2019年11月24日 『見よ。神の子羊』(ヨハネ1章:35-42節) | 説教      

2019年11月24日 『見よ。神の子羊』(ヨハネ1章:35-42節)

(1)イエスについて行った二人の弟子
 ヨハネの福音書の1章は、主イエスが神の子としての働きを本格的に始める前の出来事が記されています。旧約聖書には、約束の救い主が現れる前に、救い主の働きを準備するために、一人の人が神から送られることが預言されていましたが、それがバプテスマのヨハネという人物でした。1章には主イエスの働きではなく、バプテスマのヨハネの働きが記されています。彼は、人々が主イエスを救い主として信じるための準備として、人々が神様の前に正直になって、自分の心の中に、神に逆らう心、自分が神であるかのように考える心、すなわち罪があることを認めて、その印として彼から水による洗礼(バプテスマ)を受けるようにと、人々に罪の悔い改めを求めていました。ユダヤの人々は、バプテスマのヨハネの情熱的な教えに引き寄せられて彼から洗礼を受けていました。このようにして、最初は、このバプテスマのヨハネの弟子になる人がどんどんと増えて行きました。
 ヨハネの福音書の1章の19節から、2章の1節までは、約1週間の間に起こった出来事であることが分かります。19節から始まり、29節からがその次の日、そして今日読みました35節から42節は三日目の出来事ということになります。その日、バプテスマのヨハネは、自分の二人の弟子たちと一緒にヨルダン川のほとりに立っていました。すると、主イエスがどこかに向かって歩いて行かれるのが見えました。そしてバプテスマのヨハネは、イエスを見て「見よ。神の小羊。」と言いました。その前の日、バプテスマのヨハネはイエスを見て「世の罪を取り除く神の小羊」と言って、イエスがどういうお方であるのかを人々に語っていました。そして、この日、ヨハネは自分の弟子二人と一緒に立っていたのですが、彼が「見よ。神の小羊」と言った時に、この二人の弟子は、ヨハネを置いて、イエスについて行ってしまいました。普通なら、自分の弟子が、自分の元を去って他の人の弟子になると寂しさを覚えるものですが、彼は喜んでいました。バプテスマのヨハネは、自分が何のために働いているのかを良く知っていました。ヨハネは、イエスこそ約束の救い主メシヤで、自分はイエスのために、先に来て準備をするために神から召されていることをはっきりとわきまえていたので、むしろ二人のでしたイエスについて行ったことを喜びました。このふたりの弟子のうち一人は40節からペテロの兄弟アンデレであったことが分かります。もう一人ははっきり分からないのですが、この福音書を書いたヨハネだと見る人が多いようです。37節の「ついて行く」と訳されている言葉は、ただ後をついて行くという意味ではなく、直訳は「同じ道を進む」という意味で、この二人はイエスの弟子となることを決心してついて行ったと言う意味を持っています。
 主イエスは、この二人が自分の弟子になろうとしてついて来ていることを知っておられました。主はそのような人を決して放ったらかしにはされず、丁寧に導いてくださいます。それで、主イエスは振り向いて、彼らに質問されました。「あなたがたは何を求めているのですか。」イエスは二人に最も大切な質問をしておられます。というのは、人は誰でも、生きている時に何かを求めて生きているからです。しかも、それを知ることが実は人生で最も大切なことなのです。この時、おそらく二人は自分が何を求めて生きているのかはっきりと分からなかったと思います。ただ、二人はこのイエスについていけば何か見つかるかもしれないと思っていたのです。主イエスは、私たちにも「あなたは何を求めているのですか?」と尋ねておられます。あなたは、今、何を求めて生きているのでしょうか。人生は一度だけです。仏教の教えでは、人間は永遠に生き続けなければなりません。生まれ変わりと死に変わりを永遠に続けるので終わりがありません。よく考えると恐ろしいことです。そして、正しい生き方をすると次も人間として生きることになりますが、悪い生き方をすると動物になったり、最も悪いとつねに飢えとのどの渇きに苦しむ餓鬼道という世界に落ちてしまうのです。しかし、聖書は、人は神によって目的を持って造られ、一回の人生を生きるようにいのちが与えられたのだと教えています。すべての人の人生には意味があるのです。だから、無意識のうちに誰もがその意味を求めて生きているのです。
 このイエスの質問に対して二人はイエスに尋ねました。「先生、今どこにお泊りですか。」二人は、できれば主イエスから詳しく教えてもらいたいという思いがあったのだと思います。そして、今が無理なら、いつかその場所を訪れて教えてもらいたいと思ったのでしょう。すると、主イエスは彼らに言われました。「来なさい。そうすれば分かります。」この言葉はとても大切な言葉です。というのは、多くの人は「分かったら、行こう」と考えているからです。しかし、天と地とその中にあるすべてのものを造られたほど大きな神について、私たちは決してすべてのことを分かることはできません。人間と神とはあまりにも次元が違うからです。主イエスが二人に「来なさい。そうすれば分かります。」と言われたのは、神のことは、飛び込まなければ決して分からないからです。これが信仰です。信仰とは、神を信頼して神のことばに従って生きることです。そこには決心が必要です。だから飛び込まなければならないのです。飛び込まないままでは永遠に分かりません。それで、二人は主イエスについて行き、イエスが泊まっておられた場所を知りました。そして、その日二人はイエスと一緒に過ごしました。39節に「時は第十の時であった」と書かれていますが、ヨハネの時間の考え方はほかの福音書と違って、夜が明ける朝の6時から数え始めるので、これは午後4時を指しています。その日、たった一日でしたが、二人の人はイエスと時間を過ごすことが出来ました。その時、イエスは二人に、自分が誰なのか、何のために働いているのか、何を教えているのかなど、詳しく教えたり、二人の質問に答えたりしていたことでしょう。その結果、二人は、はっきりと主イエスを信じ、イエスの弟子になることを決心しました。

(2)アンデレの証し
 40節にイエスについて言った二人のうちのひとりがシモン・ペテロの兄弟アンデレであったと書かれています。このように書かれているのはアンデレよりもペテロのほうがはるかに良く知られていたからです。彼は、主イエスと貴重な時間を過ごした後、最初にしたことは何だったでしょうか。41節にはこう書かれています。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った」アンデレは38節ではイエスをラビと呼んでいました。それは旧約聖書を教えてる教師を指す言葉です。しかし、40節では、イエスを「メシヤと呼んでいます。アンデレは、イエスと一日を過ごすことによってイエスが誰であるのかを確信していました。彼が最初にしたことは自分の兄弟のペテロ、(本名はシモンですが)に主イエスと出会ったことを証ししたことです。そして、彼は兄弟のシモンを主イエスのところへ連れて行きました。アンデレは、兄弟のペテロと比べると、福音書に登場するのはずっと少ないです。ただ、彼が登場する時、彼はいつも誰かを主イエスのもとに連れて行っています。ペテロは12弟子のリーダーでしたが、もし、アンデレがペテロをイエスのところへ連れて行っていなかったら、イエスの弟子ペテロはいなかったかも知れません。彼が他に登場するのは、主イエスが5つのパンと2匹の魚だけで5000人の大人のお腹をいっぱいにするという奇跡の業が行われた時でした。この時、弟子たちはどのようにすれば5000人もの人満腹にさせられるのか分からず困り果てていました。するとアンデレが一人の少年をイエスのもとに連れて来てこう言いました。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」アンデレがこの少年をイエスのところに連れて来たことによって、この大きな奇跡が起こりました。また、主イエスが十字架にかかる直前の出来事ですが、過越しの祭りに参加するために何人かのギリシャ人がエルサレムに来ていました。彼らはイエスの弟子のピリポのところに来て、イエスに会わせてもらえないかと言いました。ピリポは相手が異邦人のギリシャ人だったので、アンデレに相談し、アンデレはピリポと一緒にこのギリシャ人たちをイエスのもとへ連れて行きました。アンデレは、ペテロやヨハネやヤコブのように、主イエスから特別に選ばれることもなく、また、表立って何か働きをすることもなかったようですが、彼は、自分の兄弟だけでなく、見知らぬ少年や、外国人さえもイエスのもとへ連れて行きました。これもまた、非常に大切な働きでした。41節に「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて」と書かれていますが、アンデレはイエスが救い主メシヤであると確信すると、すぐに自分の兄弟ペテロを捜して、彼に「私たちはメシアにあった。」と言って、彼をイエスのところへ連れて行きました。アンデレは、イエスがメシアだと分かって、すべての人がメシアを信じて罪を赦され永遠のいのちを与えられなければならないと確信したのです。福音をそのままに信じたのです。私たちは、アンデレのような思いを持っているでしょうか。本当に聖書の福音を人間にとって最も大切なものだと思っているでしょうか。ヨハネの福音書3章36節には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と書かれています。もし、このイエスの言葉を真実な言葉と信じるなら、私たちは自分が愛する家族や友達にイエスのことを知らせなくてよいでしょうか。イエスのもとへ連れて来ないでいいのでしょうか。私自身は、大学生の時に、サークルで友達になったニュージーランド人のグレアム君に、クリスチャンの集会に連れて行ってもらいました。彼は難しいことは言わずに、ただ「一緒に、この集会に行かないか?」と誘ってくれただけでした。私はそれまで聖書を一度も読んだことがありませんでした。キリスト教のことは何も知りませんでしたが、グレアム君がいい友人だったので、彼と一緒に行くならいいかなと思って軽い気持ちでその集会に行きました。そこで初めて聞いた聖書のメッセージの内容は全然覚えていません。メッセージの意味は全然分からなかったからです。ただ、そこで出会ったクリスチャンの姿が非常に印象的でした。そこには日本人のクリスチャンもいましたし外国のクリスチャンもいました。彼らがみな、本当に楽しそうで、生き生きとしていたのです。そのころ、私は普通の家庭で育って普通に大学生活をしていたのですが、何かいつもいろんなことに不平を持っていました。親がうるさいとか、大学の授業が面白くないとか、いつもぶつぶつつぶやいていました。私はどうして自分と彼らがこんなに違うんだろうと、正直不思議でした。それで、グレアム君がギデオン協会の新約聖書をくれたので、それを読み始めて、そのようにしてイエス様を信じるようになりました。もし、彼が、私が大学1年生の2月のある水曜日に、その集会に誘ってくれなかったら、今、自分がどこで何をしているか全くわかりません。だから、彼には本当に感謝しています。その後、私の母も父もクリスチャンになり、父はクリスチャンとして死にましたので、今は天国にいることを確信しています。そして、私は不思議な神様の導きで、まったく想像していなかったのですが、この教会の牧師になって今日に至っています。アンデレはイエスの12弟子の中では目立ちませんが彼の働きは大きな結果をもたらしました。
 アンデレに連れられてイエスと出会った彼の兄弟シモンは、ここにははっきりと書かれていませんが、イエスを救い主メシアと信じました。主イエスはシモンをじっと見つめましたが、主はシモンの心を見ておられたのです。それで、主はシモンに言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」ユダヤ人にとって名前は単なる呼び名ではなく、その人そのものを表すものと考えられていました。ケパはヘブル語、ペテロはギリシャ語ですが、「岩」という意味です。シモンは、もともと激しやすい性格で、失敗の多い人物でした。それは弟子になっても変わらないのですが、主イエスはペテロに「岩」という名前をお与えんなりました。彼には「岩」と呼ばれるのにふさわしいものはなかったのですが、彼はイエスと出会ったことによって、いろいろな失敗を経験したのち、「岩」と呼ばれるにふさわしい弟子に変わりました。それは、主イエスが、ペテロが何度失敗しても、見捨てることなく彼を立ち直らせてくださったからです。ペテロは、イエスを信じる信仰によって、主イエスとの新しい関係に入り、イエスとともに生きることによって新しい人間に変えられたのです。主イエスを信じるとは、主イエスとの新しい関係を持って生きることです。信仰を持つとは単に、天国に行くことが約束されることではありません。地上の世界で生きるとき、私たちは、時に悩んだり苦しんだりしますし、失敗をすることもあります。そんな時、私たちを時にはげまし、時に 
戒め、時に慰めてくださる主イエスがおられることは、ペテロのように、私たちを新しい人間に変えてくれるのです。

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