2019年11月17日 『主とともにある平安』(マルコ4章34―41節) | 説教      

2019年11月17日 『主とともにある平安』(マルコ4章34―41節)

 主イエスが神の子として地上で働いておられた3年あまりの間、毎日の生活は本当に忙しいものでした。今日読んだ箇所、マルコ4章35節は「その日の夕方になって」という言葉で始まっていますが、その日も、主イエスは朝から大変忙しい一日を過ごしておられました。夕方、弟子たちとともにいろいろな働きをされたのは、イスラエルの北部にあったガリラヤ湖という湖の近くでした。その湖の北西側に「カペナウム」という町があって、主イエスと弟子たちはそのカペナウムの町を拠点にしていました。その日は、主イエスの教えを聞こうとして大勢の群衆が集まっていましたので、夕方、主は、群衆から離れるために、ガリラヤ湖の東側に行こうとされました。ガリラヤ湖の東側には大きな町はなく、西側よりもずっと静かな場所でした。従って、主イエスと弟子たちにとって、忙しさから離れて休息をとるにはふさわしい場所でした。しかし、実際には、主イエスが湖の東側に渡ろうとするのには別の理由がありました。主イエスが行動する時には、必ず何かの使命、目的があります。
 主イエスと弟子たちが乗った舟は非常に小さなものでおそらく、弟子になる前に漁師であったヨハネとヤコブの兄弟、あるいはペテロとアンデレの兄弟のどちらかが持っていたものと思われます。彼らは、イエスの弟子になった時に、漁師の仕事から離れていたのですが、漁師の時に使っていた舟はそのまま持っていたようで、主イエスが必要とするときに、その舟が使われていたのです。舟は主イエスと12人の弟子全員を乗せるには小さすぎたため、36節を見ると、他にもう一艘の舟が用意されていました。ガリラヤ湖は縦20キロ横10キロの大きさの湖で、特徴は水面が海抜マイナス200メートルという非常に低い場所にあることです。しかも、周囲が山に囲まれており、その山のあちこちに深い谷がありました。その谷を通って風が山の上から湖に吹き降ろしてガリラヤ湖の水面にぶつかる時、湖の上では思いがけないひどい嵐になる時がありました。この夜も、そのような嵐が起こりました。弟子たちも主イエスも、一日の忙しい働きを終えた後で疲れ切っていたことでしょう。主エスは舟の端ですやすやと眠っておられました。主イエスは、神であり、まったく罪のないお方ですが、私たちとまったく同じ人間となられたので、疲れるときは疲れ、空腹やのどの渇きを覚えることもありました。しずかに岸を離れた2艘の舟でしたが、突然激しい嵐が起こって、小さな舟は波をかぶって水浸しになりました。弟子たちは、暗闇の中で岸辺から遠く離れていてどれほど恐ろしかったことでしょう。必死になって水を外に出してもどんどん水が舟に入り、舟はまさに沈みそうになっていました。ルカの福音書には、「彼らは水をかぶって危なくなった。」と書かれています。12人の弟子たちのうち、少なくとも4人は元漁師で、長い間毎日漁に出かけていましたから、ガリラヤ湖の嵐についてはよく知っていたはずですが、彼らでも死んでしまうかもしれないと恐怖に襲われているのを見ると、よほど激しい嵐であったことが分かります。しかし、このような非常に激しい嵐の中で、主イエスは舟の端のほうでぐっすりと眠っておられました。
 小さな舟が湖の真ん中で激しい嵐に巻き込まれて弟子たちは、もう絶対絶命だと思いました。彼らはイエスの体を揺り動かして叫びました。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」
弟子たちは、主イエスが自分たちがこれほど苦しんでいるのに、それにまったく気づかず寝ているので、腹が立ったのでしょう。主イエスは、眠ったふりをするようなお方ではありません。本当に嵐の真っただ中でも安らかに眠ることのできるお方です。主イエスは、私たちとまったく同じ体を持っておられたので、非常に疲れ切っていたのです。弟子たちには、主イエスが自分たちのことを全然心配していないように思えました。しかし、そのように感じるのは弟子たちだけではありません。私たちも同じように感じることはないでしょうか。突然、大変なことに巻き込まれた時に、いつも信じているイエスに祈っても答えが見つからない時、主イエスは、もう自分のことなど心配してくれないと思うことがないでしょうか。私たちの信仰は本当にちっぽけな信仰です。私たちは、毎週日曜日、礼拝の中で使徒信条を告白しています。「われは天地の造り主全能の父なる神を信ず。」私たちが信じている神様は、けっしてちっぽけな神様ではありません。天と地とその中にあるすべてのものを造られた神です。言い換えると、私たちが住んでいる宇宙よりも大きな神です。だから目に見えません。それだけでなく、私たちが信じている神は、全能の父なる神です。全能です。何でもできる神、できないことが何一つない神です。そのような偉大な神様ですが、素晴らしいことは、父なる神様なのです。神を信じる私たちは神の子どもです。父親が自分の子供を愛し、その子供が成長することを願い、子どもの成長のためにあらゆる助けを与えるように、私たちのために働いてくださる神でもあるのです。大きな神であると同時に、私という一人の人間の父親なってくださる神です。私は10月から子どもに英語を教えていますが、小さいクラスの中に、私が怖いのか、お母さんにべったりくっついて離れようとしない子ごもがいます。その子どもにとってはお母さんにくっついていることが絶対的な安全なのです。子どもの親に対する信頼度はすごいですね。私たちは、神様に対して、そのような信頼を持っているでしょうか。子どもは親の愛を疑いません。絶対に自分を守ってくれると100%信じています。だから、主イエスは、「幼子のようにならなければ天国には入れません。」と言われたのです。
 この時、主イエスが、弟子たちに湖の向こう岸に渡ろうと言われたのには、いくつかの目的がありました。その一つは、弟子たちの信仰をテストすることでした。人間の本当の力、強さというのは、思いがけないこと、自分の力ではどうすることもできないような状況に直面した時に現れます。これまでも、イエスの弟子たちは、イエスが人々の病気を癒したり、大きな力ある働きをするのを見ていましたが、彼らには、まだ、イエスが永遠の存在者、全能の神であるという確信に満ちた信仰に至っていなかったので、嵐の中で、同じ舟の中に主イエスがおられるにもかかわらず、恐ろしさのあまりパニックになってしまいました。弟子たちが大声で叫びならがイエスの体をゆすったので、イエスは目を覚まされました。そして、イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、すっかり凪になりました。ここでは「すっかり凪になった」と訳されていますがギリシャ語では、ただちに風が止まったと表現されています。したがって、これは自然現象ではなくイエスの力によって起こされた奇跡でした。これまで激しい風がごーごーと音を立てて吹いていたのが、突然弟子たちはまったくの静寂に包まれました。彼らは驚きのあまり、言葉が出なかったでしょう。主イエスは弟子たちに言われました。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」イエスの弟子たちは、まだ主イエスがどのようなお方なのかまだ十分に理解していませんでした。それで、彼らはお互いに「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」と言い合っているのです。先ほど言った天地の造り主、全能の父なる神が、私たちと同じ姿をとって私たちの世界に来てくださったのが、主イエスです。ですから、表面的に見ると、私たちと同じ弱さを持つ人間なのですが、その本当のお姿は全能の神です。使徒パウロと言う人は、コロサイと言う町にあった教会のクリスチャンに次のように語っています。「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」地上の主イエスの姿は一時的な仮の姿であり、本当はこの世界とその中にあるすべてのものをお創りになった方なのです。「王子と乞食」という物語があります。貧乏人の子どもと王子が入れ替わる物語です。人々は表面しか見ないので、本当は王子様なのに貧乏人の子どもだと思ってひどい扱いをします。いわば、そのようにイエスは一時的に自分を思い切り小さくして私たちと同じ姿を取られたのです が、その本当の姿は天地の造り主、全能の神なのです。もし、弟子たちがそのことに気づいていたら、湖の真ん中で嵐に会った時も、これほどまでにパニックになることはなかったはずです。クリスチャンの方々にお尋ねします。あなたは主イエスをそのような救い主、神として信じていますか。あなたは、幼子のように主イエスに信頼していますか。マルコの福音書は、当時ローマに住んでいたクリスチャン向けに書かれた福音書と言われています。ローマはローマ帝国の首都で、クリスチャンに対する激しい迫害が300年続いた町です。当時のローマのクリスチャンたちは、マルコの福音書は自分たちのために書かれていることを知っていました。そして、この出来事は、自分たちの教会がローマ帝国の迫害と言う嵐の中で、激しく揺り動かされているけれども、主イエスが自分たちとともにおられる限り、その舟は絶対に沈むことはないという確信を与えてくれるものだと理解していました。
 この出来事は、今の時代を生きる私たちにも希望を与えてくれます。21世紀に入って、自然環境の破壊の問題、戦争や対立の拡大など、私たちが恐れを感じることがたくさんあります。さらに、身近な生活の中でもどこに危険が潜んでいるのか分かりません。しかし、聖書は、神を信じる者はどんな時も神の見てにしっかりと握られているので安全であると約束されています。旧約聖書のイザヤ書の中に次のような励ましの言葉があります。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」私の父は2回のがんの手術を受けた時に、この言葉を小さな神に書いて手に握りしめて手術室に向かいました。私たちの人生には、この手術のように自分ではどうすることもできないことがありますが、目には見えない神様がともにおられて自分を守り、また自分の祈りを聞いてくださることを知っていると、不思議な平安がありパニックに陥らずにすむことを経験します。私たちの信仰の先輩たちも、一人一人、この神様が近くにいることを感じつつ地上の生涯を終えたと思います。肉体は朽ち果て骨になり、やがては土にかえります。しかし、その人の魂は、今も生きていて、神様の御手の中に守られていることが聖書には約束されています。あなたの人生の舟の中に主イエスがおられるなら、あなたの人生の舟は是体に沈むことはありません。

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