2019年12月8日 『ベツレヘムへの道』(ルカ2章1-7節) | 説教      

2019年12月8日 『ベツレヘムへの道』(ルカ2章1-7節)

 主イエス・キリストの誕生は、普通の人間の誕生とはまったく異なるものでした。旧約聖書にはキリストについての預言が数多く記されています。旧約聖書はおよそ1100年の間に30人以上の人々、身分も職業も生きた時代もばらばらの30人がお互いに連絡することもなく、それぞれ神から霊感が与えられて書いた書物を集めたものです。しかし、そこには一つの主題、一人の主人公が首尾一貫して流れています。それは約束の救い主、ヘブル語でメシヤについてです。聖書は本当に不思議な書物です。その約束の救い主が今から2000年ほど前、私たちの世界に来て下さいました。そのお方がナザレのイエスとも呼ばれる主イエス・キリストです。私たちは、誰も、自分がいつどこで生まれるかが決まっていて生まれて来ることはありません。しかし、旧約聖書は、創世記から始まって最後の預言書に至るまで、少しずつ、メシヤの誕生について預言が与えられています。創世記の49章には、救い主がユダヤ民族の中のユダぼいう部族から生まれることが預言されており、紀元前1000年頃には救い主がダビデ王の子孫として生まれることが預言され、紀元前700年頃には救い主がベツレヘムという町で生まれることが預言されていました。この約束の救い主がついに私たちのところに来られる時が来て、そのことがみ使いガブリエルによってマリヤに伝えられました。それから約9か月が過ぎようとしていました。

 2章1節には次のように書かれています。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。」皇帝アウグストと書かれていますが、アウグストは皇帝の名前ではなくタイトルです。皇帝の名前はオクタビアヌスと言い、ジュリアス・シーザーが暗殺された後、帝国内部では権力闘争が続いたのですが、最後にライバルだったアントニウスとクレオパトラを滅ぼした彼が紀元前29年にローマ帝国皇帝の地位に着き、起源14年に76才で死ぬまでローマ帝国を支配した。彼はローマ帝国最初の皇帝でアウグストとは「尊厳なる者」という意味のタイトルで、彼の後も、ローマ皇帝はこのタイトルを受け継ぎました。当時の世界のほとんどの地域を支配する絶対的権力者になり、その後の200年間、帝国内での戦争がなく、パックスロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる時代が続きました。彼は非常に有能な支配者で、彼によって帝国は繁栄し、特に帝国内の道路が整備されたので、パウロをはじめ福音が帝国内の各地に広めることに大いに役立ちました。ローマ皇帝はいろいろな命令、勅令を出すのですが、その一つに、ここに記されている住民登録をすると言うものがありました。これは、定期的に行われていて、その目的は、若い男性を兵役に付かせるためと、税金を取り立てるためでした。ユダヤ人はローマ帝国の兵役に就くことは免除されていたので、ユダヤでの住民登録の目的は税金を集めることでした。3節に「人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。」と書かれています。私たちの場合、住民登録はその時に住んでいる場所で行われますので、なぜ、ヨセフとマリヤがわざわざベツレヘムに行かなければならなかったのか不思議です。ユダヤ人は、出身の部族を非常に重要に考えていたので、二人がユダ部族出身で、先祖がダビデ王の家系であったので、ダビデの町と呼ばれたベツレヘムに行かなければならなかったようです。ローマ帝国はそれぞれの地域の習慣や宗教を認めていたので、ユダヤで行われた住民登録では、先祖の出身地に行って登録しなければなりませんでした。しかし、このことが、不思議なことに、神様の預言を実現することになりました。ローマ皇帝は自分で勅令を出したと思っていたでしょう。しかし、その背後で、神様がアウグストに勅令を出させるような思いを与えられたので、このタイミングで住民登録の勅令が出されたのです。旧約聖書のミカ書5章2節に次のような預言が記されています。ミカは主イエスが生まれる700年ほど前に活躍した預言者です。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 ヨセフとマリヤが住んでいたのは、イスラエル北部のガリラヤ地方にありました。一方、彼らが住民登録をする町ベツレヘムはイスラエル南部のユダヤ地方にあり、都エルサレムの近くにありました。ナザレからベツレヘムまでは120キロほどあり、また、ベツレヘムはエルサレムと同じように山の上にありましたので、二人にはかなりきつい上り坂を登らなければなりませんでした。今回の登録は税金を集めるためでしたが、当時の資料によれば、12歳以上の女性にも税金が課せられていたので、マリヤはもうすぐ赤ちゃんが生まれるという身でありながら、ヨセフと一緒に登録に行かなければなりませんでした。人間的な目で見ると、ヨセフとマリヤの二人は、皇帝アウグストが自分の国を守るために発令した命令によって、最悪のタイミングの時に変な旅をすることを強いられた哀れな若い婚約者に見えます。周りの状況に対して何もすることができず、ただそれに流されて行動しなければならない弱い人間に見えます。しかし、神の目には二人はまったく違う人間に見えていました。神様が長い間計画していたことを実現するために特別に選ばれた二人です。二人は神様から救い主の親になるために選ばれたことを知って、そこに大きな犠牲がともなう事が分かっていましたが、二人はそのことよりも神の御心を第一にすることを決心して神の命令に従うことを決心しました。マリヤにもヨセフにも、み使いが現れて、マリヤが救い主になる男の子を生むという知らせを聞いた時に、二人がそれまで描いていた未来の姿がすべて崩れてしまいました。しかし、それでも、二人は神様から委ねられた使命に自分たちの人生を捧げることを決断したのです。聖書には彼らがどのような結婚式を行ったのか書かれていません。当時のユダヤでは、結婚式こそ人生で一番大きな大切なイベントでした。しかし、二人の結婚式はどんなものだったでしょうか。二人の両親も、ナザレの村の人々も、おそらく誰も二人の間にできた赤ちゃんが聖霊によって身ごもったものだとは信じていなかったはずです。二人にはどんな厳しい非難のことばや罵りのことばが投げかけられたでしょうか。その一つ一つを二人は乗り越えて来ました。み使いがマリヤに現れた時、彼女に最初に言った言葉は「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」でした。マリヤには神様が二つのことを約束してくださいました。それは神様の恵みが注がれることと、いつも神様がともにおられることです。マリヤにとって、この言葉がいつも支えになったことだと思います。預言者イザヤの言葉に次のような言葉があります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」この言葉はマリヤだけでなく、私たち神を信じるすべての者への約束です。神様は、私たちを自分の子供だと宣言しておられます。そして、人生のどんなときにも神様が私たちとともにいることを約束しておられるのです。マリヤとヨセフにとって、結婚式をする時も、住民登録をするために長く危険な旅に出かけるときも、ベツレヘムにいって泊まる宿がなかった時も、赤ちゃんが生れた後、ヘロデ王の殺害から逃れるためにエジプトに逃げた時も、二人にとってはとても恐ろしく不安な日々を過ごしたはずです。しかし、二人には神様の約束を信じる信仰があったので、これらの出来事一つ一つを乗り越えることができました。私たちのためにも、神様はいつもともにいて私たちを守ってくださいます。この二人のように、神様を純粋に信頼するものでありたいと思います。

 ルカは、人類の歴史の中で最も重大な出来事を非常にあっさりと書いています。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」ヨセフとマリヤがナザレからの長くつらい旅を終えて、ようやくベツレヘムに着いた時、マリヤの出産の時が近づいていました。二人が出産まで何日ベツレヘムに滞在していたのか、すでに住民登録は済ませたのか、まだ済ませていないのか、何も書かれていません。また、二人がどこに泊まっていたのかも書かれていません。ただ、宿屋には彼らのいる場所がなかったことだけが書かれています。当時の宿泊施設は本当に簡単なもので、長屋風に建てられた建物で、宿屋の主人が用意するものは、家畜のえさと、宿泊者が料理をするためのたきぎぐらいでした。そのような粗末な宿屋にも彼らの泊まる場所はありませんでした。住民登録のために大勢の人々が本籍のある町へ移動していましたので、ベツレヘムの街は非常に多くの人で混雑していました。7節に「マリヤは男の子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた」と書いてあるので、人々は、イエスは馬小屋で生まれたのだと思われるようになりました。しかし、飼い葉おけと訳されている言葉は、細長い動物のえさを入れる入れ物を意味するもので、家畜がいるところにはどこにでもありました。当時、動物をつないでおく場所の多くは洞穴でした。おそらく、主イエスは、立派な建物の馬小屋ではなく、洞穴の中で生まれた尾だと思います。ベツレヘムには農夫や商売人、ローマ帝国の役人や兵士たちが暮らしていました。また、近くの都エルサレムにはヘロデ大王や貴族やユダヤ教のリーダーたちがいましたが、彼らがまったく知らないところで、しかも、本当にひどい状況の中で救い主がひっそりと生まれてくださいました。当時、一般のユダヤ人家庭では、赤ちゃんが生れると楽団を雇ってお祝いをしたそうです。宮殿で王子が生れたら、国をあげてお祝いをしました。普通、偉い人が生れた時は、伝説として特別なしるしが起きることが多いですが、主イエスがお生まれになった時は、何も起こらず誰にも知られることのない誕生でした。
 7節に「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」と記されていますが、これは非常に意味深い言葉です。ヨハネの福音書1章11節にも、「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。主イエスがこの世に来られた目的は、罪のために神から離れてしまった私たちをもう一度神との関係に引き戻すためだったのですが、この世の人々は、今もなお神に逆らっているために神を受け入れようとしないのです。イエスの生涯はそれを象徴するものでした。栄光に満ちたイエスが、栄光を捨てて、この闇のような世界に来てくださったのに、生まれた時に、イエスを迎える宿屋はありませんでした。30才から神の子としての働きを始められましたが、その時も、主イエスは言われました。「キツネには穴があり、空の鳥には巣があるが、私には枕するところもありません。」そして最後に息を引き取る場所は、極悪な犯罪人が磔になる十字架でした。多くの人は、人生の最後は自分の家で過ごしたいと願いますが、主イエスにはそのような家はありませんでした。これは、この世が神に背を向けている、神に反逆していることを表しています。
 このことは私たちに対するメッセージでもあります。あなたの心には主イエスを喜んで迎える場所があるでしょうか。主イエスはわざわざこの世に来てくださったのに、世の人々はイエスを受け入れませんでした。主イエスは、あなたのところにも来て、あなたの心の入口を探しておられるのですが、あなたは心には主イエスをお迎えする場所があるでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節にこのような言葉があります。「わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」この言葉は、もともとラオデキアという町にあった教会に送られた手紙の中の言葉です。ラオデキアの教会の人々は裕福で能力があり、教会の働きは自分たちのちからだけでできると思い込んで、神に頼ることを忘れてしまっていました。主イエスは教会の中心にいるべき方なのに、彼らの信仰姿勢はイエスを教会の外に追い出していました。だから主イエスが教会の戸の外に立って中に入れてくれるようにとノックをしているのです。でも、これはクリスチャンであるなしにかかわらず、私たち一人一人に対する言葉だと思います。食事と訳されている言葉は夕食を意味する言葉です。当時の人々は朝食はすごく簡単にすませ、昼食は家で食べることはあまりありませんでした。その代わり、夕食は非常に大切なものであり、ただ食べるだけでなく、ゆっくりと家族や友達と交わる時でもありました。主イエスは、私たちとそにょうにともに交わりながら生きることを願っておられます。だから、あなたの心の扉をノックしておられるのです。あなたは、その戸を開けて主イエスを迎え入れる思いを持っておられるでしょうか。聖書の約束は、誰でも主イエスを信じる者は、神の子どもとして受け入れられ、神の子どもという恵まれた立場で生涯を過ごすことになることが約束されています。神の子どもとしていいるとき、私たちは何も乏しいことがなく、何も恐れる必要はありません。あなたの心は主イエスを迎え入れるでしょうか。

2019年12月
« 11月   3月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教