2020年6月21日 『イエスに関する様々な証言』(ヨハネ5章30-47節) | 説教      

2020年6月21日 『イエスに関する様々な証言』(ヨハネ5章30-47節)

 ヨハネの福音書の5章は、主イエスが38年間寝たきりだった病気の人を癒すという素晴らしい奇跡の業によって始まりました。この奇跡はその人にとって言葉で表せないほどの喜びでしたから、すべてめでたしめでたしで終わるはずだったのですが、このことがきっかけで主イエスはユダヤ人たちから殺されそうになっていました。何が原因かと言うと、主イエスがその病人を癒すという奇跡を行われたのが安息日の土曜日であったこと、また、主イエスが自分が神であると言われたことでした。ユダヤ人たちは主イエスを神だと信じていないので、自分を神だという人間は死刑にすべきだと考えたからでした。それで、先週語った19節から29節のところでは、彼らに自分が神であることを詳しく説明されました。ただ、主イエスご自身がいくら自分が神であると主張しても、聖書の教えに従えば、その発言が正しいことを証明するためには、少なくとも二人の証言者が必要でした。裁判を行う時は、二人または三人の証人が証言することによって、すべてのことが本当だと認められるという決まりがありました。それで、今日の箇所の前半部分、31節から38節までのところで、主イエスは、自分以外に自分が神であることを証言するものとして3つのものについて話しておられます。だから、ユダヤ教の指導者たちは、それらの証言を認めて、イエスを救い主メシアだと信じなければならないと、主は言われたのです。

(1)キリストを証しするもの(31-38節)

a) バプテスマのヨハネ
 33節に「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして、彼は真理について証ししました。」と書かれています。ここのヨハネは、この福音書を書いたイエスの弟子のヨハネではなくバプテスマのヨハネです。そして、「真理」とは主イエスのことを指しています。バプテスマのヨハネは、主イエスが神の子としての働きを始める直前に400年ぶりに現われた旧約聖書の時代の預言者でした。彼は、主イエスのために準備を道を備える働きとして、人々に悔い改めのバプテスマを行っていましたが、その働きをしていた時に、彼は主イエスについてこう言いました。「私よりも力ある方が私の後に来られます。私にはかがんでその方の履物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」(マルコ1;7-8)彼は、主イエスが自分よりもはるかに偉大な方であり、自分はその方の奴隷になる資格もないと言いました。履物のひもを解くというのはもっとも身分の低い奴隷がする仕事でした。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、主イエスは聖霊によってバプテスマを授けると言っています。これはどういう意味でしょうか。ヨハネのバプテスマは、悔い改め、そして罪から離れる意思を示す洗礼でした。これは人が霊的に生まれ変わるプロセスの始まりです。一方、主イエスが聖霊によってバプテスマを授けるときは、聖霊の力が人々に注がれて、その人が新しくされることを約束するものです。主イエスは、私たちに、罪が赦されることだけではなく、罪の生き方から離れて主イエスのために生きる力を私たちに与えることを約束してくださるのです。主イエスは、バプテスマのヨハネが始めた霊的な働きを完成したくださる方です。

b)主イエスの奇跡の働き
 第二の証言は、主イエスの奇跡の働きです。36節を読みましょう。「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」バプテスマのヨハネの証言には重みがあります。というのは、主イエスが彼について「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。」と言われているからです。しかし、それがどんなに重大な証言であるとしても、主は、人間の証言によって自分が神であることを証明しようとしておられるのではありません。ヨハネの証しよりもすぐれた証しがあると言われました。それは主イエスが行われる奇跡の働きです。ただ、主イエスの奇跡はすべて父なる神様から成し遂げるように命じられた働きでした。主イエスの奇跡は、人の注目や人の称賛を受けるために行われたものは一つもありません。すべて、父なる神の御心の中で、誰かを特別に助けるため、特別に教えるためになされたものです。主イエスは、神ですから、地上で働いておられる間も、神としての力を用いることはできたはずですが、父なる神の御心でなければ、決してその力を用いることはありませんでした。主イエスの奇跡を信じることができないと言う人がたくさんいますが、その人たちは、主イエスを普通の人間のレベルで考えているから、イエスの奇跡を信じられないのです。福音書に登場する主イエスは、永遠の存在の中で本当にごく一瞬、私たちと同じ姿をとってこの世に来られた時の姿です。主イエスの本当の姿ではありません。聖書は、この世界とその中にあるすべてのものは、主イエスによって、主イエスのために造られたと教えています。そして、私たちが住む世界が秩序正しく動いているのも偶然ではなく、三位一体の神がきちんとコントロールしておられるからです。地球は一日24時間で一回転していますが、このスピードが全然おちませんし、まったく正確に同じ時間で回っています。これは偶然ですか?違います。神様がコントロールしておられるからです。それほど偉大な神である主イエスにとって、聖書に出てくる奇跡のわざを行うことは、いわば朝飯前の簡単なことなのです。そして、このイエスの奇跡こそ、イエスが神であることを証明しているのです。

c)父なる神のことば
三番目の証言者は父なる神様です。37節で主は言われました。「わたしを遣わされた父ご自身がわたしについて証しをしてくださいました。」福音書の中で、父なる神が言葉で、イエスを神であることを証言された出来事が2回記されています。一つは、主イエスが洗礼を受けられた時で、その時に、天が開けて天から声がして、父なる神様が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。また、主イエスが弟子のペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて高い山に登られた時に、突然、主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣が光のように白くなったという出来事がありました。この時も、雲の中から「これは私の愛する子。わたしは、これを喜ぶ。彼の言うことを聞け。」という父なる神の声が聞こえました。旧約聖書の時代には、神様がアブラハム、モーセ、ギデオンなど、人々に直接語り掛けることがありました。もちろん、ユダヤ教の指導者たちは、そのことを知っていました。しかし、主イエスが37節で、「あなたがたは、一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。」と言われました。それは、彼らが主イエスを神と信じない不信仰のゆえに、神の姿を見ることも、神の声を聞くこともできなくなっていたからです。新約聖書の時代を生きる私たちには、聖霊が、神を信じる者たちの心に語りかけてくださいます。ローマ書の8章16節にはこう書かれています。「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」神様は、いつでも、私たちに、「お前は私の子どもだ」と証言してくださるとは、なんと光栄なことでしょうか。

(2)キリストを信じる方法(39-47節)
 これまで、述べて来たように、主イエスが神であることを証言するものがいろいろありますが、それでも、ユダヤ教の指導者たちはイエスを神であると信じることを拒否していました。彼らは、宗教の専門家ですから、旧約聖書のことは普通のユダヤ人よりも、はるかに詳しく知っていたはずです。ただ、彼らは、知識として頭では旧約聖書のことをよく知っていましたが、それを自分へのメッセージとして受け止めることをせず、み言葉に従って行動することもなかったために、み言葉が私たちに与える救いの祝福をまったく経験していませんでした。パリサイ人たちは、律法を守ることにいのちを掛けていたので、聖書の本当に細かいところまで調べていたのですが、イエスを神と認めようとしませんでした。彼らは聖書の一字一句、あまりにお細かい点まで調べていたために、「木を見て森を見ず」という言葉のように、旧約聖書全体のテーマであった、救い主メシアについて何も理解していなかったのです。そのような彼らに対して主イエスは40節でこう言われました。「あなたがたは、いのちを得るために、わたしのもとに来ようとはしません。」彼らの不信仰の原因はここにありました。イエスのところに来ようとしなかったのです。彼らは旧約聖書のことはよく学んでいましたが、彼らは律法を守ることによって自分が正しい人間であることを周りの人々に見せびらかそうという魂胆があったので、主イエスのところに来ようとしませんでした。イエスのところに来るためには、自分の罪を認めなければなりません。彼らは、何とかして自分の力で永遠のいのちを手に入れようとしていたのです。しかし、それは絶対に不可能です。イザヤ書の中に、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(64:6)と書かれているからです。私たちは、人間の間で、どちらがきれいだとか汚いとかと比べますが、神様の聖さと人間の聖さは天と地ほどの違いがあるのです。誰でも、自分の罪を認めてイエスのところに来ない限り、罪からの救いはありません。今でも、多くの人が、聖書を学び、永遠のいのちを得たいと思っていながら、主イエスを信じる決心ができないのは、主イエスのところへ来ようとしないからです。人が救われないのは、神がその人を受け入れてくださらないのではありません。イエス・キリストによる罪からの救いと永遠のいのちの約束は、誰でも自由に、ただで受け取ることができるように、神様はすべての人に向けて差し出しておられます。人が救われないのは、そのように神様の恵みによって差し出されている救いの福音を受け取ろうとしないからです。
 なぜ、彼らがキリストのもとへ行こうとしないのか。主は42節でこう言っておられます。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちには神への愛がないことを。」ユダヤ教の指導者たちは、聖書をよく知っていました。聖書の中の律法を細かいところまで守っていることを自慢していましたが、肝心なところが欠けていました。神様を愛する心がなかったのです。彼らが、宗教に熱心だったのは、神様を愛していたからではなく、自分が正しい人間であることを周りの人間に認めさせるためでした。そのために、主イエスの前で、自分の罪を悔い改めて、イエスを救い主として受け入れる気持ちが全然なかったのです。彼らが待っていたのはイエスのような救い主ではなく、ローマ帝国をやっつけて自分たちの国を強くしてくれるような、自分に都合の良い救い主だったのです。主イエスが、43節の後半で皮肉を込めて次のように言われました。「もし他の人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」実際に、そういうことが歴史の中で起きました。実は、主イエスの時代に自分がメシアだと名乗る人物が次々に現われていたのですが、紀元66年ごろに、バル・コクバという人物が現れ、自分がメシアだと言いました。当時、ユダヤ人の間で非常に尊敬されていたユダヤ教の教師のアキバという人物が、この男をメシアだと信じたので、多くのユダヤ人が彼をメシアだと信じ、その結果、彼をリーダーとしてローマ帝国に対するユダヤ人の暴動が起きたのです。しかし、その暴動はローマ帝国によって完全につぶされ、結局エルサレムの町も神殿も完全に破壊されて、その時から、ユダヤ人は自分の国を失いました。偽キリストは、今なお、現れていますが、偽キリストを信じることは本当に危険です。
 さらに、主イエスは、心の頑ななユダヤ人に対して厳しい言葉を言われました。彼らは旧約聖書の専門家であり、特に、モーセから受けた律法を守っていることを自慢していましたが、実際には彼らはモーセの言葉をも信じていなかったのです。主イエスが45節から47節の箇所で何を言おうとしておられるのでしょうか。それは、旧約聖書が教えていることは、すべてイエス・キリストのことであるということです。旧約聖書は39の書物が集められています。様々な書物があり、内容もみな違っていますが、共通して流れているテーマがメシアとよばれる救い主が来られるという預言でした。特に、モーセが直接関係することとしては、「青銅の蛇」事件というのがあります。モーセは、エジプトの奴隷状態から脱出して神様が約束された国に向かって旅をしていたイスラエルの民のリーダーでしたが、ある時、荒野の旅につかれた者たちがモーセに文句を言って反抗しました。その民に対して神様が裁きをくだして、彼らに毒蛇を送りました。蛇にかまれた民は死にました。そこで民は助けを求めたのですが、神様は不思議な助けを与えました。神様はモーセに「青銅で蛇を作って、それを竿の先につけて高く掲げなさい。」と命令しました。モーセは神様に言われるとおりにしました。すると、蛇にかまれた人々がその青銅の蛇を見上げると、助かったのです。彼らは自分で自分を助けることはできませんでしたが、蛇を見上げるといのちが助かりました。この竿の先につけられ、高く掲げられた青銅の蛇は、主イエスの十字架を指し示すものでした。このほかにも、主イエスのことを指し示す出来事や、主イエスに関する預言が旧約聖書にはたくさん記されています。それにもかかわらず、ユダヤ教の指導者たちはイエスを信じませんでした。主イエスは、46,47節でこう言われています。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。しかし、モーセが書いたものをあなた方が信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」ユダヤ教の指導者たちは、聖書を自分の都合の良いように読んでいたので、主イエスを信じることができませんでした。確かに、聖書には難しい部分があります。しかし、私たちは、聖書の権威を確信しなければなりません。主イエスご自身が、旧約聖書が書いているのは自分のことだと言われました。私たちは、聖書の権威の前に謙遜になって、聖書の言葉を読まなければ、主イエスを信じることはできません。主イエスを信じるために必要なことは、実は簡単なことです。聖書を、疑わずに、聖書の権威を認めて読むことです。そして、その聖書が語っている主イエスを知り、主イエスを愛して、主イエスのもとに来ることなのです。主イエスは、このようにしてご自分のもとに来る人を、誰一人、退けることはありません。

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