2020年6月7日 『一人を大切に見る主イエス』(ヨハネ5章1-9節) | 説教      

2020年6月7日 『一人を大切に見る主イエス』(ヨハネ5章1-9節)

 皆さんは、フランスのルルドという場所をご存じでしょうか。フランス南西部のスペインとの国境に近い小さな村ですが、ここはカトリック教徒の巡礼の場所で、毎年600万人が訪れます。なぜ、この村が巡礼地になったかと言うと、今から約160年前に、奇跡が起こったからです。ベルナデットという15歳の少女が、村のはずれの洞窟の中でイエスの母マリアの出現を見たと証言したこと、また、そこで発見された泉の水によって多くの人の病気が癒されたからです。これまで7000の癒しが報告されていて、そのうち70は、カトリック教会が公式に奇跡と認めているそうです。病気や体の不自由さは、私たちにとって大きな負担となるので、誰もが癒されたいと願います。ルルドには毎年何万人もの病人が訪れます。今日の聖書の箇所は、エルサレムにあったベテスダの池で起きた出来事が記されていますが、実は、このベテスダの池もルルドのように、その池の水によって病気が奇跡的に癒されると考えられていた場所でした。

(1)ベテスダの池(1-5節)
 1節を読みましょう。「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」4章では、主イエスはエルサレムからサマリアを通って活動の中心地のガリラヤに戻っておられたのですが、また、祭りの時になったので、ガリラヤからエルサレムに向かわれました。ユダヤ教では、エルサレムから25キロ以内に住んでいる男性は必ず参加しなければならない祭りが3つありました。それは、過越しの祭り、ペンテコステ(7週の祭り)、そして秋の仮庵の祭りの3つでした。主イエスは、この3つの祭りのときはいつもエルサレムに行っておられました。1節の祭りが何の祭りであったのかは分かりませんが、主イエスは、この時、一人でエルサレムに行かれたようです。
 城壁に囲まれたエルサレムの街の中にベテスダと呼ばれた池がありました。2節を見ると、その場所は羊の門の近くにあったことが分かります。ベテスダの池は、今も残っていて、聖地旅行に行けば必ず訪れる場所ですが、エルサレムの北東、つまり、ユダヤ教の神殿の北側にありました。聖書では、「池」と訳されていますが、正確には四角いプールのような場所でした。その池の周りには屋根のついた回廊が5つありました。この池は、間欠泉のように、時々地中からの水が湧き出ていたので、規則的に、池の表面に、大きな泡が現れていました。聖書をよく見ると、5章の4節が欠けているのですが、実は、そこに入るべき言葉があります。ただ、新約聖書の写本で、有力なもののほとんどには、その箇所がないので、新改訳聖書では、その部分はカットされています。そこには次のような言葉が書かれています。3節の後半から4節の部分です。「彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りてきて水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」このような言い伝えがあると、病気の人や家族は、藁にもすがる思いで池の近くにやって来ます。このベテスダの池の周囲にも大勢の病人が癒しを求めて集まっていました。 3節には、「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」と書かれています。その光景は、決して美しいものではなかったはずです。たいていの人はそのような場所に行きたいとは思わないでしょう。そこにいた人々の中には、顔や体が病気のせいで醜くなっていたり、臭くなっていた人もいたことでしょう。この日、イエスは祭りに参加するためにエルサレムに来ておられたのですが、神殿には行かずに、このような人々が集まるベテスダの池に行かれました。今日もまた、主イエスは一人の人のためにそこに行かれたのです。

 大勢の病気で苦しんでいる人々の中に、38年間も病気にかかっている人がいました。38年は非常に長い時間です。私は、小学校4年生の時に、急性腎炎にかかって40日間入院しました。その40日間は、10歳の子供にとっては本当に長かったです。4年生の1学期は、その入院のためにすべてを失ったように思いました。しかし、それでもわずか40日なのです。この人は38年間、病気のためにずっと寝たきりになっていました。この人が50歳だったすれば病気になったのは12歳の時、60歳であれば22歳です。いずれにせよ、彼は人生の中でもっとも華やかで楽しみが詰まった10代、20代を病気のために全部失っていました。そして、38年も病気を患っていると、体だけでなく心も歪んで来ます。この人の話によると、彼に同情し、彼を助けてくれる人が周りには一人もいませんでした。それは、その人のせいなのか、周囲の人間のせいなのか、誰のせいなのか分かりませんが、いずれにせよ、この人は、病気になったばかりのころは違っていたかも知れませんが、今では、誰にも心配されることなく、独りぼっちで、病人の集まりの中で暮らしていました。そんな男の人、名前も記されていない人に、主イエスは目を留められました。6節にはこう書かれています。「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知った。」主イエスは、大勢の群衆の中で、この男に目を留められました。誰かを見るというのは、その人に関心があるからです。私たちは、関心のない人を見ることはありません。主イエスはすべてを見抜くことのできる神様ですから、この男の人を見て、彼が長い間病気を患って池のそばで横になっていることを知られました。そして、彼に話しかけられました。「良くなりたいか。」
 
(2)イエスが病人に求めたもの
 主イエスは、38年間病気で寝たきりの人に向かって「あなたは、良くなりたいか」と尋ねられました。一見すると、相手をバカにしたような質問に聞こえます。この人は38年も病気にかかっているので、よくなりたいと思うのは当たり前のことです。良くなりたいと思っていなかったら、この人はベテスダの池に来ていないでしょう。しかし、主イエスは、決して、意味のない質問をされる方ではありません。この短い質問には大切な目的がありました。自分が相手に関心があることを示して、その男の人の注意を引き付けるための質問でした。38年もずっと病気のままでいると、周囲の人々の関心も薄れて、その病人に話しかける人はほとんどいなかったでしょう。また、この質問は主イエスがその男の人がどんな病気にかかっていてどんなニーズを持っているのかを知っていることをその人に示すためもありました。さらに、主イエスは、この質問によって、自分にはその人が願っているように病気の癒しを行う力があることを示されました。また、主イエスは、このようにして話しかけることによって、自分がどれほどこの病人を愛しているのか、心配しているのかを示されたのです。
 この男の人は、見知らぬ人が自分に話しかけてきたのでびっくりしたことでしょう。また、イエスの質問の中に、主イエスのどれほど大きな愛が示されているのか、またイエスがどれほど大きなことをしようとしておられるのかが分かっていませんから、次のように答えました。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に行きます。」彼は、言い伝えを信じていて、池の中の水が動いたときに、最初に池に入らなければ癒されないと思っていました。彼は、体が不自由ですから、誰かの助けがなければ、決して一番に池の中に入ることはできません。彼は38年間そこにずっといましたから、他の人も彼のことは知っていたはずです。でも、誰も彼を助けようとすることなく、また、彼のために順番を譲ってくれる人もいませんでした。やはり、人間は自己中心の罪人なので、自分が手に入れたいものを他の人に譲ることはできないのですね。自分より後から来た人が先に池に入って癒される心がいっぱいになっていたと思います。そうなると、彼は他の人に優しくすることもできなくなり、ますます孤立してしまいます。おそらく、彼はそんな状態で、長い間ベテスダの池にとどまっていました。彼は、自分に話しかけているのが誰なのか知りませんし、その人が自分を癒すことができるなどとは夢にも思っていません。ただ、少し待ってくれれば、次に水が動いたときに、自分を池に入れてくれるかなと期待していたかもしれません。

 そのような彼に対して、イエスは権威をもって命令しました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」この命令は3つの動詞で命じられています。「起きなさい」「床を取り上げなさい」「歩きなさい」の3つです。3は、完全数を表すと言われますが、この3つの行動は、彼の体が完全に癒されることを意味しているように思います。彼に必要だったことは、第一に、今の状態から抜け出るために立ち上がることでした。第二は床を取り上げることですが、床とは毛布のようなもので、彼はその上に寝ていましたので、病気の彼にとってはどうしても必要なものでしたが、病気が治ったら必要のないものになります。従って床を取り上げなさいとは、新しい生活をするのに不必要なものは捨てなさいということでした。第三は歩くことですが、キリストとともに新しい生活を歩くことです。そして、さらに細かいことなのですが、ギリシャ語の命令には2つの形があって、一つは1回だけすぱっとやりなさいという意味の命令で、もう一つは、あることをずっとやり続けなさいという命令です。7節の「起きなさい」「床を取り上げなさい」「歩きなさい」の3つの命令の中で、「床を取り上げなさい」というのは一回きりの行為への命令ですが、「起きなさい」と「歩きなさい」はずっとし続けなさいという形の命令が使われています。主イエスが、ここで、2つの命令のかたちを混ぜて言われたことにも意味があると思います。過去に自分が依存していたものをすてるのは、1回でスパっと捨てなさいということだと思います。それに対して、起き上がることと歩くことはずっとやり続けなければならないこととして命令しておられるのです。彼が新しい生活を始めると、今までとは状況がすっかり変わります。今までは、病人ということで、人々から世話を受けたり、食事などを提供してもらったり、仕事をしなくても生活をすることができていましたが、これからは、自分で働いて自分を養わなければならないので、38年間病気だった彼にとっては、それは決して簡単なことではなかったはずです。疲れると、座り込んだり、歩くのをやめてしまいたいと思うこともあるかも知れません。したがって、この人は、癒された後も、座らないで、歩き続ける必要がありました。このように考えると、主イエスの質問は、この人にとって大きなチャレンジだったのです。イエスの質問は、「あなたは、たとえ、病気が治ってからの生活が今とは違って少し大変になるとしても、心から病気が治って新しい生活を始めたいと思っているのですか?」という質問だったからです。

 このイエスの質問は、クリスチャンである私たちにも問いかけられている質問のように思います。この病人は、最初は病気が治ることを強く願って、わざわざ家を離れてベテスダの池に来るようになったと思います。しかし、何年たっても、他の人は癒されて自分の家に帰って行くのに、自分は、病気がなおらないまま池にい続けている状態を見て、現実的に自分が癒されることは無理だと確信していました。そんな彼にイエスは「あなたは本当に治りたいのか」とチャレンジされました。私たちは、この男のように病気を患ってはいませんが、この人と同じように、信仰生活を続ける中で、その経験によって、自分の常識のようなものが出来上がってしまって、心のどこかで、「いくら全知全能の神さまでも、ここまでは無理だろう」とか「いくら神様でも、私のこの問題を解決することはできないだろう。」そんな信仰上の自分の常識というものができると、神様はまったく変わっていないのですが、自分で勝手に神様の力を小さなものに制限してしまっていることはないでしょうか。そうなると、心の中で、「どうせ自分はだめだ」とか、「どうせ無理だ、同じだ、変わることなんてできない」などとつぶやきながら、惰性の生活にはまってしまっていないでしょうか。そうなると、神様に期待することがなくなり、神様に祈っても仕方がないと思って祈らなくなってりまいます。そのような私たちにも、主イエスは尋ねておられます。「あなたは本気で、もっと良いクリスチャンになりたいと思っているのか?」これは、決して、私たちを批判するいじわるな気持ちで尋ねられた質問ではありません。私たちの惰性の生活から目覚めて抜け出させようと私たちにチャレンジしておられる質問です。

 イエスの命令を受けたこの男の人に求められたのは、主イエスへの信仰です。自分の力では自分の病気を治すことはできないことを認めて、主イエスの言葉を信頼して、それを信じて行動に移すという信仰が求められています。それまで、彼は主イエスを救い主としては信じていませんでした。しかし、自分をじっと見て「起きなさい」と言われたイエスのことを彼は信じる決断をしました。それで、今まで40年間も起き上がろうとして足に力を入れたことがなかったのですが、彼は起き上がろうとして、足に力を入れました。彼がイエスの言葉を信頼して足に力を入れた瞬間に、彼の病気は癒されました。彼自身がびっくりしたと思いますが、彼の足に新しい力が与えられて、彼は起き上がることができたのです。彼は、主イエスに言われるままに、自分がこれまで宝物のように大切にしていた床をたたんで担いで、彼は自分の足で歩き始めました。彼の病気は癒されました。しかし、それだけではありませんでした。彼は、歩いてどこに行ったのでしょうか。彼は宮に行っていました。彼は、これからどのように生きて行けばよいのかを考えたときに、まず、宮に行って、自分の信仰をはっきりさせて、そこから新しい生活を出発しようとしたのだと思います。彼は、イエスの言葉を信頼してイエスの言葉を信じたから癒されたことを知っていたからです。宮で彼を見つけた主イエスは、彼にこれからの生き方を示して言われました。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかも知れない。」彼は、イエスの言葉に従って歩き始めました。彼は、体が癒されただけでなく、これまでのいじけた心をも癒され、赦されたのです。そして、15節に記されているように、彼は、イエスを証しする人として生きるようになりました。

 アメリカにジョニー・アリクソン・タダという女性がいます。彼女は17歳の時にプールでの飛込に失敗して首からしたが麻痺してしまい、歩けない体になってしまいました。彼女は、このことで神様に対して怒り逆らっていたのですが、多くの人の働きを通して信仰に導かれて、体は癒されませんでしたが、彼女の屈折した心が完全に開放されました。彼女は今では、体に障害を持つ人々のための団体を設立して多くの人に希望を与える働きをしています。彼女の喜びに満ちた姿が多くの人を励ましています。彼女は、将来、自分の体が栄光の体に変えられることを確信して、次のように言っています。「栄光の姿に変えられる、今、私には、この言葉の意味がよく分かります。私は確信しています。私は死んだら、自分の足で踊るようになることを。」彼女の言葉は希望と喜びに満ちています。神様の約束を信じて、彼女の心が変えられたからです。彼女は、自分の心がよくなりたいと願うように導かれたのです。体の癒しも大切なのですが、心の癒しはもっと大切です。あなたは良くなりたいですか。イエスの言葉を信じて起き上がりませんか。

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