2020年7月5日 『嵐を鎮める主イエス』(ヨハネ6章16-21節) | 説教      

2020年7月5日 『嵐を鎮める主イエス』(ヨハネ6章16-21節)

 先週は、主イエスが大人の男性だけで5000人もいた大群衆に、5つのパンと2匹の魚だけで、みんながお腹がいっぱいになるほどの食べ物を与えたという主イエスの奇跡について読みました。この奇跡を体験した大勢の人々はイエスの奇跡に驚き、主イエスこそ約束の救い主だと思いました。ただ、彼らは、救い主について間違った考えを持っていました。主イエスを自分たちの王様にすれば、自分たちの生活はずっと良くなるはずだと思ったので、無理やりイエスを王様にしようとしました。そのため、主イエスは、群衆を解散させ、自分は一人だけで山に登られました。その時に、主イエスは、12人の弟子たちを無理やり舟に乗せて、ガリラヤ湖の反対側のカペナウムの町に戻らせました。主イエスは弟子たちの心をも見抜いておられました。弟子たちは、主イエスの側近として働いていました。群衆がイエスの奇跡に熱狂して様子を見ると、自分たちがイエスの弟子であることをちょっと自慢したい気分になったでしょう。群衆が主イエスに向かって「私たちの王様になってください!」と叫んでいるの見ると、もしかすると、ペテロは、心の中で密かに、「主が王様になったら、俺は首相になれるだろう。」とか、イスカリオテのユダは「俺は、財務大臣になるんだな。」などと、勝手に想像していたかもしれません。ですから、主イエスは、この時、群衆の人々のこと以上に、弟子たちのことを心配していました。彼らがイエスの弟子であることの意味を完全に誤解してしまう危険性があったからです。主は弟子たちからどのように祈ったらいいですかと尋ねられた時に、彼らに祈りを教えられました。それが、私たちが今なお礼拝で祈っている「主の祈り」ですが、その中にも「御国が来ますように」という祈りが含まれています。日本語では「御国」となっていますが、ギリシャ語では、「神の王国が来ますように」となっています。イエスの弟子たちは、主イエスから教えられたように祈っていたはずですから、今、群衆がイエスに自分たちの王になってほしいと熱狂的に願っている状況を見て、自分たちの祈りが答えられる時が来たと思ったとしても不思議ではありません。主イエスが、主の祈りの中で「神の王国が来るように」と祈ることを教えられたのは、イスラエルにローマからの独立をもたらす王国が来るように祈りなさいと言われたのではなく、神様が、主イエスを信じる者一人一人の心の中で心の王様となって、その人が神様によって霊的に支配されるようにという祈りだったのですが、弟子たちも、群衆と同じように勘違いしていることを、主イエスは見抜いておられたのです。それで、主イエスは、彼らを熱狂的な群衆の流れに流されないようにと、弟子たちだけを無理やり舟に乗せて、向こう岸のカペナウムの町へ行くように命令しました。

(1)超自然的なしるし(16-19節)
 弟子たちは、なぜ、イエスが群衆の求めに応じて王様になろうとしないのか分からなかったと思います。また、彼らは、この熱狂的な雰囲気をもっと長い時間味わっていたかったと思いますが、主イエスが、ちょっと厳しい雰囲気で「舟に乗って、向こう岸に行きなさい」と言われたので、本当は行きたくなかったのですが、イエスの命令に従って、舟に乗り込んで、彼らの町カペナウムに向かって舟をこぎだしました。彼らは、自分たちの舟に主イエスが乗っていないことに不安を感じていたと思います。春の頃のガリラヤ湖は、周囲に黄色い花が咲いて、本当に美しいです。そして、普段は本当に静かな湖です。2013年に教会から聖地旅行に出かけたときに、ガリラヤ湖で舟に乗る体験をしました。普通はエンジンのついた舟に乗ることが多いのですが、その時は、ガイドさんのすすめで、昔ながらの手でこぐ舟に乗り、船を湖から少し漕ぎ出してもらい、沖に出たところでしばらく舟をとめてもらいました。そして、皆で静まってそよ風の音、さざ波の音を聞いて、本当にリラックスできる時を持ちました。そのように、普段のガリラヤ湖は本当に穏やかなのですが、ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルのところにあり、周囲はほぼ山に囲まれていて、高い山は700メートルあります。ガリラヤ湖はすり鉢の底にあるような湖です。この山の斜面を風が一気に1000メートル近く吹き下ろしてガリラヤ湖の水面にぶつかると、湖の上は突然、激しい嵐に襲われることになります。激しい風が水面をたたきつけて、大きな波が立ち上がるので、彼らが乗っていたような12人が乗るといっぱいになるような小さな舟にとって、非常に危険な状態になります。この時、弟子たちが、カペナウムの町に戻るために、舟をこいでいた時に、まさに、そのような嵐が起きました。18節に「強風が吹いて湖が荒れ始めた」と書かれています。このような嵐は、ガリラヤ湖ではたびたび起きていました。イエスの弟子たちの中にはペテロやヨハネのように、元々、ガリラヤ湖で漁師をしていた者たちもいました。彼らにとっては、ガリラヤ湖で嵐が吹くことは、当然のことと知っていたはずで、何度も漁をしながら、嵐を経験していたはずです。彼らは強風に悩まされながらも、なんとか、無事に湖の向こう岸に行けるように、必死になって舟をこいでいたことでしょう。ただ、なかなか舟は自分たちの思い通りには進みませんでした。彼らが力いっぱい舟をこぎ続けていましたが、いくら漕いでも、19節によると、彼らの舟は岸から5,6キロのところまでしか進んでいませんでした。
 そのころ、主イエスは、一人で、山にこもって父なる神様に向かって祈っておられました。しかし、イエス様は、全知全能の神様ですから、弟子たちがどのような状況に置かれているか、すべて知っておられました。また、ヨハネの10章では、主イエスは自分のことを「良い羊飼い」と言っています。そして、良い羊飼いは、けっして羊を見捨てることがなく、むしろ羊たちのために自分のいのちを捨てると言っておられます。主は、群衆たちがイエスを自分たちの王にしようとしたことでかなりいい気になっていた弟子たちを訓練するために、あえて、この経験をさせられたのです。そして、主は、最もよいタイミングで弟子たちを助けることを、あらかじめきちんと計画しておられました。もちろん、12弟子たちはそんなこと知りませんから、自分たちがもしかすると死ぬかもしれないと恐怖に襲われていました。
彼らはガリラヤ湖の嵐には慣れていたはずですが、この時の嵐は彼らさえも恐怖を感じるほどの強い嵐でした。この弟子たちの姿は、私たちの人生を映し出しているような気がします。人生には、突然、思いがけないことが降りかかることがあります。大きな困難に直面すると、私たちは自分が無力であり、自分一人で何とかしなければと必死に戦わなければならないことがあります。この時、弟子たちも、自分たちだけで孤独な戦いをしていました。
 そんな時でした。真っ暗な夜、強風が吹き荒れる中を、弟子たちは、誰かが何の困難もなくすいすいと湖の水面を歩いて近づいてくるのを目撃しました。あまりにもそのスピードが速かったので、マルコの福音書を見ると、主イエスは、まるで彼らを通り過ぎるように見えたほどです。彼らは嵐の中で必死に舟を漕いでもなかなか前に進まないのに、主イエスはすいすいとすごいスピードで湖の上を歩いておられました。19節の最後に、弟子たちは、それを見て恐れたと書かれていますが、他の福音書には、彼らは、イエスの姿を見て、幽霊が近寄って来たのだと思って、皆が、恐怖でパニックになったと書かれています。激しい風が吹き、しかも真夜中ですから、弟子たちには、近づいて来る人物の顔は見えなかったのです。彼らは、目の前の嵐ばかりを見ていましたので、近づいてこられたイエスがよく見えませんでした。私たちも、人生で困難に直面した時に、その困難ばかり見て、神様のことを忘れてしまうと、この時の弟子たちのようにパニックになります。しかし、この嵐の時にも、主イエスがともにおられることを確信することができれば、私たちはパニックになることはありません。彼らはなぜ、幽霊だと思ったのでしょうか。当然のことですが、彼らは人間が水の上を歩くことなどできないと思ったからです。そして、彼らは、主イエスが湖の上を歩けるとも思っていませんでした。彼らは、まだイエスが、この天地を造られた神であることを完全には理解できていませんでした。人間は水の上を歩くことはできませんが、全能の神、天地を造られた創造主なる神であるイエスにとって水の上を歩くことなど簡単なことです。ただ、ここでは、イエスが水の上を歩いたことが大切なのではありません。それはどうでもいいことです。大切なのは、困り果てていた弟子たちのところに、主イエスが助けに来てくださったという点が大切なのです。イエスは、弟子たちがパニックになっているのを見て、彼らに向かって叫ばれました。「わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」という言葉は、昔、モーセが神に向かって名前を尋ねたときに、神が言われた「わたしはある」という者だ」と言われた時と同じ言葉です。これは、この世界に存在するすべてのものの根源である神、また、昔も、今も、これから先も永遠に存在される神を表す言葉です。
 12人の弟子たちが、この時、もっとも求めていたものは、主イエスがそばにいてくれることでした。彼らは、主イエスから、舟に乗ってカペナウムに戻るように言われた時、正直、彼らは自分たちだけで行きたくはなかったのです。彼らにとって主イエスがともにおられることがどうしても必要でした。従って、彼らが湖の上に立っているのが主イエスだと分かった時に、疲れ果てていた弟子たちは、びっくりすると同時に喜びにあふれて元気を取り戻しました。ヨハネの福音書には書かれていませんが、他の福音書を見ると、ペテロは、イエスが舟にやって来るまでの時間が待てなくて、イエスに向かって叫びました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」すると主イエスが「来なさい」とペテロに言われたので、ペテロは、大胆にも、まだ真っ暗な湖に嵐が吹き荒れていましたが、舟から足を踏み出してイエスのほうに向かって歩き始めました。ペテロは、何歩かは歩いたのですが、イエスから目を離して強風を見ると、急に怖くなりぶくぶくと沈み始めました。すすと、イエスがすぐに手を伸ばして、彼の手をつかんで「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」とペテロに言われました。ここは、本当に惜しかったですね。もう少しペテロがイエスだけを見つめて歩いていたら、イエスのところまで行けたはずです。そうなると、ペテロは人類初の水上歩行をした人間になっていました。しかし、ペテロは、歩き出してすぐに現実を見て怖くなり、主イエスの力を疑ったために、沈んでしまいました。その時、主イエスはすぐに手を伸ばしてペテロの手をつかんで彼を水の中から助け出されました。この後、主イエスとペテロは舟に乗り込みましたが、マタイの福音書によると(14章32節)、二人が舟に乗り込むと、その瞬間に嵐がやみました。ヨハネの福音書では、21節に、舟に残っていた11人の弟子たちはイエスを喜んで舟に迎えています。彼らにとって主イエスがともにおられること、それが一番の喜びであり、力であり、助けであったからです。すると、不思議なことに、あれほど前に進むことができなかった舟でしたが、舟はすぐに目的地に着きました。もちろん、嵐がやんだために、舟を簡単に漕げるようになったので、早くカペナウムに着くことができたのだと思いますが、それに付け加えて、主イエスがともにおられることで、彼らの心が平安と喜びでいっぱいになり、あれこれ主イエスに感謝の気持ちを表し、主イエスと話し合ううちに、気が付いたら、彼らの舟がカペナウムに着いていたのではないでしょうか。大好きな人と一緒に過ごす時間というのはあっと言う間に過ぎ去るからです。
 
 この舟というのは、私たち自身を表しているように思います。主イエスを離れているときは、嵐が襲うこともあり、その中で一生けんめい舟を漕いでも、うまく前に進むことができません。それはつらい時間でしょうし、疲れ果ててしまう時間です。しかし、主イエスは、いつも私たちを見ておられ、必要な時に私たちを助けに来てくださるお方です。舟はガリラヤ湖特有の強風に激しく揺り動かされていましたが、主イエスが乗り込んだとたん、嵐はピタッとやみました。これもこの世界を造り、コントロールしておられる神である主イエスにとっては簡単なことでした。私たちの人生も、主イエスとともに生きる時に、平安が与えられ、問題を乗り越える力が与えられます。もし、あなたが、今、何らかの人生の嵐を経験しておられるなら、何をすべきでしょうか。人生の暗闇を通っておられる方、今、何をすればよいでしょうか。この時の弟子たちと同じように、主イエスは、必ずあなたを助けに来てくださいます。それを疑わずに信じましょう。ペテロがイエスから目を離した途端に沈みかけたとき、主イエスがすぐに手を差し出して彼を助けてくださいました。私たちも主イエスが差し出してくださる手を拒まずに、その手に自分を委ねましょう。主イエスを信仰の目で見上げ続けましょう。自分の舟に主イエスに入ってもらいましょう。その時に、あなたの心に喜びと平安が訪れ、自分が行くべき場所まで、主がまっすぐに導いて行ってくださいます。

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