2019年12月1日 『神にとって不可能なことはない』(ルカ1章26-38節) | 説教      

2019年12月1日 『神にとって不可能なことはない』(ルカ1章26-38節)

 今日から12月22日のクリスマス礼拝までの4回の日曜日をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の準備をする期間に入ります。教会ではクリスマスの飾りつけも始めました。クリスマスは恐らく世界中で最も多くの人がお祝いするイベントだと思います。人間の歴史の中で世界中に多くの偉大な人物が現れましたが、その誕生日をクリスマスと同じ規模で祝う人物はいません。キリスト教国ではない国でもクリスマスが祝日になっている国がたくさんあります。それはそうなのですが、一方で、クリスマスほど、そのお祝いの仕方が間違っている祝日もありません。クリスマスとは、本来、父なる神が人間の罪を赦すために、罪人の身代わりとなって十字架にはりつけにするために、大切なひとり子イエス・キリストを人間の世界に送られたことを神に感謝し、イエスの誕生お祝いする日です。しかし、実際には、クリスマスは家族が久しぶりに集って一家団欒の時を過ごす日、サンタクロースからプレゼントをもらう日、あるいは恋人と素敵な夜を過ごす日であるかのように祝われています。しかも、このクリスマスは新約聖書から始まったことではありません。イエスの誕生は、神と人間の関係を回復させることが目的なのですが、神と人間との間の断絶は最初の人間アダムとエバが神様の命令に背いて食べてはならないと言われていた木の実を食べた時に起こりました。人間の歴史が始まったばかりの時です。しかし、神様はアダムとエバが反逆をした直後に、この関係を修復するためにイエスをこの世に送ることを計画されました。それが創世記3章15節に書かれている言葉の意味です。その後も、神様は最初のユダヤ人であるアブラハムとも同じ約束をし、ユダヤ人最大の王ダビデとも同じ約束をしています。クリスマスとは、人間と神様との関係を修復するために来られた約束の救い主、ヘブル語でメシヤがついに来られたことをお祝いする日なのですが、今では、ただ、楽しいお祭りの日になっています。

(1)天使ガブリエルがマリヤに現れる
 神様が定めた時、約束のメシヤがこの世に来られる時が来ました。神がこの世に来られる時、それがこの世を裁くためであれば、権威と栄光に満ちたお姿で現れるはずです。しかし、メシヤがこの世に来る目的は、私たち罪人のために身代わりのいけにえとなって死ぬためだったので、特別な誕生が必要でした。一つは、罪人の身代わりになるためには罪のない者でなければなりません。死刑の判決を受けている人が他の死刑囚の身代わりになることはできません。そのように、罪人の罪が赦されるための犠牲のいけにえになるためには、救い主には罪があってはなりません。そして、同時に、神は私たちの本当の身代わりになるために、すべての点で私たちと同じようになってくださいました。そういう訳で、神様は、救い主がこの世に来るのに、処女のマリヤをとおして生まれるというとても面倒くさい、複雑な、そして、選ばれたマリヤにも大きな犠牲を強いることになる誕生でなければならなかったのです。もし、主イエスが、神の子としての働きを始めた30才の姿で突然この世に現れたなら、そっちのほうがずっと簡単なのですが、私たちの身代わりという意味では不完全なものになります。神様は、いのちが宿るという瞬間を除いて、一人の人間のいのちが生まれて死ぬまで、私たちとまったく同じプロセスを通ってくださいました。その処女降誕のために選ばれたのがマリヤという女性でした。そして、その神様の計画をマリヤに知らせるために遣わされたのが天使ガブリエルです。ガブリエルとは「神の人」とか「神はご自身を強いものとして示された」という意味を持つ名前です。天使の中で名前が与えられているのは、ガブリエルとミカエルだけで、ガブリエルはユダヤ人の間では特に重んじられた天使でした。
 神様がイエスの誕生のためにお選びになった女性はガリラヤ地方のナザレに住んでいた、おそらく年齢が14,15歳くらいのマリヤでした。イスラエルの都はダビデ王の時代から今日まで3000年の間ずっとエルサレムでした。そこにはユダヤ教の神殿があり、当時の支配者ヘロデ王が建築に非常に優れていたこともあって、エルサレムの街はローマ帝国の都ローマにも劣らないほど豪華な建物で溢れていました。エルサレムにはユダヤ教のトップ大祭司がおり、70人の議員からなるサンヘドリンと呼ばれた国会がありました。一言でいうとエルサレムにはユダヤ人のエリートの大部分が住んでいました。しかし、神様が救い主の誕生のために選んだ女性はエルサレムに住む大祭司の娘でもなく、サンヘドリンの議員の娘でもなく、大富豪の娘でもなく、ユダヤの北にあった田舎町ナザレに住む貧しい家庭で生まれ育ったマリヤという女性でした。彼女は教育を受けておらず、ヘブル語の文字が読めなかったので、旧約聖書について知っていることは、家で暗唱した言葉や、会堂で聞いて覚えた言葉だけだったでしょう。つまり、マリヤは田舎に住むごく普通の娘にすぎませんでした。私たちが人を見て評価する時に、その人がどんな働きをしているのか、どんな地位についているのか、どこの大学を出ているのか、どんな家に住んでいるのか、どんなブランドの服を着ているのか、どれほど有名なのか、そのようなことで判断します。そういう事柄が価値あることだと考えているからです。しかし聖書に書かれているように、「人はうわべを見るが神は心を見る」お方なのです。神様の選考基準は人間の選考基準とまったく違います。ただ、マリヤはユダヤ人の中からただ一人選ばれた女性なので、素晴らしい女性であることは間違いありませんが、ただし、ローマカトリック教会が主張するように、神のように罪のない人間ではありません。この教理は1854年にローマ教皇ピウス9世がマリヤの無原罪の御宿り(無罪性)を宣言したことによって始まりました。「祝福された処女マリアは、母の胎内でいのちが宿った瞬間から、全能なる神の恵みと特権により、また、救い主イエスキリストの功績のゆえに原罪の汚れから免れた。」と宣言したのです。しかし、これは聖書の教えに反するものです。キリスト以外、罪のない人間は一人もいないと聖書ははっきり断言しています。
 み使いガブリエルがマリアの目の前に現れて、「「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言いました。ここには2つのことが言われています。一つは、マリヤが神様から特別な恵みを受けているということ。もう一つは、神ご自身がマリヤとともにおられるということでした。これを聞いたマリヤはどんな反応を示したでしょうか。29節には「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」と書かれています。この反応もマリヤが普通の女性ではないことを示しています。昔の人々にとっても、み使いが現れることは恐ろしいことでした。ルカの1章の11節では、バプテスマのヨハネの父親である祭司ザカリヤに主の使いが現れたことが記されていますが、その時、男性で人生経験の長いザカリヤであっても、取り乱して、恐怖に襲われたと書かれています。主イエスが復活した朝、イエスの墓を訪れた女性たちの前にもみ使いが現れましたが、女性たちは恐ろしさのあまり地にひれ伏しています。しかし、マリヤはまったくパニックに襲われた様子はなく、ただ、み使いが言った言葉の意味が分からずに、考え込んでいました。彼女は、み使いが言った言葉が自分にとってどんな意味があるのか真剣に考えていたのです。

(2)み使いガブリエルの知らせ(30-34節)
 いよいよ31節からガブリエルがマリヤにメッセージを伝えます。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」恐らく、最初、マリヤはみ使いガブリエルが言った言葉を理解することはできなかったでしょう。み使いが言ったのは、近いうちにマリヤが妊娠して男の子を産むこと。その男の名前にはイエスと言う名前をつけること。イエスというのはギリシャ語発音の名前で、ヘブル語ではヨシュアになり、よくある名前でした。そして、それは「主は救い」という意味を持っています。み使いは続けて、その子はいと高きかたの子と呼ばれること、ダビデの王位に就くこと、そして、永遠の支配者となることと言いました。実は、み使いガブリエルが言ったことは、旧約聖書の時代、紀元前1000年ごろのイスラエル王ダビデに対して与えられた神様の預言のことばと同じなのです。最初に言ったように、神様が私たちに救い主を送ることはアダムとエバの時代から始まっていて、歴史が下るとともに少しずつ明らかになって行きました。2サムエル7章11節後半から13章にはこう書かれています。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この預言はダビデ契約と呼ばれていて、旧約聖書だけを信じるユダヤ人もこの預言を信じていました。ユダヤ教の会堂では繰り返しこの預言が読み上げられていたので、おそらくマリヤもガブリエルの言葉を聞いて、このダビデ契約の言葉のことを思ったはずです。それで、ようやくマリヤは理解できました。自分が、旧約聖書に預言されていて人々が待ち望んでいた救い主の母親に選ばれたということを知ったのです。それは、あまりにも恐れ多いことですし、そうなると自分のこれからの生活がどうなるかまったく見当がつきません。彼女は大好きなヨセフと婚約中で、幸せな結婚生活を夢見ていたはずです。普通の女性なら、ガブリエルに「どうかこのことは私ではなく、他の女の人にしてください。」と頼んだでしょう。というのは、誰でも一番に考えるのは自分のこと、自分の都合、自分にとっての幸せのことだからです。しかし、マリヤが考えていたのは自分の都合や幸せのことではありませんでした。また、み使いの言葉を信じていないのでもありません。彼女が考えていたことは、み使いから聞いた言葉は、どのように実現するのだろうかということでした。彼女は処女だったからです。彼女はただ不思議だったのです。それで、マリヤはみ使いに「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と尋ねました。
 
 (3)み使いの説明(35-38節)
 マリヤの質問に対して、み使いは次のように答えました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」ここで「聖霊があなたの上に臨み」という箇所は使徒の働きの1章8節と同じ表現です。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」これは信者たちに初めて聖霊が明確な形で注がれた出来事であるペンテコステの日を表していますが、ペンテコステ以前の弟子たちにはいろいろな弱さがありましたが、ペンテコステの日の経験をとおしてすっかり別人になり、人を恐れず、死ぬことも恐れず、福音を人々に大胆に述べ伝えるようになり、その結果、エルサレムに120人ほどしかいなかったクリスチャンが30年後にはローマ帝国の都ローマには、皇帝が恐怖を感じるほどに多くのクリスチャンがいました。聖霊には人をまったく新しくする力があります。その力がマリヤに働いて、彼女は男の子を宿したのです。なぜこのような方法を使わなければならなかったのかについては最初にお話しした通りです。マリヤに聖霊が働いた時に特別な力が働き、自然のプロセスを超越することが起こりました。それは超自然的なことが起こったことに意味があるのではなく、このプロセスでなければ神の計画が実現できなかったことに意味があるのです。み使いガブリエルが最後に言ったことは「神にとって不可能なことは何もありません。」ということでした。これは直訳すると、「神に関して、すべての言葉には不可能はない」となります。天地創造の時にも、神が「光あれ」と言葉を発した時に、光が現れました。90才になって子供が産めない体になっていたアブラハムの妻サラに向かって、神様が「来年の今頃男のが生まれる」と言われた時、サラはその言葉を聞いて思わず笑ってしまいましたが、確かに翌年男の子が生まれました。人間にとって理解を超えることですが、神にとって不可能なことは何一つないのです。
 最後に38節のマリヤの言葉について考えましょう。み使いガブリエルの説明を聞いてすべてを理解したマリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」この言葉にはマリアの深い信仰が現れています。たとえマリヤが15,16歳だったとしても、自分の身に起きたことがどのような状況になるのか分かっていたはずです。2000年前の人間でも、聖霊によって子どもを身ごもるということなど誰も信じないでしょう。愛する婚約者ヨセフ、自分の家族がどのように思うか、マリヤにも想像できたはずです。モーセの律法では、婚約中の女性が不倫を犯すと死刑だと定められていました。彼女のこれから数か月、どんなにつらい日が待っているかも想像できました。しかし、彼女は、「私ではなく他の人にしてください。」とは言いませんでした。彼女は自分の気持ちや自分の都合を第一に考えてはいませんでした。もし、それが神の御心であるならば、どんなに自分にとって厳しいものであっても、それに従う信仰の決断をしたのです。これこそ、神様が私たちに求めておられる信仰ではないでしょうか。彼女こそ、模範的クリスチャンです。これほどの信仰の持ち主であるマリヤを神様が裏切るはずがありません。神様は、み使いを彼女の婚約者ヨセフのもとにつかわし、マリアが身ごもったのは聖霊によるものだと証しをし、彼にマリヤを妻として迎えるように命じました。ヨセフは、このみ使いの言葉を信じ、マリヤと結婚をして、生まれて来る子供の父親として責任を取ることを決心したのでした。
 マリヤの信仰は一生変わることはありませんでした。主イエスが十字架に掛けられた時も、十字架の前に彼女は立っていました。主イエスが復活の後、天に帰られる時に、弟子たちに「約束の聖霊が下るのを待ち望んで祈っていなさい。」と言われて、天に帰られたのですが、マリヤは弟子たち一緒に心を合わせて祈りに専念していました。」このことからも、主イエスの母親として選ばれた理由が分かります。私たちもマリヤの信仰に近づきたいと思います。

2019年12月
« 11月   3月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教