2019年12月22日 『民全体のための良い知らせ』(ルカ2章8-20節) | 説教      

2019年12月22日 『民全体のための良い知らせ』(ルカ2章8-20節)

 クリスマスは主イエスの誕生をお祝いする日ですが、主イエスの誕生とは、この世界とその中にあるすべてのものを創造された無限の神が私たちと全く同じ一人の小さな人間となってこの世に来てくださったことを意味します。目に見えない無限の神が目に見える人間となるというのは、本当に本当に小さくなることです。聖書は、そのことを神がご自身を低くしてこの世に来られたと教えています。言い方を変えると、イエスの誕生は神の謙遜の現れです。ですからクリスマスの出来事にかかわる人々は、謙遜な人々と傲慢な人々がはっきりと対比させられています。キリストの誕生は、謙遜な人々のためであり、キリストを受け入れる人々も謙遜な人々です。人となられた救い主イエスの親となるように選ばれたマリヤとヨセフも二人とも非常に謙遜な人々でした。二人はごく普通の人々で田舎のナザレに住んでいました。神の権威と栄光を考えるならば、もっと身分の高い人、もっと裕福な人、もっと家柄の善い人が選ばれるのではないかと私たちは考えますが、神様の考えは違っていました。聖書の中に、「自分を高くする人を神は低くし、自分を低くする人を神は高く上げられる」という言葉がありますが、神様に受け入れられる人とは自分を低くする人なのです。ルカの福音書では、イエスとローマ皇帝アウグストゥスが比べられています。当時絶対的な権威を持っていたアウグストゥスに対して、神の御子イエスは、汚い馬小屋でひそっりとお生まれになりました。しかし2000年後の今、アウグストゥスは単に歴史の中の人物にすぎませんが、主イエスは、今もなお生きておられ、多くの人々に新しい人生を与える力を持っておられます。マタイの福音書では、同時のイスラエル王ヘロデとイエスが比べられています。当時ヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、イスラエル国内では絶対的な権力を持っていました。ヘロデ大王がユダヤ人の王としてお生まれになったイエスのことを聞いて殺そうとします。赤ちゃんイエスは、神様の働きがなければヘロデの手によって殺されていたかもしれません。しかし、実際には、イエスのいのちは守られ、逆にヘロデ大王は死んでしまいます。まさに、主イエスが言われたように、自分を高くする者を神は低く引き下げ、自分を低くする者を神は高く引き上げてくださるのです。

 ヨセフとマリヤがローマ皇帝アウグストゥスの命令を受けて住民登録をするために先祖のふるさとベツレヘムに到着してまもなく、マリヤは男の子を生みました。王の王なる救い主がお生まれになると言うのに、御子イエスのために一部屋さえ開けてくれる人はいませんでした。ベツレヘムの町に住む人々は、誰もイエスの誕生を知らずに、いつもと同じ生活を続けていました。旧約聖書が約束していた救い主の誕生の知らせを最初に受け取った人々も、まったく予想外の人々でした。それは、ベツレヘムの町の郊外で羊を見守っていた羊飼いたちでした。羊飼いは、当時のユダヤの社会では、もっとも身分の低い人々でした。彼らは教育も受けておらず、貧しい人々でした。とくにユダヤ人の社会では彼らは軽蔑されていました。仕事上、彼らは、安息日も働かなければならず、動物を相手にする仕事なので体がいつも汚れていました。しかし、彼らのところに最初に救い主の誕生の知らせが届けられたことは、救い主に関する聖書の預言に一致していました。というのはイザヤ書の61章1節に次のような言葉があるからです。「神である主の霊がわたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」主イエスが神の子としての働きを始められた時、ご自分が育ったナザレの町のユダヤ教の会堂に入って聖書を読まれたのもこの箇所でした。そして、この聖書の言葉を読み終えると、主は言われました。「今日、聖書のこのみ言葉があなたがたが聞いたとおり実現しました。」主イエスの働きは、自分を正しい人間だと思い込んでいたユダヤ教の指導たちや自己満足していた裕福な人々のためではなく、つねに、貧しい人々、病気に苦しむ人々、世の中で疎外されていた人々などを追い求めておられました。従って、救い主誕生のニュースが最初に羊飼いたちに届けられたことは、神にとってはふさわしいこと、当然のことだったのです。
 ベツレヘムは都エルサレムから10キロほど離れた場所にありました。羊は昼の間は野に放たれていますが、夜には囲いの中に集められて、獰猛な動物に襲われたり泥棒に盗まれたりすることのないように、羊飼いたちが交替で見張りをして羊を守っていました。いつものように静かな夜、羊飼いが羊の見張りをしていた時に、突然、主の使い、天使が彼らの前に現れました。同時に主の栄光の光が羊飼いたちを照らしたので、彼らは何事が起きたのかと驚き恐れました。聖書を通じて、神の栄光が現れる時は光が輝きます。彼らが驚くのを見て、み使いが彼らに向かって言いました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」羊飼いたちは恐れる必要がなかったのです。み使いは、人々に神の裁きのメッセージを伝えに来たのではなく、すばらしい喜びを知らせに来たからです。ここで「素晴らしい喜びの知らせ」と訳されているギリシャ語は「ユーアンゲリオン」という言葉で、ルカの福音書の「福音」を意味する言葉です。私たちの教会の名前も「北本福音キリスト教会」と言いますが、「福音」とは素晴らしい喜びの知らせという意味なのです。10節でみ使いは「この民全体に与えられる大きな喜び」と言いました。旧約聖書の時代、神様からの喜びのメッセージはイスラエルの民に与えられていました。しかし、主イエスの誕生により、その喜びは、イスラエルの民にとどまらずに、全世界の人々に直接与えられることが約束されています。私は毎年2月に行われる日本ケズィックという集会で奉仕をしていますが、この集会のモットーは「みなキリストにあってひとつ」という言葉ですが、これはガラテヤ書の3章27-28節から取られています。こう書かれています。「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリストにあって一つだからです。」この時代のユダヤ人の男性は毎朝次のように祈っていたそうです。「主よ。私は、異邦人でなく、奴隷でもなく、女でもないことを感謝します。」人間はこのような隔ての壁を作ろうとしますが、主イエスはそのような壁を取り壊されました。

 突然の出来事に驚き恐れを抱いていた羊飼いたちに「大きな喜びを知らせに来た」と言って、彼らの恐れを静めたみ使いは、その喜びの知らせがどんなものなのかを彼らに伝えます。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」あなたがたのために救い主がおまれになったというメッセージです。救い主とは、私たちを何かから救い出してくださる方という意味です。私たちは、生きることの中に様々な問題を感じていますし、今の状況から助け出される必要を感じます。テレビを見れば毎日様々な事件が起きています。家庭内でのトラブルでの殺人や、結婚生活での問題、学校での問題、パワハラやセクハラなどのハラスメントの問題、また、生きることの意味が分からない苦しみ、自分の力ではどうすることもできないことが山ほどあります。しかし、聖書は、そのような状況は本質的な問題の表面的な現れであって、本当に解決しなければならないのはその根底にある人間の罪であると教えています。罪とは、神から離れて自分が一番だと考える心です。自己中心です。罪を持っていると、私たちの行動や言葉にいろいろな形となって表れて、先ほど述べてような問題に私たちは直面します。罪は、かぜのウィルスのようなものです。体にウィルスが入ると、頭痛、発熱、鼻水、せきなどの症状が現れます。私たちは、かぜを引くと、体内に入ったウィルスよりも、自分の体に現れた症状のほうが気になるので、薬を飲んだりして、症状を抑えようとします。薬を飲むと熱が下がり、鼻水がとまって、症状が治まりますが、根本原因のウィルスがなくならない限り、また症状が出てきます。それと同じように、人間の外に現れる行いや言葉だけを抑え込んでも、罪の性質が解決されなければ、私たちは同じことを繰り返すのです。主イエスは、私たちの心の根本問題である、罪の結果受けなければならない裁きから、また、罪の支配力から私たちを救い出すために来てくださったのです。
 み使いは「この方こそ主キリストです。」と言いました。キリストとは、マリヤによって生まれた赤ちゃんに与えられたタイトルです。旧約聖書の言葉へブル語では「メシア」と言います。どちらも、「油注がれた者」という意味の言葉で、非常に高い地位についている尊敬されるべき方につけられるタイトルです。当時のユダヤ人社会では、国を支配する王様、神のメッセージを人々に伝える預言者、そして、人と神との仲介者として働いていたユダヤ教の祭司たちが任命された人々に、任命のしるしとして頭に油が注がれたことからこの言葉が使われています。この赤ちゃんは、私たちにとって、永遠に支配する王であり、神の言葉を私たちに伝える預言者であり、また、神と私たちの間を取り持ってくださる仲介者として働く祭司のような、非常に高い地位につくべきお方です。ところが、そのような高い地位におられるお方が「布にくるまって飼葉桶に寝ている」というのです。油注がれた方は、豪華な宮殿の宝石で飾られたゆりかごに入れられるのが普通です。そのような赤ちゃんが救い主のしるしとしてはふさわしいと思われるのですが、そうではなく、布にくるまって飼葉桶に眠っている赤ちゃんがしるしだとみ使いは言いました。当時のユダヤ人は、どんなに貧しくても、飼葉桶に生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせることはありませんでした。非常に高い地位につくべきお方がこのような哀れな状況の中で生まれてくださったことは、本当に不思議であり驚きです。この赤ちゃんが本来のあるべき姿とは全く異なる姿で生まれてくださったことをはっきりと示しています。第2コリント8章9節に次のような言葉があります。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」主イエスはこの世での働きを終えて天に戻られる時に「わたしは天と地において一切の権威が与えられている。」と言われました。そのお方が、家畜小屋の飼葉桶の中で、牛や馬の糞のにおいの漂う中で、極限の貧しい状態で横たわっておられます。そして、神の子として人々を教え、人々の病気を癒し、いろいろな意味で囚われていた人々を自由にし、最後には、私たちの身代わりになって罪の罰を受けるために十字架で死刑囚として死んでくださった方、これが救い主として私たちに与えられたしるしでした。その目的は何だったのでしょうか。わたしたちがキリストの貧しさによって富む者となるためです。「私たちが富む者となる」という言葉は、裏を返せば、私たちはキリストに出会うまでは貧しい者だということを表しています。

 昔のペルシャにこんな王様がいたそうです。ある日、この国王は普通の人の姿に変装して町に行きました。人々がどんな暮らしをしているか心配だったからです。彼は、風呂屋で働く男と知り合いました。彼の隣に座ると、その男は自分の貧しい弁当と水を分けてくれました。その後、国王は変装して何度もその男に会いに行きました。その男はいつも彼によくしてくれ、心を開いていろいろな話をするようになり、彼もその男にいろいろと親切にアドバイスをするようになりました。やがて国王は変装し続けることが難しくなり、自分の正体を彼に打ち明けることにしました。そして、彼に何かプレゼントでほしいものはないかと尋ねました。すると、その男は何も言わず、じっと座ったままでした。王様は言いました。「私は国王なのだ。君に何でも与えることができる。君をこの町の支配者にすることもできるのだぞ。」すると、その男は答えました。「わかっています。でも、私の隣に座って、わたしの貧しい食事を一緒に食べてくれて、私のいろいろな悩みにも真剣に耳を傾けてくださった。わたしにはそれで充分です。王様はほかの人にはいろいろ高価なプレゼントを与えたでしょうが、私には王様自身を与えてくださったからです。私の願いは、これからもいつも王様とこのように一緒に時間を過ごすことができれば、他に何もいりません。」この物語の王様は、神の栄光を離れて私たちのところに来てくださった主イエスに似ていると思います。主イエスは、私たちを主イエスと共に生きることによって豊かな生活をする者になるようにと、ご自身を低くして、私たちのところに来てくだったのです。これこそが、民全体のための大きな喜びの知らせなのです。
 詩篇46篇1節に次のような言葉があります。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」私たちの助けはいつもすぐそばにあるとは限りません。むしろ遠く離れていたり、頼むことができなかったりします。しかし、私たちが困ったとき、神様は「そこにある助け」になってくださるかたです。「そこにある助け」と訳されている箇所は、英語ではvery presentとなっています。presentは「そこにおられる」で、それにvery「すごく」という言葉がついています。「すごくそこにおられる」とは変わった言い方ですが、主イエスは「インマヌエル」の神、私たちのすぐそばにいつもいることができるようにと、あらゆるものを捨ててこの世に来てくださった方です。私たちはトラブルに直面すると、しばらく我を忘れて正しい判断ができないことがあります。そんなときも、神様はすぐそばにおられます。そして、正しい判断ができない私たちを適切に助け導いてくださる方です。神は私たちの避け所、また力です。神とともに生きることが、私たちにとって一番頼りになるセキュリティなのです。

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