2020年4月26日 『キリストの復活の確かさ』(1コリント15章1-11) | 説教      

2020年4月26日 『キリストの復活の確かさ』(1コリント15章1-11)

 私たちの教会では、毎年4月後半の日曜日の午後に岡部霊園の教会納骨堂で、お墓の前の礼拝、墓前礼拝を行っています。今年も、今日4月26日に墓前礼拝を行う予定を立てていましたが、コロナウィルス感染拡大のために、取りやめになりました。残念ですが、11月の墓前礼拝を待ち望みたいと思います。私たちの教会の納骨堂には、私たちの信仰の先輩の方々の遺骨が納められています。納骨堂に収められているのは、それぞれの方がこの世に残された遺骨となった体ですが、それらの方々の見えないいのちである魂は、今は、聖書の約束に従って、神様のおられる場所に移されています。多くの日本人はお墓を守るということを非常に重要なことと考えます。しかし、私たちにとって大切なのは、死ぬときにこの世に残していく遺骨よりも、死んだ後も生き続ける魂のいのちです。私たちが墓前礼拝を行うのは、遺骨のためではなく、それぞれの信仰者の目に見えない命が神のもとに移されて永遠の休息に入れられていることを再確認するためです。私たちが永遠のいのちの希望を持つことができる土台は、イエス・キリストの復活です。主イエスは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」主イエスが、この言葉のとおりに復活されたからこそ、この主の約束が真実なものであることが証明されました。イエスを信じる者は死んでも生きる、これがクリスチャンの信仰であり、生きる力の秘訣だと思います。誰もが自分の人生には終わりが来ることを知っていますが、そのことについて考えたり、準備をする人はあまり多くありません。考えるのを避ける人もいます。しかし、クリスチャンにとって、死ぬことは、忌むべきことでもなく、塩をまいて清めなければならないような汚れたことでもありません。クリスチャンにとって肉体の死は、この世の生活を終えて新しい場所での新しい生活に向かって出発することなのです。
 今日読みましたコリント人への第一の手紙は、パウロによって建てられた教会の一つで、ギリシャのコリントという大都市にありました。15章は復活の章と呼ばれていて、この1つの章の中に、主イエスの復活について、たくさんのことが教えられています。なぜ、パウロがこの教会に書き送った手紙の中で主イエスの復活について語ったかというと、コリント教会のメンバーの中に、主イエスの復活を信じないと主張する人たちが現れたからでした。2000年前の人間にとっても、イエスの復活は信じがたいことだったからです。そのような状況に置かれていた教会にパウロが書いた手紙の中から、主イエスの復活についてもう一度考えたいと思います。

(1)福音の宣言(1-2節)
 1節を読みましょう。「兄弟たち。私があなたがたにの宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。」コリント教会があったコリントという町は当時、エジプトのアレキサンドリア、現在のトルコにあったエペソに次ぐ大都会で、当時のギリシャ(アカヤ地方)の首都でした。パウロは2回目の伝道旅行の時にコリントを初めて訪れ、ここに1年半滞在して伝道活動と教会の建て上げに励みました。パウロがコリントを訪れたのは紀元50年ごろ、つまり、主イエスの十字架と復活から約20年後のことです。パウロの働きによって大きな教会が立ち上がったのですが、教会の中に様々な問題が生じたため、パウロは教会宛に手紙を書かなければならなくなりました。その問題の一つが、主イエスの復活信仰に対する批判でした。教会の大部分の人は、パウロから主イエスの十字架と復活の福音を聞いて、主イエスを救い主と信じていました。ただ、教会の中には、未信者の人も多くいましたし、ふらふらした信仰の人もいたでしょう。また、中には教会をかき回すために忍び込んでいた人々もいたようです。そこで、パウロは彼らにもう一度彼らの信仰を確認させる必要がありました。特に、彼らに主の復活が彼らの信仰に絶対に必要な土台であることを知らせる必要がありました。パウロは、コリントのクリスチャンたちに「兄弟たち」と呼び掛けています。コリントにはあからさまにパウロに逆らう人たちもいましたが、それでもパウロは彼らに大きな愛を表しています。パウロがここで言おうとしていることは、決してコリント教会のメンバーにとって新しい教えではなく、パウロが初めてコリントに来た時に、彼らに語った福音であり、彼らが信じたのも、そのパウロが語った福音であったことを彼らに思い出させています。
 2節を読みましょう「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことばは無駄になってしまいます。」この節は以前の新改訳では「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と訳されています。パウロは、コリントに来て人々に福音を述べ伝えましたが、パウロがここで言っているのは、コリント教会の人が福音の内容をしっかり覚えているなら、福音の内容を理解しないままで信じているのでないなら、その信仰によって罪の裁きから救われて、永遠のいのちが与えられているのだと断言しています。このように、キリスト教の信仰では何を信じているのかが信仰の土台です。当然、そこには主イエスの復活も含まれます。日本人は、どちらかと言うと、何を信じているかということよりも、信仰する心を大切にしています。多くの人は「私は仏教徒です」と言いますが、仏教の教えや、お経の内容を本当に理解している人は少ないと思います。荘厳な雰囲気の中で荘厳な雰囲気で語られる言葉や読まれるお経の言葉の中に非常にありがたいものを感じるのです。しかし、聖書は、何を信じるのかが大切であると教えています。ある人が、信仰は正しい時間を知ることと同じであると言いました。私たちが正しい時間を知るためには二つのことが必要です。一つは正しい時間を指している時計を見ることであり、もう一つは、その時計が示す時間は正しいと信じる心です。私たちが時間を見るときに時計を見ます。私たちの教会にもたくさん時計がありますが、微妙に時間が違います。2分早いもの、1分遅れているものなど、いろいろあります。正確に正しい時間を指している時計を選ばなければなりません。そして、正しい時計を選んだなら、それが正しい時間を指していると信じなければなりません。私は、アメリカ留学の帰りに少しアメリカをドライブしました。ある時、ユタ州からアリゾナ州に入りました。アメリカには4つの時間のゾーンがありますが、この二つの州は同じゾーンに属しています。ところが、アリゾナ州のホテルに入ると時間が1時間遅れているのです。私は、その時計を見てホテルの時計が1時間遅れていると思いました。ところが、実際には、その時間は正しかったのです。それはアリゾナ州がサマータイムを導入していないために実際にアリゾナの時間はユタ州よりも1時間遅れていたのです。私は、ホテルのロビーで見たその時計が間違っているのだと思い込んだために、ちょっとした失敗をしてしまったことを覚えています。これと同じように、私たちは、何を信じているのかということをいい加減にして信仰を持つことはできません。

(2)福音の定義
 3節と4節を読みましょう。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたことです。」ここには、パウロが人々に伝えていた福音の最も重要なものが語られています。ここでパウロが言っているように、この福音とは、パウロが考え出したものではなく、パウロ自身も信仰を持った時に聞いた福音です。おそらく、この箇所は、初代教会が礼拝の中で信者たちが告白していた信仰告白だと思います。今、私たちの教会では、礼拝の中で使徒信条というのを告白していますが、その原型になったものです。当時はまだ新約聖書がなかったので、初代教会の礼拝では、このような信仰告白をして主イエスの教えや働きを思い出して礼拝をしていました。福音の定義と言える、3節と4節が強調しているのは、主イエスの十字架と復活はすべて旧約聖書に預言されていたことで、その預言が主イエスによって成就したということです。3節でパウロは、「聖書に書いてあるとおりに」と述べています。パウロは、主イエスが聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死なれたと言っています。旧約聖書の中で主イエスの十字架を預言している箇所は数多くありますが、最も有名な箇所はイザヤ書の53節です。そこには、主イエスが犯罪者とともに十字架に掛けられること、裕福な者の墓に埋葬されることなど、細かな預言がされている驚くべき章です。では、聖書の中に主イエスの三日目の復活を預言している箇所があるでしょうか。これは、主イエスご自身が引用されている箇所があります。マタイの福音書12章40節を読みましょう。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」ヨナというのは旧約聖書の預言者の一人で、神様からの命令に背いたときに、彼は海に落とされて、大きな魚に飲み込まれてしまいました。しかし、魚のおなかの中で悔い改めたヨナを神様は助けてくださり、三日目に魚がヨナを吐き出したという出来事がありました。主イエスご自身は、この出来事を自分の十字架と復活を示すものだと教えておられます。また、パウロは、主イエスの復活を、旧約聖書時代に人々が捧げていた穀物の捧げものの初穂に例えています。当時、イスラエルの民は、その年に取れる麦の最初の収穫物を神に捧げていました。初穂とは、初穂に続いてその年に取れるすべての収穫物の代表として捧げられたものでした。主イエスが私たちの初穂として復活されたというのは、言い換えれば、主イエスを信じる者は、主イエスと同じように復活するという約束として主イエスが最初に復活されたということです。クリスチャンは、初穂として復活された主イエスと同じように、死んでも復活するといる約束です。いずれにおしせよ、主イエスの十字架と復活が、私たちが信じている福音の中心です。
 そして、この福音はパウロ自身が特別な体験を通して信じるようになったものでもあります。パウロは、元々、熱狂的なユダヤ教徒で、クリスチャンを邪悪な宗教の信徒と思い込んで、クリスチャンを激しく迫害していた人物でした。しかし、そのようなパウロに復活の主イエスが特別な姿で現れたおかげで、パウロはクリスチャンになることができました。この手紙を書いたパウロ自身が、復活の主イエスと特別なかたちで出会って、その結果、コリント教会に福音を宣べ伝える者になったのです。パウロにとっては、大変な体験でした。クリスチャンからは彼の回心が本物なのかどうか疑われましたし、ユダヤ教側にとっては彼は大きな裏切り者ですので、激しい攻撃が始まったからです。しかし、彼は、この経験を、神様の特別な恵みととらえていました。パウロ自身言っているように、その神の恵みはむだではありませんでした。なぜなら、パウロは、他の誰よりも多く旅をして、他の誰よりも多くの人々に主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えたからです。彼は決して、自慢してこの話をしているのではありません。彼は、自分の力でこのような働きができたとはまったく考えていません。すべては神様の恵みであると言っています。彼は、自分の過去の過ちを取り戻すためにも、様々な困難を通りながら、3回の伝道旅行をとおして、ローマ帝国各地に数多くの教会、信者たちの群れを築きました。彼の働きがなかったなら、キリスト教は世界的な宗教になることはなかったでしょう。彼は、コリントという不道徳な街に主イエスを信じる人々の教会が誕生したことを誇りに思い、そして、彼らが主イエスの十字架と復活に基づく健全な信仰をしっかり持ち続けることをただ願っているのです。

 最後に、一つのお話をします。元イギリス首相のウィンストン・チャーチルは、イエス・キリストの復活を信じるクリスチャンでした。それで、彼は、死ぬ前から自分の葬式についてプログラムをきちんと考えていました。彼は、自分の葬式にちょっと特別なものを用意していたのです。彼の葬儀はロンドンの立派なドーム屋根を持つセントポール寺院で行われました。厳粛な葬儀が行われたのですが、葬儀の最後に司式者が祝福の祈りを終えた後に、彼はサプライズを用意していたのです。それは、セントポール寺院の高く立派なドームに二人の軍隊のラッパ奏者を配置して、一人がまずベッドに入るときに鳴らす「就寝ラッパ」を吹き、その後もう一人が目覚めの合図の「起床ラッパ」を吹き鳴らしたのです。チャーチルがこれを考えたのは、主の復活を信じる彼にとって、死はこの世で眠りにつく時であり、そして、あの世で目を覚ますときだと考えていたからです。一日の働きを終えて眠りにつくのは、非常に心地よいものです。チャーチルは、死をそのように捉えていました。すべてのクリスチャンにとっても同じです。肉体の死は、この世での働きを終えて眠りにつくようなものです。寝ることが心地よいのは、翌日リフレッシュして目覚めることを知っているからです。私たちは、この世の眠りについた後、完全にリフレッシュして、神のおられるところで目を覚ますことを知っています。それなら、私たちは何も死を恐れる必要がなく、死は、むしろ、大きな楽しみを抱かせるものと言えます。私たちも、復活の主への信仰を握りしめて、堅くたって動かされない人生を歩み続けましょう。

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