2020年4月5日 「キリストの死がもたらすもの」(マルコ15章:42-27節) | 説教      

2020年4月5日 「キリストの死がもたらすもの」(マルコ15章:42-27節)

 主イエスは、金曜日の午後3時に「完了した」という言葉と「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言葉を叫んで息を引き取られました。主イエスが言っておられたように、イエスの死はユダヤ人やローマ人によっていのちを奪われた死ではなく、みずから父なる神に霊をゆだねられた自発的な死でした。このイエスの死は人に大きな影響を与えるものでした。十字架の正面に立っていたローマ人の百人隊長に大きなインパクトを与えました。彼は「本当にこの方は正しい人であった。」と言いましたが、イエスの死は、ユダヤ人以外の異邦人にも神の祝福が届くための扉を開くことになりました。

今日の箇所は、主イエスの十字架の死と三日後の復活という大きな出来事に挟まれた目立たない出来事のように思われますが、4つの福音書がすべてその様子を描いていることを見ても、イエスが埋葬されたという事実は非常に重要な出来事なのです。パウロが第1コリント15章で次のように言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたことです。」(3-4節)イエスの埋葬という出来事は、人間的にみると、イエスを愛する人がイエスの遺体を引き取って自分が用意していた墓に葬ったという、イエスへの愛と尊敬が感じられるごく普通の出来事のように思われます。しかし、実際には、この出来事は神様が、そこにかかわるあらゆる人々の心を動かして、神様が預言しておられたとおりに事が行われたのです。このように神様が人々の心を動かして、人間の思いを超えて神の預言が実現することを神の摂理と呼びますが、それは、言い換えれば、神様が、この世界の中のすべての人々とすべての出来事を支配しておられることを現わしていると思います。

 イエスが死んだのは金曜日の午後3時でした。ユダヤ人の考えでは一日は夕方から始まります。一般的に午後6時から一日がスタートします。次の土曜日はユダヤ人にとっては安息日です、この時の安息日は「過越しの祭り」がある特別な安息日でした。そんな特別な日に、十字架に死体がはりつけにされたままになっていることをユダヤ教の指導者たちは嫌がりました。そして、イエスが息を引き取った3時には、両隣にはりつけになった二人の強盗はまだ死んでいませんでした。このままぐずぐずしていると、6時までに3人の遺体を片付けることが難しくなります。それで、二人の強盗を早く死なせるために、彼らはピラトのところへ行って二人の脚の骨を折って二人を死なせ、早く死体を片付けたいと願い出ました。ヨハネの福音書19章31節にそのことが記されています。「その日は備えの日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り下ろしてほしいとピラトに願い出た。」十字架につけられた人は、体の重みで体が下がるため、横隔膜が圧迫して息ができなくなります。それで、足をふんばって少し体を持ち上げて息をするのですが、脛の骨をおられると体を持ち上げることができないので、呼吸ができなくなり、すぐに死んでしまうのです。ユダヤ人たちは日没の時間が迫っていたので、かなり焦っていました。それで、ピラトはローマの兵士に命令を出して、3人の脚の骨を折らせました。ローマの兵士は二人の強盗の脚の骨は折ったのですが、イエスに近づくとすでに死んでいたので、兵士はイエスの脚の骨は折りませんでした。実は、この出来事は詩篇の34篇20節に預言されていました。「主(なる神)は彼(イエス)の骨をことごとく守り、その一つさえ、折られることはない。」ローマの兵士には特別な考えはありませんでした。ただ、イエスがすでに死んでいたので、イエスの脚の骨を折らなかっただけなのですが、そこにも神の摂理が働いて、預言を成就することになりました。主イエスは「世の人々の罪を取り除く小羊」と呼ばれますが、実は、過越しの祭りの時に食べる羊は、その骨を折ってはならないという教えがあったのです。(出エジプト12章46節)骨が折られなかった過越しの羊が、モーセの時代のユダヤ人のいのちを死から守ったように、世の罪を取り除いて私たちを永遠の滅びから守る神の小羊の脚の骨も折られませんでした。このような小さなことの中にも神様の働きがあったのです。

 ユダヤ教の指導者たちは、イエスと二人の強盗の死体を十字架から取り下ろすと、エルサレムの町の南側にあったゴミ捨て場の谷の中に投げ捨てようと考えていました。犯罪者の遺体は、いつも、そのような見るに堪えない墓場の谷に捨てられていたのです。そのような状況の中で、神様は、一人の人の心の中に働きかけました。それが、国会議員のアリマタヤのヨセフでした。アリマタヤというのは彼の出身地の名前です。この人物はここにしか登場しないので、彼が国会議員であること以外は詳しいことは分かりません。マルコの15章43節に、ヨセフは有力な議員であったと書かれています。彼はサンヘドリンと呼ばれた70人からなる国会議員の一人でした。つまり、彼は不当な裁判でイエスを十字架による死刑を宣告した国会のメンバーの一人だったのです。ただ、ルカの福音書の記事によると、彼は善良で正しい人であり、神の国を待ち望んでいたので、他の議員たちの計画や行動には同意していませんでした。(23章50-51節)彼は、国会議員の一人でしたが、神の国を待ち望んでいました。つまり、彼はイエスを救い主と信じていたのです。ただ、そのことを彼は他のメンバーには隠していました。イエスが大祭司の家で裁判を受けたとき、アリマタヤのヨセフは欠席していたと思われます。彼は主イエスを救い主と信じていたので、主イエスが日曜日にロバに乗ってエルサレムに入られた時は、大きな喜びと将来に対して大きな希望を感じていたことでしょう。しかし、主イエスが十字架刑を言い渡されたことで、彼は大きな失望と悲しみを感じました。ただ、イエスの弟子たちはヨハネ以外誰も十字架の近くにいませんでしたが、ヨセフは、十字架の近くに立っていました。それだけではありません。43節を見ると、彼は勇気を出してピラトのところへ行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出ました。イエスのからだの下げ渡しを願い出ることは、ユダヤの国会とは反対の姿勢を見せることになり、結果的に、国会議員を辞めなければなりません。これまではイエスを救い主と信じる自分の信仰を周囲の人に隠していましたが、主イエスが十字架で限りない愛を示し、自分たちの代わりに苦しみを受けられたことを理解したヨセフは、もうこれ以上信仰を隠すことができなくなりました。それで、彼はピラトにイエスの遺体の下げわたしを願い出たのです。人間的に見ると、ヨセフは、主イエスに対する信仰と尊敬の気持ちのゆえに、主イエスの遺体が犯罪者のように谷に投げ込まれないように、自分が引き取ったと思われます。彼は、実際に、そのような気持ちで行動したことでしょう。しかし、彼の行動は、旧約聖書の預言を成就することになりました。旧約聖書のイザヤ書53章9節に次のような言葉が書かれています。「彼の墓は悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。」このイザヤの預言の意味は旧約聖書の時代の人々は知りませんでした。しかし、新約聖書の時代を生きる私たちは、このことも、神様がヨセフの心に働いた神の摂理であったことを知っています。

 46節を読みましょう。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って作った墓に収めた。そして、墓の入口には石をころがしておいた。」マルコの福音書には書かれていませんが、この時、同じ国会議員のニコデモが彼を手伝いにやって来ました。ニコデモは、以前、夜にイエスを訪ねて信仰の質問をしたヨセフと同じ国会議員です。その時は、彼はまだイエスをはっきりと信じてはいなかったと思いますが、後にイエスを救い主と信じるようになっていました。ただ、彼も自分の信仰を他の人には隠していましたが、今は、ニコデモも自分の信仰を隠さずに行動しました。二人で、遺体の処置をし終えると、イエスの体は、岩を掘って造られたヨセフの新しい墓の中に埋葬されました。そして、墓泥棒にイエスの遺体を盗まれないように、墓の入口は大きな石でふさがれました。イエスの遺体がヨセフの新しい墓に収められる様子を近くで見ていた女性がいました。マグダラのマリヤとイエスの母マリヤでした。

 この金曜日の夕方、イエスを救い主と信じていた人々は大きな失望と悲しみを感じていたことでしょう。アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、マグダラのマリヤ、そしてイエスの母マリヤ。彼らは十字架にくぎ付けにされて苦しむイエスの様子を本当につらい心で見ていました。しかし、彼らは勇気をもって、イエスに敵対する人々の中で、イエスのそばから離れませんでした。ヨセフもニコデモも、十字架のイエスの姿を見て、自分の信仰を隠すのを辞める勇気を持ちました。イエスの母マリヤは、イエスが生まれた後神殿に言った時に、シメオンという老人から言われた言葉を思い出していました。「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。」しかし、マリヤも勇気をもって、イエスを最後まで見守りました。イエスによって悪霊から解放されたマグダラのマリヤも非常に失望していたはずです。太陽が沈んで、安息日の土曜日が始まりました。彼らはどんな気持ちでこの土曜日を過ごしたでしょうか。十字架のそばにはいませんでしたが、イエスを3回否定したペテロはどんな気持ちで土曜日を過ごしたでしょうか。彼らは、まだ次の日にイエスが復活することを知らないのです。次の日に大きな喜びを経験することを知らずに、土曜日を過ごしていました。現在の、私たちも、彼らと同じように、人生の大きな困難と苦しみの中で、土曜日を過ごしているのではないでしょうか。土曜日は失望と悲しみの一日でした。しかし、土曜日の次には日曜日がやって来ます。私たちも、今は土曜日のような日々を経験していますが、私たちの人生は土曜日で終わるのではありません。必ず日曜日が来ます。イエスが復活する日が来るのです。パウロも第1コリント15章の最後のところで次のように述べています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」主イエスの力とみ言葉の約束にしっかりと立って歩み続けましょう。

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