2020年4月12日 『キリストの墓は空だった』 (マルコ16章1-8節) | 説教      

2020年4月12日 『キリストの墓は空だった』 (マルコ16章1-8節)

皆さん、イースターおめでとうございます。クリスチャンにとってイースターはクリスマスよりも大切な日ですが、今年は、コロナウィルスの感染のために、教会で皆集まって共にイースターの礼拝ができないことは本当に残念です。

 イエスが死者の中から復活したという話を聞いただけで、多くの人は聖書は非科学的だから信じられないと言います。しかし、それは科学が今と比べると全く発達していなかった2000年前の主イエスの時代も同じで、当時の人々もイエスの復活を信じられませんでした。主イエスの12弟子は、主イエスから何度も繰り返して、十字架で死んだ後に三日目に復活することを直接聞いていたにも関わらず、誰一人本気でそのことを信じてはいませんでした。後に、使徒パウロがギリシャのアテネで、集まっていろいろな議論をするのが好きなギリシャ人に向かって主イエスの話をしていました。最初のうちは彼らも興味深そうに聞いていましたが、パウロが主イエスの復活の話をしたとたんに、彼らはパウロの話を聞くのをやめて立ち去って行きました。科学の発達には関係なく、主イエスの復活は信じがたい出来事ですが、復活はキリスト教の信仰にとって一番大切なものです。クリスチャンにとって、主イエスの復活こそが信仰の土台であり、将来に対する希望の土台です。今朝は、イエスの復活が私たちにはどのような意味があるのかを考えたいと思います。

 イエスの復活を単なる弟子たちの作り話だと考えている人も多いので、イエスの復活がなぜ、実際に起こった歴史的な出来事と言えるのかという点を先に考えたいと思います。 イエスの復活は歴史的な出来事なので、科学の実験のように、繰り返して同じ状況を造りだすことはできません。それで、歴史として起こった状況を調べることによって、その出来事が起こっただろうということを推測することができます。今日は、3つの点から考えたいと思います。第一は、第一発見者が女性たちであったという点です。1-2節に「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうを思い香油を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」と書かれています。当時のユダヤ社会では、女性の証言は認められていませんでした。裁判でも女性の証言は受け入れられませんでした。もし、誰からがイエスの復活の物語をでっち上げたとしたら、その信憑性を高めるためにも、決して女性を第一発見者にすることはなかったでしょう。女性がいくらイエスの復活を主張しても、だれも認めなかったからです。第二の点はイエスの墓が空っぽであったという点です。そして、そのことを、ユダヤ教の指導者たちも誰一人反論していませんし、否定もしていません。それどころか、ユダヤ教の指導者たちはローマ総督ピラトにお願いして、墓の前に24時間見張りをするローマの兵士を置くようにお願いに行っています。これはマタイの福音書27章の62節以下に書かれています。ピラトに要請した理由は、彼らは、イエスが生きていた時に「わたしは三日後によみがえる」と言っていたことを知っていて、もし誰かがイエスの遺体を盗み出して、「本当にイエスは復活した」と言いふらすと大変なことになると思ったからです。それで、墓の前にはローマ兵が24時間見張っており、墓をふさいでいた岩は封印されました。ただし、仮に、弟子たちがイエスの遺体を盗みに行っても、強力なローマの番兵たちが見張っていますから、武器も持たない彼らにイエスの遺体を盗み出すことなど不可能です。例え、彼らがイエスの遺体を盗み出すことに成功したとしても、ピラトとユダヤ教の指導者たちがローマ兵とともに必死になって遺体を探せばすぐに見つかるはずです。しかし、イエスの墓が空であったという事実は変わらず、また、誰一人、イエスの遺体を見つけ出すこともできませんでした。第三の点は、弟子たちの変化です。イエスの弟子は復活を信じていませんでした。それで、彼らの多くはイエスが十字架にかかったことで失望していました。彼らはユダヤ人たちを恐れて隠れて集まっていました。イエスの弟子たちは、口では「主のためなら死ぬ覚悟はできています。」と言っていましたが、実際には、自分の身を守ることに必死だったのです。そんな弟子たちが、主イエスが生きていた時に「死んで三日後に復活する」と言っていたことを表面的に実現させるために、わざわざ危険を冒してイエスの遺体を盗み出し、うそと分かっていながら「主は復活した」と人々に語るでしょうか。そんな話はだれも信じないですし、彼らにとって何の得にもなりません。しかし、実際には、彼らはイエスの復活を目撃し、その後聖霊を受けたことによって、彼らの生き方がすっかり変わりました。ユダヤ人たちを恐れて隠れていた彼らが、大胆にイエスの十字架と復活を人々に語りだしたのです。そして、弟子たちは皆、そのために迫害を受け、そして、多くの者がそのために命を落としました。人間は、そんな嘘のためにいのちをかけることができるでしょうか。しかし、弟子たちは「死んだイエスが復活した」という教えにいのちをかけて戦ったのです。そして、歴史が彼らの働きによって大きく動いて行きました。当時絶大な権力を誇ったローマ帝国は300年近くキリスト教を撲滅するために、何度も何度もクリスチャンを迫害しました。しかし、結局最終的に、ローマ帝国はキリスト教に支配されたのです。 イエスの十字架と復活の信仰が当時の世界全体ともいえるローマ帝国さえも支配することになるとは本当に不思議です。そのような歴史の流れを見ただけでも、何かが起こったとしか考えられません。イエスの復活が起こらなかったら、世界の歴史は今のようにななっていなかったはずです。

 それでは、主イエスの復活は、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。第一に、主イエスは、イエス自身が主張しておられたとおりの本当に神であることが、復活によって証明されました。聖書の神は、私たち日本人が一般的に持っている神のイメージとはまったく違います。日本では「八百万の神」と言って、いろいろなものにいろいろな神の霊が宿っていると考え、大事なことはどこにでも神の霊があることを感じ取って謙遜に手を合わせることだと考えています。しかし、どう考えても世の中に八百万もの神がいれば、私たちの世界がこんなに調和がとれているはずがありません。どんな社会でもリーダーが二人いるだけで混乱します。主イエスは唯一の神であり、天と地とその中にあるすべてのものを造り、それをコントロールしておられる神なのです。世の中のいろいろなものにいろいろな霊が宿っているのではなく、神を信じる一人一人の心の中に、唯一の神の霊が宿るのです。クリスチャンにとって一番の特権は、一人で生きているのではなくこの神とともに、神に守られ導かれ教えられながら生きることができることです。

 第二に、イエスの復活は、イエスが、ご自分で言われたいたような力と権威を持っておられることを証明するものでもあります。主イエスが全能の神、オールマイティの神だからこそ、死にも打ち勝つことができました。どんな力もイエスを墓に閉じ込めておくことはできませんでした。復活のイエスを信じるクリスチャンには、毎日の生活の中で、このイエスの力が働くのです。たとえ、私たちがどんなに力の弱い者であっても、信じる者にはイエスの力が働くので、恐れる必要がありません。You Raise Me Upという歌があります。タイトルの意味は「あなたがわたしを高く上げてくれる」という意味です。この歌詞の「あなた」はまるでイエスを表しているように感じます。コーラスの部分の歌詞を訳すとこんな感じです。「あなたは私に力をくれる。だから山の頂にも達子尾ができる。あなたは私に力をくれる。だから、嵐の中でも歩くことができる。あなたの肩に寄りかかるとき、わたしは強くなれる。あなたは私に力をくれる。自分を超えるほどの力を。」主イエスの復活は、主イエスが私たちにそのような力を与えることできる方だということを証明するものなのです。
 
 第三に、主イエスの復活は、主が必ず約束したことを実現する方であることを証明するものです。主イエスは何度も繰り返して、「わたしは人々から嘲られ、唾をかけられ、鞭でうたれ、殺されます。しかし、わたしは三日後によみがえります。」と死んだ後復活することを約束しておられました。なぜなら、主イエスが十字架にかけられることは急に決まったことではなく、ユダヤ人たちの陰謀によって起こったことでもなく、永遠の昔から神ご自身が計画しておられたことだったからです。聖書の神は真実であると言われますが、真実とは、約束したことを必ず実行することを意味します。私たちも、いろいろな場面でいろいろな人々に約束をしますが、100%約束どおりに実行することは少ないです。しかし、主イエスの約束が実行されないことは決してありません。だから、私たちはイエスの約束を信頼することができるのです。 
 聖書の中には私たちのために様々な約束が記されていますが、特に大切なのは私たちの将来に関する約束です。その約束に関しては、ヨハネの福音書11章25-26節の言葉が有名です。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」キリストの復活によって、このイエスの約束は主イエスを信じる者にとって現実のものとなりました。私たちの体は、いつか死ぬときが来ます。しかし、人間には肉体とともに魂があります。主イエスを信じる者も肉体の死を避けることはできません。しかし、クリスチャンにとっては、肉体の死は自分の終わり、自分の消滅ではありません。その魂は、この世の痛みや悩み苦しみから完全に開放されて、新しい世界で、神とともに永遠に生きる者になるのです。主イエスの復活が実際に起こったからこそ、クリスチャンは永遠のいのちを確信して生きることができます。イエス・キリストを信じる者は、神と結び合わされているので、死さえも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。この約束がクリスチャンとして生きるうえでの最高の特権だと思います。

 第二次世界大戦の時代のドイツにボンヘッファーという牧師であり神学者である人がいました。彼はナチスに反対してヒットラーの暗殺計画に加わりますが失敗に終わり、強制収容所に入れられました。1945年4月8日の日曜日、彼は収容所の中で小さな礼拝をしていましたが、彼が祈り終わった時に、二人のナチスの兵士が入って来て、「囚人ボンヘッファー、ついて来い!」と大声で叫びました。死刑執行の時が来たのです。彼は仲間に別れを告げると短く言いました。「私にとっては、これは終わりではない。永遠のいのちの新しい始まりだよ。」彼も、主イエスの復活を信じる者だったのです。
あなたにとって、主イエスの復活はどんな意味がありますか?

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