2020年4月19日 『福音を宣べ伝えなさい』(マルコ16章9-20節) | 説教      

2020年4月19日 『福音を宣べ伝えなさい』(マルコ16章9-20節)

 2020年の世界の多くの場所でのイースター礼拝は、コロナウィルス感染のために、皆で教会に集まって主イエスの復活を祝うことはできませんでした。バチカンにおいても、ごくわずかの人々だけが集まって礼拝が捧げられていました。私たちの教会でも、いつものようなイースター礼拝はできませんでしたが、だからと言って、コロナウィルスによって主イエスの復活が取り消されたわけではありません。むしろ、このような時代だからこそ、私たちだけでなく、世界中の人々は、主イエスの復活にある希望を持つことが必要です。
 イギリスでは、今年93歳になるエリザベス女王が国民にビデオでイースターのメッセージを伝えました。その内容は次のようなものでした。「私たちがキャンドルの周りに集まるとき、私たちの心はそのキャンドルともしびによって一つにされます。イースターの前の土曜日、日が暮れると、多くのクリスチャンはろうそくを灯します。教会では、一人一人がろうそくを手にもって隣の人に灯を渡して行きます。そして教会全体が明るくなります。この光景は、キリストの復活の知らせが2000年前から今日まで語り告げられてきたことを表しています。ただ、今年のイースターは特別です。コロナウィルスの感染によって世界ですでに10万人以上の人が命を落としており、私たちは教会に集まってイースターを祝うことができなくなりました。今、私たちが安全を確保するためには、互いの間に一定の距離を開けなければなりません。しかし、イースター自体が取りやめになったわけではありません。実際には、今日ほど、イースターのメッセージが必要な時代はありません。最初のイースターの朝、主イエスの復活を知った人々は、新しい希望と新しい使命を持ちました。そのことを思う時、私たちは勇気が与えられます。私たちがコロナウィルスに打ち負かされることはありません。たとえ、死の恐れが暗闇のように私たちの心を覆ったとしても、私たちには暗闇に打ち勝った光といのちである主イエスがおられます。イースターの希望という生きたともしびが、私たちの将来を導く確かな光であり続けますようお祈りしています。」エリザベス女王が言われたように、今のような時代ほど主イエスの復活の希望のメッセージが、今現在、苦しみや悲しみに襲われている人々に必要な時代はこれまでなかったのではないでしょうか。私たちは、今、困難の中にある人々、感染した人々、最前線でぎりぎりの状態で働いておられる医療関係者の方々のため、行政機関で働いておられる方々のために、覚えて祈ることが必要です。

 今日は、マルコの福音書の最後の部分を読みます。印刷機が15世紀に発明されるまで、聖書はすべて人間の手による写本でした。実は、この16章の9節から20節までは、多くの写本には書かれておらず、信頼度の高い写本は8節で終わっているものが多いのです。「彼女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」8節が語っているのは、十字架から三日目の日曜日の朝、イエスの墓に行った女たちが、イエスの墓が空っぽであることを発見し、そして、イエスの墓で、み使いから主イエスが復活したことを教えられたので、弟子たちのところへ知らせに行くところを描いている言葉です。この時、彼女たちはみ使いを見たので、気が動転して恐ろしかったため、、何も言わずに弟子たちのところへ走って行っていきました。福音書の終わりとしては、突然終わってしまった感じがしますし、女性たちが恐怖に襲われている姿は、主イエスの復活が私たちに与える希望を表していないように思えます。実際には、彼女たちは、怖い気持ちもありましたが、み使いから主イエスが死からよみがえったという知らせを聞いたので、心は喜びで胸いっぱいで、何とか早く弟子たちに知らせようと彼らのところへ走って行ったのです。マタイの福音書の28章8節には次のように記されています。「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」ただ、マルコの福音書を読むと、彼女たちはただ恐怖に襲われているだけのように感じるので、初代教会の人たちが、マルコの福音書が他の福音書と同じ終わり方になるように、9節から20節を書き加えたものだと考えられています。そのために、聖書をよく見ると、9節から20節までは『』の中に入れられています。そして、私たちが使っている新改訳聖書の脚注には、「9節から20節までを加える写本は多いが、重要な写本にはこの部分は欠けている」と説明が記されています。じゃあ、この部分は、後から勝手に書き加えたいい加減なものかと言うと、そうではありません。その内容を見ると、他の福音書に詳しく記されている出来事を短くまとめたものが中心であり、また、新約聖書全体の教えにも一致しています。
 ここで、少しだけ写本のことについて話させてください。聖書のことをよく知らない人々の中に、聖書は本当に2000年前に書かれたのかと疑う人がいます。。後の時代の人が書いたのではないかと考える人もいます。しかし、聖書ほど時間を古い時代から数多くの写本が残されて来た書物は他にありません。例えば、新約聖書よりも少し古い書物として、ジュリアス・シーザーが書いた「ガリア戦記」と書物があります。誰もがこの書物はシーザーが書いたものだと認めています。もちろん、彼が書いたオリジナルは残っていません。一番古い写本は紀元1000年頃のものです。しかも、今残っている写本の数は世界中で10冊しかありません。それでも、ガリア戦記は2000年前に書かれた書物だと認められています。一方、新約聖書の写本の最も古いものは2世紀のものが残っています。それらの多くはパピルスに書かれたもので、聖書の一部を記した断片だけなのですが、新約聖書の完全な写本も数多く残っているのです。しかも、写本をしていた人々は神の言葉の写本なので非常に注意して書き写していましたので、小さな書き間違いはありますが、聖書の内容を変えてしまうほどの間違いはなく、ほぼ、今私たちが使っている聖書と同じ内容なのです。

(1)復活を信じられない人々
 今日の箇所は2つの部分に分けられると思います。1)9節から14節までと2)15節20節です。9節から14節までで強調されていることは、主を信じていた人々の主イエスの復活に対する不信仰です。9節から11節まではマグダラのマリヤとイエスを信じていた人々について書かれています。マグダラのマリヤはイースターの朝、イエスの墓に最初に行った人です。彼女はイエスによって7つの悪霊から解放してもらった人です。彼女の人生に主イエスが大きな奇跡の業を行ってくださったので、彼女は、その時からずっとイエスやイエスの弟子たちと一緒に行動していました。彼女はみ使いから主イエスが復活したことを聞いた後、ヨハネの福音書によれば、弟子たちのところへ行きました。したがって、16章10節に「イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いていた」と書かれているのは弟子たちのことです。この時、ペテロとヨハネはすぐに主イエスの墓に走って行きましたが、その他の弟子たちは主の復活を信じることができず、墓に行こうとしませんでした。彼らが行こうとしなかった理由の一つは、マグダラのマリヤが女性だったからです。先週お話ししたように、当時のユダヤ人社会では、女性の証言はまったく信用されていませんでした。続いて、12節から14節まで記事は、最初のイースターの午後から夜にかけての出来事です。詳しいことはルカの福音書に記されていますが、この午後、イエスの二人の弟子がイエスの復活を知らずにひどく落胆したまま、エルサレムからエマオという村に向かっていました。12節よると、その二人に主イエスは別の姿でご自身を表されました。二人はイエスだと気づかなかったのです。この二人はイエスと知らずに話を続けていましたが、彼らの心は不思議に燃えていました。それで、二人はイエスを家に招き、一緒に食事をしたのですが、その時、彼らの目が開けて、それがイエスだと分かりました。するとその途端イエスの姿が見えなくなりました。そこで、この二人は、大急ぎで、エルサレムに戻って、弟子たちが集まっている場所に行きました。この時も、集まっていた弟子たちの多くは二人の話をすぐには信じなかったようです。そうこうしているところに、主イエスが突然現れました。「平安があなたがたにあるように」と言われてから、主イエスは集まっていた人々にご自身の手とわき腹を見せられました。そこでようやく、弟子たちは、主イエスが本当に復活したということを信じたのです。このように、2000年前の人間にとっても、死んだ者が生き返るというのは信じがたいことでした。

(2)全世界に出て行きなさい。
 15節に「それから」と書かれています。いつの出来事でしょうか。イエスは死から復活されて40日間地上で過ごされましたが、その間のどこかでという意味です。マタイの福音書は、この15節の言葉で終わっています。復活の後、主イエスは、弟子たちにエルサレムを離れて、活動の中心地であったガリラヤに行くように命令されました。それは、イエスが十字架で死んだことで落ち込んでいた弟子たちの信仰を回復させるためでした。マタイの福音書28章の18節から20節を読みましょう。「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは言って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに銘じておいて、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』ここでは、主イエスは3つのことを教えておられます。一つは、主イエスは天でも地でもすべての権威が与えられているということです。主イエスは、自分が信頼できるリーダであることを弟子たちに宣言されたのです。今、コロナウィルス感染で非常事態になっていますが、こういう状況では、国のトップが正しいリーダーシップを発揮することがどうしても必要です。この時、主イエスは、落ち込んでいる弟子たちの信仰を回復するために、自分が彼らの信頼できるリーダーです。権威とは、実行する力を意味します。主は、弟子たちに「私を信頼しなさい。」と励まされました。ユダヤ人を恐れていた弟子たちにとって、このイエスの言葉はどれほど力強いものだったでしょう。第二に、主イエスは、弟子たちに新しい使命を与えられました。これは「大宣教命令」と呼ばれるものです。主は、彼らに、あらゆるところに出て行って、イエス・キリストこそが救い主であることを宣べ伝えて信仰に導くようにと命令しておられます。この命令は、12弟子だけに与えられたものではなく、すべての教会に与えられている命令です。私たちは、今、自粛要請中でいっしょに集まって礼拝することもできない状況ですが、まもなく、また教会に一緒に集まって礼拝できる日が来ます。ただ、私たちの教会の使命は、礼拝することだけではありません。近所に住む人々をはじめとして、すべての人々に主イエスの十字架と復活を宣べ伝えて信仰に導くことが教会の最も大切な使命であり、この地に私たちの教会が建てられている意味なのです。「全世界」とは、地球上のすべての場所を意味しますが、ある人にとっては外国でしょうし、ある人にとっては自分のいる場所がその世界です。近くか遠くかは関係ありません。すべてのクリスチャンは、自分の周りの人々に主イエスのことを宣べ伝えるようにと主からの命令を受けているのです。人が死ぬ前に残す遺言には重みがあります。主イエスも、この命令を私たちに対する最後の言葉として語られました。だから、私たちはこの主イエスの命令を重く受け止めなければなりません。私たちは、新しい会堂の建築を目指していますが、新会堂は、私たちのための会堂というよりも、多くの人々に福音を宣べ伝えるための会堂であることを忘れてはなりません。私たちの教会が主イエスの大宣教命令に忠実に従う教会でありたいと思います。そして、3番目は主イエスの約束です。20節の最後に次のような言葉が記されています。。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」私たちは、主イエスから「全世界に出て行き、すべての人に福音を宣べ伝えなさい。」と命令されていますが、その命令は自分にはあまりにも大きくて、自分には無理だと考えてしまいがちです。主イエスは、そのような弱い私たちに素晴らしい約束の言葉を残してくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」復活の主イエスは、今も生きておられます。肉眼では見えませんが、主イエスは聖なる霊として私たちとともにおられます。私たちがどのような状況の中におかれても、たとえ大変な状況に陥ったとしても、ちょっと目をつぶって復活の主が自分とともにおられるということを意識してみましょう。天においても地においても一切の権威を持っておられる方があなたとともにおられるのです。そして、主はあなたを守り、あなたを助けてくださいます。私たちが信じている神は死んだ神ではありません。「主は今生きておられる」という賛美があります。その言葉を思い出しましょう。主は今、生きておられます。私たちのうちに生きておられます。だから、私たちは明日に立ち向かっていくことができるのです。

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