2020年5月3日 『一人を大切に見るイエス』(ヨハネの福音書4章1-9節) | 説教      

2020年5月3日 『一人を大切に見るイエス』(ヨハネの福音書4章1-9節)

 3月から、受難週とイースターを迎えることで、マルコの福音書から主イエスの十字架と復活について語って来ましたが、今日から、再びヨハネの福音書に戻ります。今日は4章の1節から9節までを読みます。礼拝ではヨハネの福音書を3章まで読みましたが、3章までに描かれているのは、主イエスが神の子としての働きを始めた初期のころの出来事です。その頃、すでに多くの人が主イエスを救い主と信じるようになっていました。それが原因で、ユダヤ教の主流派であったパリサイ人たちは主イエスに反対するようになっていました。それは、主イエスの教えや奇跡によって人々が主イエスを救い主と信じるようになっていたからです。それまで、自分たちの教えを聞いていた人たちがイエスについて行くのを見て、ユダヤ教の指導者たちは主イエスに対して強いねたみと憎しみを抱くようになっていました。また、主イエスはパリサイ人たちの偽善者的な行動を厳しく批判していたことも彼らを怒らせていました。それが4章1節に書かれている言葉の意味です。「パリサイ人たちは、イエスが(バプテスマの)ヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを預けていると伝え聞いた。」このヨハネはバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネ自身は、イエスを救い主と認めていたので、が自分よりも主イエスに従っている人の数が増えていることに対して、イエスを妬む思いはまったくありませんでした。従って、イエスとバプテスマのヨハネの間には特別にトラブルはありませんでした。しかし、パリサイ人たちはイエスを救い主と認めていなかったので、イエスの人気が高まるにつれてますます、イエスに対する妬みと怒りを強めていました。主イエスは、神の子としての働きを始めて間もない時期であったので、パリサイ人たちとの無意味な衝突を避けるために、ユダヤを離れてガリラヤに行くことにしました。今は、彼らと論争をしている時ではなかったのです。それで、主イエスは自分の地元であるガリラヤ地方へ行くことを決心されました。

(1)サマリヤを通って行かなければならなかった。
3,4節を読みましょう。「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」主イエスの活動の中心はイスラエル北部のガリラヤ地方でした。しかし、祭りがある時は都のエルサレムに来られました。主イエスは、3年あまりの活動の期間、何度か、エルサレムのあるユダヤ地方と北のガリラヤ地方を何度も往復しておられます。イスラエルの地図を見るとわかりますが、ユダヤ地方のすぐ北側にはサマリヤ地方があり、サマリヤ地方の北にガリラヤ地方がありました。距離としては120キロぐらいです。4節に「サマリヤ地方を通って行かなければならなかった」と書かれていますが、エルサレムからガリラヤ地方に行くには、サマリヤ地方を通るのが最短ルートなので、その道を通るのが自然です。それなのに、「サマリヤ地方を通って行かなければならなかった」と書かれているのは、普段はそこは通らないのだが、今日はあえて何らかの理由でその道を通らなければならなかった」という意味になります。なぜ、このような書き方をしているのでしょうか。それは、ユダヤ人とサマリヤ人の間の関係が非常に悪かったことが原因です。これには歴史的な理由があるのですが、サマリヤ人とは、イスラエル民族と外国人との血が混じったいわばハーフの人々でした。ユダヤ人というのはアブラハムの時代からずっとイスラエル民族の血を守ってきた人々で、そのことを非常に誇りにしていました。もともとイスラエルの民は自分たちは神から選ばれた特別な民であるという誇りがありましたので、外国人を非常に低く見ていました。その外国人の血が混じったサマリヤ人をユダヤ人はひどく軽蔑していました。ユダヤ人にとってはサマリヤ人は罪人と同じという気持ちを持っていました。ですから、ある時、主イエスがユダヤ教の人たちから嘲りの言葉を投げかけられるのですが、その時、彼らは主イエスに向かって「あなたはサマリヤ人で悪霊につかれている。」と言っているほどです。(ヨハネ8章48節)そのような歴史的背景があるので、ユダヤ人がガリラヤ地方に行くときは、わざわざ遠回りをして、西の海岸線を通っていくか、あるいは、ヨルダン川を渡ってぺレア地方を通り、そしてもう一度ヨルダン川を渡ってガリラヤに行くという非常に面倒くさい方法をとっていました。それほどに、ユダヤ人とサマリヤ人とは中が悪くて、言葉を交わすこともありませんでした。
 この日、主イエスはどうしてもサマリヤを通らなければならない理由がありました。それは、一人の人と出会わなければならなかったからです。言い換えれば、サマリヤを通って、そこで一人の人と出会うことが神の計画であり神の御心であったのです。そこで出会うのは一人のサマリヤ人の女性でした。当時のユダヤ人にとって、サマリア人の女性はまともな人間と認めていなかったので、そんな女性にわざわざ会いに行くような人はいません。誰もそんな人のことを気に掛けません。しかし、主イエスは、その日、そのサマリアの女性のために自分の時間と労力をささげられました。主イエスが多くの人々の病気を癒されましたが、ほとんどの場合、大勢の人をまとめて癒すことはなく、一人の人に目を留めて、その一人の人のために奇跡を行われました。例えば、ヨハネの5章に出てきますが、エルサレムのベテスダと呼ばれた池の周りにはいつも大勢の病人が集まっていましたが、主イエスがベテスダの池に行かれた時は、そこには大勢の病人がいたのです、主は、特別に、38年も病気にかかっていた人に目を留められて、その人の病気を癒されました。私たちが誰かを見る時のは、その人に何か関心を持っているからです。一般的に言うと、私たちは、影響力のある人、地位の高い人、財産を持っている人などに、目を留めることが多いですが、主イエスは、むしろ、社会で嫌われている人、のけ者にされている人、軽蔑されている人に目を留められました。4章に出てくるサマリアの女性も、名前も書かれていませんし、当時の人々から軽蔑の目で見られていたような女性だったのです。

(2)サマリアの女に声をかけられたイエス
5節-6節を読みましょう。「それで、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。」イエスと弟子たちはエルサレムからサマリヤへ向かいました。そして、スカルという町に来られたのですが、そこにはユダヤ人の先祖ヤコブが掘った有名な井戸がありました。主イエスは旅の疲れから、井戸の傍らに座り込んでおられました。主イエスは私たちとまったく同じ人間になられたので、私たちと同じ肉体的な弱さを持っておられました。主イエスは罪はまったく犯すことがなかったのですが、あらゆる点で私たちと同じ者になってくださったので、疲れたり、のどが渇いたり、お腹がすいたり、眠気を覚えられたり、私たちと全く同じ弱さを経験されました。それで、主イエスは私たちの弱さを理解することができるのです。イエスがサマリアの女と出会った時間は、第六の時であったと書かれています。ユダヤ人の時間は日が昇るときから数えるので、ほぼ朝に6時に一日が始まります。ですから、第六の時とは、ちょうどお昼の12時頃でした。イエスの弟子たちは、町に食べ物を買いに行っていたので、主イエスは、ただ一人、井戸のそばに座っていました。
 すると、そこに一人のサマリアの女が水を汲みに来ました。井戸は、たいてい町の囲いのすぐ外の道路のそばにありました。水を汲みに来るのは女性の仕事だったのですが、イスラエルは日中かなり暑くなるので、女性たちは、たいてい、一日に2回、朝と夕方に水を汲みに来ていました。しかし、この女性は真昼の12時に来ました。あえて、他の人が来ない時間に汲みに来るには理由があったはずです。後から分かるのですが、実はこの女性は、道徳的にいかがわしい人だったのです。女性は噂話が好きですし、井戸端会議という言葉があるくらいですから、女性たちは井戸に水を汲みに集まったときに、いろいろな噂話をしていたと思います。イエスが会おうとしていた女性は、そんな噂話の格好のネタになるような生活をしていました。この女性は、5回結婚と離婚を繰り返し、今は、新しい男と同棲していたからです。今日の基準で考えても、彼女は不道徳な女性だと言われるでしょう。彼女は、どこに行っても、周りの人間からいやな顔をされたり、罵られたり、無視されたり、誰一人、心を開いて話ができる人はいなかったはずです。彼女は、その日、自分の人生に何が起きるのか何も知らないまま、いつものように、人の目をさけて、暑さと日差しの厳しい真昼間に井戸に水を汲みに来ました。この日、主イエスは、この一人の女性に目を留め、この女性のために働かれました。
 7節を読みましょう。「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、『わたしに水を飲ませてください。』」と言われた。」と書かれています。今の私たちからすると、ごく自然な会話のように思えます。主イエスは疲れて井戸のかたわらに座り込んでいます。のども渇いていたのでしょうが、井戸水を汲む道具もありませんし、水を汲む力さえもなかったのかもしれません。そこに水を汲みに来た女性が現れたのですから、彼女に水を飲ませとくれと頼むことはごく自然なことです。しかし、当時のイスラエルでは、主イエスがこのサマリアの女に声をかけることはありえないことだったのです。むしろ、彼女はユダヤ人の男性が絶対に声をかけてはいけない女性でした。まず、第一に、彼女はユダヤ人がひどく嫌い、軽蔑していたサマリア人でした。第二に、この女性は不道徳な生活をしていました。そして、第三に、イエスが女に話しかけた場所が公の場所であったからです。当時、公の場所で、ユダヤ人男性が女性に話しかけることはタブーでした。ユダヤ教で人々に旧約聖書を教える教師をラビと呼んでいました。そして、主イエスも、最初は、ユダヤ教のラビの一人だと考えられていました。ラビは、公の場所では、自分の妻にも、自分の娘にも、自分の姉や妹にも話しかけることはありませんでした。そんなことをするとラビとしての評判はがた落ちです。当時の社会、当時の文化においては、主イエスがサマリアの女に話しかけることは、絶対にやってはいけないことだったのですが、主イエスは、そんな人間が作った壁などまったく気に留めることもなく、女に話しかけられました。
 9節には、イエスに話しかけられた女の言葉が書かれています。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」この女性は非常に驚きました。なぜ、このユダヤ人の男が自分に話しかけるのかがまったく分からず戸惑っていました。当時のイスラエルでは、男性が公の場所で女性に話しかけることはないので、彼女はびっくりしたと思いますが、それだけでなく、おそらく、今まで、彼女は誰からもまともに声をかけられたことがなかったからだと思います。彼女は、スカルの町では、罪深い女として有名だったからです。しかし、主イエスは、この女性を、他の人とまったく変わらず、一人の人間として話しかけています。彼女は、イエスの態度の中に、いつものようなさげすむ目つきや、軽蔑したような雰囲気がなかったので、そのことが彼女には驚きでした。私たちは、他の人を見るときに、その人の外側だけを見て評価します。その人の家柄、社会的な地位、どのようなことを行ったか、その人の財産、そのようなもので人の価値を決めます。しかし、主イエスはそのような表面的なものを見るのではなく、一人の人間として私たちを見ておられます。神にとっては、すべての人が同じように大切な存在であり、罪びと一人一人のために、自分のいのちという最高のものを捧げられました。イザヤ書の43章4節に有名な言葉があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」主イエスは、このサマリアの女に対しても、このような思いを持っておられました。それだけでなく、神様は、今を生きる私たちにも同じ気持ちを持っておられるのです。私たちは自分勝手な生き方をする罪人です。本当は、神様の目には、私たちはむしろ価値のない者で、神に嫌われるべき者です。しかし、神様は、私たちを宝物のように見てくださり、そのような者のためにいのちを犠牲にしたくださいました。だからこそ、私たちは、これほどまでに私たちを忍耐をもって愛してくださる神を軽く扱ったり、神に対する信仰を決して軽く扱ってはいけないのです。

 神様が一人一人を大切にされるのは、今に始まったことではありません。神に造られた最初の人間アダムとエバの時からそうだったのです。アダムとエバは、神様の命令を破って、食べてはいけないという木の実を食べてしまいました。二人は、神から逃げて隠れていました。そんな二人を神様は見捨てることはありませんでした。神様は二人がどこにいるのか知っておられましたが、知らないふりをして近づいて言われました。「アダム、お前はどこにいるのか。」この呼びかけは、警察官が犯人を捜しているときの「お前はどこにいるのか」ではありません。自分のところから離れて行った子供を、心痛めて探しまわる父親としての言葉だったのです。私たちが信じている神様は、私たちにとってそのような永遠の父なる神です。いつも私のことを心にとめておられます。第一ペテロ5章7節にこのような言葉があります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」私たちのことを心配してくださる神様にしっかりと結ばれて、この困難の多い日々を歩んで行きたいと思います。

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