2020年6月14日 『永遠のいのちを与えるイエス』(ヨハネ5章19-29節) | 説教      

2020年6月14日 『永遠のいのちを与えるイエス』(ヨハネ5章19-29節)

先週は、主イエスがベテスダの池で38年間病気のために寝たきりになっていた男の人を癒されたという出来事を読みました。38年間寝たきりで、その人は自分の病気が治る希望をすっかり失い、心に喜びもなく日々を過ごしていました。主イエスはそんな彼を大勢の病人の中から選んで、その病気を癒されました。この人にとって、それはどれほど大きな喜びだったでしょうか。病気のために絶望を感じていた人が新しい将来が与えられたことは、素晴らしいことでした。この人のこれまでの苦労や悲しみを知っている人はみな、彼と一緒に喜んだことでしょう。普通に考えれば、誰もが喜ぶべき出来事です。しかし、この奇跡を喜ばない人々がいました。それはユダヤ教の指導者たちでした。彼らがなぜ、この人のいやしを喜ばなかったのかというと、彼が主イエスによって癒されたのが安息日の土曜日だったからです。熱心なユダヤ教は安息日を聖なる日と考え、聖書の教えにしたがって仕事をいっさいしませんでした。今でも、厳格なユダヤ教徒は日曜には仕事をしません。ただ なぜ、ユダヤ教の指導者たちが、この人が安息日に癒されたことに腹を立てているかというと、その男の人が、イエスが言われた言葉の通りに、起き上がって、自分が寝ていた布団を丸めて担ぎ、歩き始めたからでした。彼らが問題にしたのは、男が布団を丸めて担いだことだったのです。彼らは、この行為を物を運ぶ仕事だと解釈したからです。彼らにとっては、38年間寝たきりの人が起き上がって歩けるようになったことよりも、「安息日には仕事をしてはならない」という規則が破られたことのほうが大切でした。しかも、癒された人が自分の床を丸めて担いだという本当に小さなことを問題にしたのです。主イエスは、この男の人に「床を取り上げて歩きなさい」と言われたのに、指導者たちは、彼に「床を取り上げてはならない」と言いました。それは、床を取り上げて歩くと「物を運ぶ」という仕事になるからです。彼らは、旧約聖書の律法を非常に細かく解釈して、その解釈にこだわっていたために、聖書の律法全体の精神とか意義が分からなくなっていました。彼らは、その男の人の病気を癒したのがイエスであることを知って、イエスに対して激しい怒りを覚えて、イエスを殺そうと考えるまでになっていました。18節を読みましょう。「そのため、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」これらのユダヤ人たちは、イエスを神とは認めていません。ユダヤ人にとって、神でない人間が自分を神だと言うことは、死刑を言い渡されるぐらいの大きな罪でした。この18節の言葉がきっかけとなって、主イエスは、この後5章の終わりまで、ユダヤ人たちに多くの言葉をつかって非常に長い説教をされました。その長い説教のテーマはご自分が神であることを証明することでした。

(1)イエスが神であることの証拠(19-23節)
 19節の最初のことろで、主イエスは、「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と言っておられますが、主が、これを言われる時は非常に大切なことを言われる時であり、また、これから言うことが100%真実であることを聞いている人に伝えるためでした。主イエスは、もともと「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」と言われた方ですから、嘘を言うことはありえないのですが、主がこの表現を使う時は、あえて、これから話すことは真実であるので、よく聞きなさいと言っておられるのです。ここで、主イエスがユダヤ人たちに向かって言おうとしておられるのは、自分が神であるということでした。彼らは主イエスが神でないと思い込んでいるので、主イエスを殺そうとまで考えているからです。まず、主イエスは自分の働きと父なる神の働きが同じであると言われました。19節を読みましょう。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からないも行うことはできません。すべて父がなさることを子も同様に行うのです。」父なる神と御子イエスは聖霊とともに三位一体の神として存在しています。主イエスはくりかえして父と子は一つですと言っておられます。父なる神と御子イエスは一心同体の存在なので、主イエスは、父なる神と同じことを行うことができるのです。人間は誰一人父なる神と同じことはできません。次に20節では、父なる神と御子イエスが一つであるのは愛によって結ばれている関係であると説明しておられます。20節の初めに「それは、父が子を愛し」と書かれていますが、ここに、「愛する」という動詞が使われています。ギリシャ語には愛を表す言葉がいろいろあって、神の愛を表すのが「アガペー」、兄弟愛や親子の愛を表すのが「フィリア」、そして男女の愛を表すのが「エロス」です。普通に考えれば、ここでは「アガペー」の愛が使われているだろうと思うのですが、実際には、「フィリア」の愛が用いられています。それは、父親が自分の息子に感じる深くて暖かさのある愛を表す言葉です。しかも、この「愛する」という動詞は現在形なので、この父と子の間にある愛は決して途切れることなく、絶えず働いている愛を意味します。ここでも父なる神と御子イエスは一つであることが強調されています。そして、父なる神と御子イエスはこのように密接な関係にあるので、父なる神と御子イエスとの間には絶えずコミュニケーションがあり、お互いの考えや気持ちを相手に伝えています。20節では、主イエスは、「父なる神がご自分がるすことすべてをお示しになるからです。またこれよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」と言われました。ここに「これよりも大きなわざ」と書かれていますが、長い間寝たきりであった病人を癒すという一つの奇跡よりもずっと大きなわざを主イエスはすると言うことです。
 では、この「さらに大きなこと」とは何なのでしょうか。それが21,22節に書かれていることですが、21節では、父なる神が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちをあたえます。と書かれているように、いのちを与えるという業です。もう一つは22節に書かれていますが、「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました」とあるように、主イエスにはすべての人をさばく権威と力が与えられているということです。このことについては、24節以下に詳しく書かれているので、後で説明しますが、このように、御子イエスにはすべての人にいのちを与えることと、すべての人をさばくための権威と力が与えられているのです。これこそ、主イエスは神であることの証拠です。主イエスがこのようにご自分が神であることをはっきりと示されたのは、一つには20節に書かれているように、人々が驚き怪しむためであり、もう一つは23節に書かれているように、すべての人が御子イエスを神として敬わようになるためなのです。このイエスの言葉は私たちに向けても語られています。あなたは、本当に主イエス・キリストを父なる神と同じ神として尊敬し恐れかしこんでいるでしょうか。多くの人は主イエスは偉大な人物とか、愛の伝道者などと言いますが、本当は、イエスは天地万物を創造した神であり、全知全能の神です。あなたはその主イエスをふさわしい思いで敬っているでしょうか。自分が困ったときに神に祈っても、すぐに自分の思うような答えが与えられない時、すぐに神様に腹を立てていないでしょうか。大きな苦しみを経験するときに、「神がいるなら、なぜこんなことが起きるのだ?」と言って主イエスを責めていないでしょうか。私たちがそのように思うのは、主イエスを、本当のイエスよりもずっと小さな存在として受け止めているからです。私たちが主イエスを神として本当に敬うようになるためには、主イエス・キリストのさらに大きなわざが何なのかを知る必要があります。それは先ほど言ったように、「父なる神と同じように、御子イエス・キリストも、与えたいと思う者にいのちを与えられるということと人を裁くということです。

(2)いのちを与え、さばく権威を持つイエス(24-29節)
 人間の永遠の疑問は、「もし人が死んだら、その人はどうなるのか、死後のいのちはあるのか」というものではないでしょうか。聖書は、はっきりと、人は、肉体の死を経験した後も、意識を持って生きると述べています。それは、イエス・キリストを救い主と信じた人も、信じなかった人も同じです。さきほど述べたように、主イエス・キリストには私たちに永遠のいのちを与える権威と力を持っておられると同様に、私たちをさばく権威をも持っておられます。よく人は言います。「もし、神が愛であるなら、人をさばくことはありえない。」しかし、聖書は、この考え方は間違っていると断言しています。聖書の神は愛の神であると同時に正義の神です。考えてみてください。親が子供を愛するからと言って、子供が間違ったことをしたり悪いことをしたときに、愛の心で何でも赦していたら、その子供はどうなるでしょう。神様がおつくりになった世界、人間の社会にはルールがあり、一人一人がそのルールを守れば、人間の世界はまったく安全です。しかし、愛があるからと言って、そのようなルールを全部なくしてしまえば、ただ混乱だけが残ります。そのように、聖書の神は、混乱の神ではなく平和の神なのです。(1コリント14:33) 後半の24節も、「まことに、まことに、あなたがたに言います」という言葉で始まっています。主イエスからの大切なメッセージです。その大切なメッセージとは「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」というメッセージです。主イエスは、聖なる神なので、良いことと悪いこととを区別し、悪い者をさばく権威をもっておられます。しかし、同時に主イエスは愛の神なので、イエスの言葉を聞いて信じるすべての人に永遠のいのちを喜んで与えてくださるお方です。
 24節には「死からいのちに移っています」と書かれています。また、それに続く25節から29節には、「死からいのちに移ること」いわば「復活」について語られています。ただし注意することがあります。25節には「死人が神の声を聞く時が来ます」と書かれています。また、28節には「墓の中にいる者がみな子の声を聞く時が来ます」と書かれています。じつは、この2つは全然別のことを語っていることを知らなければなりません。25-29節の箇所では、主イエスは2種類の復活があること、つまり2種類の「死からいのちに移る」ことがあることを教えておられるのです。一つは25,26節に書かれている霊的な復活であり、もう一つは、27-29節に記されている体をともなう復活です。25節も「まことに、まことに、あなた方に言います」で始まっていることに注意してください。この部分も非常に大切な教えだからです。注意して読みたいと思います。25節の「死人が神の声を聞く時が来ます」の部分の「死人」ですが、これは、普通の意味での死人ではありません。これは体は生きていても霊的に死んだ人、魂が死んだ人を指しています。聖書は、イエス・キリストを信じる前の人間は、霊的に死んでいると教えています。ここがちょっと分かりにくいところです。体はどんなにピンピンしていても、魂が死んでいるとはどのような意味でしょうか。それは、何が正しいことで、何が悪いことかが分からずに、悪いことをしてしまうこと、あるいは、正しいこと悪いことの違いは分かっているのに、また正しいことをしなければならないと分かっているのに、正しいことができず、悪いとわかっていることをしてしまう状態を指しています。この悪いことが法律に違反すると捕まるので分かりやすいのですが、法律には違反しないけれども悪いことがたくさんあります。例えば、人を愛さなければならないと分かっているのに、憎んでしまう。差別してはいけないことはわかっているのに、差別してしまう。このように、自分で自分をコントロールできない状態を聖書は罪と呼び、罪を持つ人は霊的に死んでいるのです。そして、聖書は言います。正しい人はいない、一人もいない、人間は全員罪人なのです。しかし、その霊的に死んだ人に主イエスはいのちを与えることができます。どうすれば魂の死がいのちに移れるのでしょうか。それは、24節にありますが、わたしのことばを聞いてわたしを遣わした方を信じることです。主イエスは、私たちの身代わりとなって十字架で罪の罰を受けて死んでくださったので、私たちの罪をゆるし、永遠のいのちを与える権威と力を持っておられます。主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなた方は枝です。」と言われました。私たちは、自分のうちに霊的ないのちを持っていません。ブドウの枝が幹から離れたらブドウの実は実りません。いのちがないからです。しかし、幹につながっていれば実を結びます。いのちが幹から流れてくるからです。そのように、私たちは、主イエスの言葉を聞いて信じるときに、主イエス・キリストとつながって霊的に生きる者になります。つながっていなければ死んだままです。ですから、信仰というのは、ちょっと良い人間になるというようなレベルの問題ではなく、生きるか死ぬかの選択なのです。この死人が神の声を聞く時、それは、今です。今、誰でも、主イエスの言葉を聞き、イエスを救い主として信じるなら、その瞬間、私たちのうちに霊的な永遠のいのちが注ぎ込まれるので,死からいのちに移されるのです。
 それでは、27-29節に記されている体をともなう復活とは何でしょうか。27節に書かれているように、主イエスにはさばきを行う権威が与えられています。聖書は、私たちが住んでいる世界が終わる時が来ることと、その世の終わりの時にはすべての人が裁かれることを教えています。28節で、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。」と書かれています。これが、世の終わりの裁きの時を意味しています。聖書は、人間は目に見える体と目に見えない魂が一つになって生きていると教えています。そして、人間の体が死ぬときに、目に見える体は朽ちて骨になり、やがて土に戻ります。しかし、魂はそのまま残ります。イエス・キリストを信じる者の魂は、パラダイスと呼ばれるところへ行き、主イエス・キリストと共にいて、そこで体が復活する時を待ちます。肉体はありませんが、魂は生きていた時と同じ意識と記憶をもって、主のもとで平安に過ごしています。そして、世の終わりの裁きのとき、新しい霊的な肉体が与えられて、永遠に天国で神とともに生きることになります。一方、イエス・キリストを信じない人の場合は、体が死ぬと、同じように体は土に戻りますが、その人の魂は「よみ」あるいは「ハデス」と呼ばれる場所に映され、苦しみの中で体の復活の時を待ちます。そして、世の終わりの裁きの時に、同じように霊的な体が与えられるのですが、その人は永遠に神から引き離されて、地獄と呼ばれるところで、永遠の苦しみを味わい続けなければなりません。だから、もう一度言いますが、イエス・キリストを信じる信仰とは、人の人生にちょっと良いものを加えるものではなく、私たちを永遠の祝福に移してくれる、永遠に生きるか死ぬかの人間にとって最も大切な選択なのです。あなたは、今、どちらの永遠にいますか。永遠のいのちですか、永遠の滅びですか。聖書の福音、良い知らせは、24節です。「私の言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。」

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