集まっていましたが、彼は、自分が偉い人間ではなく、後から来る方のために準備をしている人間にすぎないと答えました。その答えに驚いたユダヤ人たちは、彼が人々に洗礼を授けていることを批判しました。すると彼は答えました。「わたしは水でバプテスマを授けている。」そしてヨハネの福音書には記されていませんが、マタイの福音書によると、彼はこう言っています。「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。。その方は私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。」主人のはきもののひもをほどいて脱がせるのは最も身分の低い奴隷がする仕事でした。バプテスマのヨハネは、自分には主イエスの前では、そのようなことさえする資格がないと非常に謙遜に答えているのです。彼が、ユダヤ人たちに強調したことは、「神の時が来て、救い主が来る。自分は救い主の到来の準備をするために召された者だ。だから、救い主を向ける準備として自分の罪を認めて洗礼を受けなさい。」ということでした。

(2)2日目(29-34節)
 29節に、その翌日と記されていますが、この時の時間の流れは、35節、43節、そして2章の1節まで続きます。2章に記されているのは主イエスが初めて公の場で奇跡をおこなわれた「カナの街での結婚式」です。従って、ヨハネの証言からカナでの結婚式までは1週間ほどの出来事であったことが分かります。2日目にバプテスマのヨハネのところへ来られたのは主イエスご自身でした。ヨハネは自分がイエスの到来を告げる役目を担っていることを強く意識していましたから、主イエスが近づいてくる姿を見て、緊張して、いよいよその役目を果たす時が来たことを確信したことでしょう。彼はイエスを見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この言葉の中に、聖書の福音、良い知らせのすべてが含まれています。彼はイエスを小羊と呼びましたが、旧約聖書の教えに従って生きていたユダヤ人なら、その小羊とは、彼らが自分の罪を赦してもらうために神殿に携えて行くいけにえの小羊であることは明らかです。聖書は、人間は神の教えを完全に守れず罪を犯すために、聖なる神から引き離されていると教えています。人の罪が赦され、神との関係が修復されるためには、いけにえの動物の血が流されることが唯一の方法でした。旧約聖書のレビ記17章11節に次のように書かれています。「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」言い換えると、人が神から罪の赦しを受け取るためには、神が良しと認める身代わりの動物が犠牲として死ななければならないのです。レビ記17章11節に記されている「宥め」とは、人の罪によって引き起こされた神の怒りをなだめると言う意味です。動物の血がなぜ、神をなだめるのでしょうか。血は、一つには、罪に汚されて永遠の滅びに向かっている人間のいのちを表しています。もう一つには、その血は、罪人の身代わりとして捧げられた動物の聖いいのちを表しています。そのために、いけにえとして捧げる動物には一切の傷があってはなりませんでした。聖いいのちを持つ動物が私たちの身代わりになって死ぬことが、私たちの罪の赦しを可能にするのです。人々は神殿に動物を携えて行き罪の赦しを求めて祭司に祈ってもらいます。その時、祭司は動物の頭に手を置きます。それは、いけにえを捧げる人の罪が、捧げられるきよい動物に移されたことを表しています。それから動物はほふられます。動物の血は、その動物が確かに死んだことの証拠なのです。
 世の罪を取り除く神の小羊。全世界のすべての罪を取り除くために、私たちのための身代わりのいけにえとしてご自身をささげるために来られたのが、主イエスなのです。旧約時代のいけにえの動物のように、主イエスのうえにすべての人々の罪がすべてなすりつけられて、そして十字架の上で主は血を流してくださいました。主イエスは、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。主は言われました。「人がその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。」教会が、かつては死刑の道具で不吉なものとして人々から忌み嫌われていた十字架をシンボルとして掲げているのは、主イエスが私たちを愛してくださり、私たちを友と見なしてくださり、私たちの罪が赦されるために、十字架の上でご自分が呪われた者となって死んでくださったことを私たちが感謝し、生きる力としているからなのです。聖書ははっきりと教えています。イエスを信じないで死ぬ人は永遠の裁きを受けなければなりません。その状況から救い出すのは主イエスの十字架しかないのです。「天路歴程」という信仰の書物を書くなどして、17世紀のイギリスに大きな影響を与えたジョン・バンヤンは、若い頃、当時イギリスで起きていた内戦に参加するようにと召集令状を受け取りました。それはレセスターという場所を占領するための戦いでした。彼がほかの仲間と闘いに行こうとしていた時に、ある人が彼に申し出て、「あなたの代わりに私に行かせてください。」と言いました。それで、その人がバンヤンの代わりに戦地に行きました。その人は戦地で見張り兵として見張りをしているときに頭に銃弾を受けて死にました。彼がバンヤンの身代わりとなったおかげで、その後、彼は英国に大きな影響を与える働きができたのです。主イエスは、私たちの罪を取り除く神の小羊です。主イエスは、あなたのために十字架にかかるためにこの世に来られたのです。

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