2020年5月10日 礼拝説教 『生ける水を与える主イエス』(使徒4:7-15) | 説教      

2020年5月10日 礼拝説教 『生ける水を与える主イエス』(使徒4:7-15)

今日は、5月の第二聖日で、母の日です。母の日の起源は、今から120年前にさかのぼります。アメリカのバージニア州のウェブスターという町に26年間、日曜学校の教師を務めたジャービス夫人という方がおられました。ある日曜日、ジャービス夫人は日曜学校の子供たちにモーセの十戒を教えていました。そして、十戒の中の「あなたの父と母を敬え。」という戒めを教えたときに、夫人はこどもたちに言いました。「皆さんのうちの誰でもいいですが、お母さんの大きな愛に心から感謝を表すために、何かよい方法を考えてみてください。」この言葉は、これを聞いていたジャービス夫人の娘のアンナの心に大きな感動を与えました。ジャービス夫人がなくなった後、記念会の時に、娘のアンナが記念会が行われた会場を、お母さんが好きだったカーネーションで飾り付けて、自分のお母さんへの感謝を表しました。この出来事は人々に感動を与えて、のちにアメリカで正式に5月の第二日曜日が母の日と決められたのです。年に一度だとしても、自分の親に感謝の気持ちを表すことは、神様の教えにかなったことですし、素晴らしいことだと思います。

 今日は、先週に続いて、ヨハネの4章から主イエスが一人のサマリアの女性に出会った出来事について読みます。主イエスが神の子としての働きを始めたばかりのころ、エルサレムにおられた時にパリサイ人たちとの争いが起こりそうな状況になったために、無駄な争いを避けるために活動を中心地としていたイスラエルの北部にあるガリラヤ地方に戻ることにされました。当時のユダヤ人はガリラヤ地方とユダヤ地方の間に住むサマリア人たちと非常に仲が悪かったので、この2つの地域を行き来するときはユダヤ人は、サマリヤ地方を通らないで遠回りをしていました。ところが、この時、主イエスは「今日はサマリアを通って行かなければならない。」と言って、普段通ることのないサマリヤ地方を通られて、スカルという町まで来ました。お昼ごろだったので、弟子たちは町中へ食べ物を買いに行っていました。イエスは一人で町のすぐ外側にあった井戸のそばに座っておられました。そこに、一人の女性が井戸の水を汲みに来ました。井戸の水を汲むのは女性の仕事でした。ただ、井戸水を汲むのは、朝と夕方と決まっていて、、真昼に水を汲みに来る人はいません。というのは、イスラエルは、お昼はすごく暑くなるからです。この女性は、おそらく、人目をさけて誰もいないころを見計らって、この時間に水を汲みに来たのです。主イエスは、全知全能の神ですので、この時間にこのサマリアの女性が井戸水を汲みに来ることを知っておられました。これは偶然の出会いではなく、神であるイエスが、自分の意志で、この女性に会うためにサマリアを通ってスカルに来られたのです。神である主イエスは、私たちのすべてのことを知っておられるのです。主イエスは、この女性のために自分の一日を捧げました。

 主イエスは彼女に「水をのませてください」と声を掛けました。主イエスは実際にのどが渇いていたと思いますが、むしろ、これは彼女との会話を始めるためでした。先週もお話ししたように、ユダヤ人の男がサマリア人の女に話しかけることは当時は絶対にやってはいけないことでしたので、女性は非常に驚きました。しかし、主イエスは、そのような人間が作った文化的な、人種的な壁は完全に無視して、ただ、一人の人間としてこのサマリアの女性に話しかけられました。女性は驚いて、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に飲み水をお求めになるのですか」と尋ねました。彼女は、イエスの姿を見てユダヤ教の教師だと思ったかもしれません。ユダヤ人がサマリア人が汲んだ水を飲むと、宗教的に汚れることをこの女性は知っていました。従って、彼女の言葉には、「ユダヤ教の教師がそんなことして大丈夫ですか。あなたは仕事ができなくなるのではないですか。」という気持ちが込められていました。しかし、主イエスは神ですから、何に触ろうとも、外国人の器に入った水を飲もうと、汚れることは一切ありません。ですから、主は、らい病人を癒すときも直接その人の体に触れておられますし、死んだ人の体に触れて生き返らせる時も、主イエスにはまったくためらいはありませんでした。このサマリアの女は、イエスに話しかけられてひどく驚きましたが、イエスに何か魅かれるものを感じたに違いありません。彼女は町でも評判の悪い女性でしたから、他の人からまともに話しかけれらたことがなかったからです。イエスの言葉には、不道徳な人間をしかりつける感じもありませんし、上から目線で何も知らない人間に大切なことを教えてやろうみたいな傲慢な感じもありませんでした。彼女は別に宗教に興味があった訳ではなかったかもしれませんが、イエスという人物に興味を持ちました。

 そのようなサマリアの女の質問に対して主イエスは次のように答えられました。「もし、あなたが神の賜物を知り、また水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」この主イエスの言葉によって、主イエスとサマリアの女の立場が逆転しました。最初は、のどが渇いた主イエスがサマリアの女に水を飲ませてほしいと頼んだのですが、この言葉を聞くと、サマリアの女のほうが渇きを覚えていて、主イエスがその渇きを満たす者になっているからです。ここで、主イエスは信仰に関する2つの大切なことを教えておられます。一つは、「神の賜物」ということであり、もう一つは「水を飲ませてくださいあなたに言っているのがだれなのか」という点です。主イエスは、この2つのことを知ったら、女のほうから水をくださいと言うようになると言われたのです。今日の箇所では、特に「神の賜物」のことを主イエスはこの女性に教えようとしておられます。
 主イエスの言葉を聞いて、この女性はその意味を理解することはできませんでした。主イエスは「生ける水」と言われましたが、彼女が考えていたのは井戸から汲む水のことですから、主イエスが霊的な水の話をしていることがわからなかったのです。それで、彼女は次のように答えました。11-12節に記されています。「主よ。あなたは汲む物を持っておられません。この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手に入れるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸をくださって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」この女性は、イエスに対する尊敬の気持ちを感じたので、イエスに向かって「主よ」と呼び掛けています。スカルの町にあった井戸は有名な井戸でした。ヤコブというのは創世記に出てくるアブラハムの子、イサクの子のヤコブです。彼女はヤコブを私たちの父と呼んでいます。サマリア人も元々イスラエル民族でした。イスラエル民族というのは、ヤコブの12人の男の子から生まれた民族なので、12部族がありました。イスラエルの民はダビデ、ソロモンの時代まで一つの民族として行動していましたが、ソロモン王が死んだ後、イスラエル民族が2つの国に分かれてしまいます。北イスラエルと南ユダという2つの国に分かれました。北イスラエルは12部族のうちの10部族で造られた国で、南ユダはユダとベニヤミンという2つの部族で造られた国でした。北イスラエルは紀元前8世紀にアッシリアという国に滅ぼされますが、その時、イスラエルの主だった男たちはアッシリアに連れて行かれ、その代わりに、大勢のアッシリアの男たちがイスラエルにやってきて、イスラエルの女性と結婚しました。その結果生まれたのがサマリア人でした。このようにして、イスラエルの12部族のうち、ユダとベニヤミン以外の10部族は、アッシリア人との血が混じってしまったために、純粋な部族としては消滅してしまったので「イスラエルの消えた10部族」と言われます。ただ、サマリア人も元々はイスラエルの10部族ですから、彼女はヤコブのことを私たちの父ヤコブと呼んだのです。
 彼女のちょっと的外れな答えに対して、主イエスは彼女に最も必要なことを単刀直入に語られました。13,14節を読みましょう。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」この13,14節の言葉は、主イエスが10節で「神の賜物」と言われたことを言い換えたものです。神の賜物とは、イエスが与える水であり、永遠のいのちへの水です。13節で、主は、「この井戸の水を飲む人はみな、また渇きます。」と言われました。13節の「飲む」という言葉は、1回飲むことを意味するのではなく、絶えず飲み続けることを意味する形が使われています。この井戸の水は1回飲めば、もういらないという水ではありません。水は1回飲んでも、しばらくするとまたのどが渇きます。だから私たちは絶えず水を飲み続けています。人間の体の大半は水ですから、水を飲み続けていないと脱水症状になります。ここで、主イエスが井戸の水と言われたのは、ただ物質としての井戸水ということだけを意味するのではありません。人間の欲望を満たすあらゆるものを指しています。人間は、体の渇きだけでなく心の中も渇いていてそれを満たそうとしていろいろなものを、言わば、飲もうとします。それは夏の炎天下で飲む水と同じで、飲んだ時は一時的に渇きはいやされるのですが、またすぐに渇いてしまいます。主イエスは、この世の中のどんなものでも、心の渇きをいやすのは一時的であることを教えておられるのです。これに対して、14節の「わたしが与える水を飲む」という箇所の飲むは、1回の行為であることを意味するかたちが使われています。「わたしが与える水」というのは、聖書の言葉の約束と聖霊の働きによって私たちに神様から与えられる救いを指しています。これは、第一に、神様が与える水です。つまり人間が作ることのできない水であり、自分で汲むことのできない水です。これが「神の賜物」です。賜物は英語の聖書ではgiftと訳されています。つまり、神様からただで与えられるものです。私たちの罪が赦されて、永遠のいのちが与えられるのは、すべて無料で神様から与えられるものであって、私たちが何か良い働きをしたことへのご褒美として与えられるものではありません。
 主イエスは続いて次のように言われました。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。」ここで、神様から与えられる水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありませんと言われていますが、この「渇くことがありません」部分は非常に強い言葉が使われています。日本語訳では、「決して」という言葉が使われています。これもかなり強い否定の言葉ですが、ギリシャ語では、「決して」を意味する2つの言葉が重ねて用いられています。ですから、その通りに訳すと、いつまでも決して決して渇くことがありませんという訳になります。自分の罪を悔い改めて、主イエスの十字架が自分の罪が赦されるためのものであることを信じた人は、他のものでは決して得ることのできない、心の平安や喜びを味わいます。そして、主イエスは、イエスを信じる者は、二度と心の中の渇きを経験することがないとはっきり約束してくださいました。人間の体は生きて行くために、空気と水と食べ物と光が必要です。ある聖書学者は、これらの生きて行くための必要物はすべてイエスによって与えられると言っています。彼は次のように説明しています。「魂が生きて行くための空気は、キリストの息である聖霊によって与えられる。ギリシャ語では「息」と「霊」は同じ言葉です。主イエスは生ける水を与えてくださる方です。主イエスは、わたしはいのちのパンですと言われましたし、わたしは世の光であるとも言われました。私たちの魂が生きて行くために必要なものはすべてイエスの中にあります。言い換えると、私たち人間はイエスから離れると、霊的にはすぐに死んでしまうのです。
 しかし、イエスは私たちが霊的に生きるのに必要なものを与えてくださるだけではありません。さらに素晴らしい約束があります。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」ここでは、「湧き出ます」と訳されている言葉が興味深いです。というのは、この言葉は普通、人間や生き物の動きを表す言葉だからです。例えば、使徒の働き3章で弟子ペテロとヨハネがエルサレムの神殿に行ったとき、神殿に入る門に、生まれつき足の不自由な人が乞食をしていたのですが、二人が「キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言うと、たちまち、彼の足が強くなり、その男は立ち上がると、歩いたり飛び跳ねたりして神を賛美したと書かれています。この時、この男が喜びいっぱいに飛び跳ねるところに使われているのがこの「湧き出る」と訳されている言葉なのです。したがって、イエスの約束は、イエスが与える水を飲むと、それはコップの中の水ではなく、こんこんと湧き出る湧き水になるということです。コップの水は一回飲んでしまえばなくなってしまいますが、湧き水は、汲んでも汲んでもなくなることがありません。しかも、その水は、わたしたちの心の中で喜びで飛び跳ねるような湧き水になると約束されています。この世が与えるものは、皆、私たちの渇きを一時的に癒すことしかできません。しばらくすると、私たちはまた渇きを感じて、その渇きをいやすものをまた探さなければならないのです。しかし、主イエスを信じるときに、神様から与えられるものは全くそれとは違います。神様が与えてくださるものは決して途中でなくなることはありません。そればかりか、その湧き水はイエスの言葉によると永遠のいのちへの湧き水なのです。神様が私たちに与えてくださるものは、この世だけのものでもありません。永遠になくなることのないいのちの水なのです。 私たちは、この地上の生涯を終わると、神様がおられるところへ導かれ、そこでも、同じいのちの水を飲むのです。その様子がヨハネの黙示録7章16,17節に記されています。これは天国の姿です。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」

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