2020年7月12日 『何のために働くのか』(ヨハネ6章22-29節) | 説教      

2020年7月12日 『何のために働くのか』(ヨハネ6章22-29節)

 先週の説教のテーマは嵐を鎮めた主イエスでした。主イエスは、5つのパンと2匹の魚で1万人以上の大群衆のお腹をいっぱいにしたという大きな奇跡をおこなわれましたが、その後、群衆が自分を無理やりイスラエルの王にしようとしたので、主イエスは群衆を解散させ、12弟子たちを無理に舟に乗せて、湖の反対側にあるカペナウムに行くようにと命じ、そして、ご自分は、一人きりで山にのぼり、祈りに専念しておられました。その後弟子たちが乗った舟が嵐に出くわしたため、弟子たちは非常に恐れたのですが、主イエスが湖の上を歩いて彼らに近づき、舟に乗られると、その瞬間に嵐がぴたっとやむという奇跡が起こりました。弟子たちは、主イエスが来てくださったことを本当に喜び、主イエスがともに乗っておられた舟は、何のトラブルもなくカペナウムの町に着きました。主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の西側のカペナウムの町にいます。そして、16節から記されている出来事は、その次の日のことです。場面は、前の日に主イエスが大きな奇跡をおこなわれた湖の東側です。イエスの弟子たちも、主イエスも、すでにカペナウムに向かった後の出来事ですから、主イエスも12人の弟子たちも、そこにはいませんでした。大きな奇跡の翌日、まだ群衆の一部が奇跡が行われた場所にとどまっていました。主イエスは、群衆を解散させたのですが、彼らは、もう一度主イエスからパンをもらいたいという気持ちからか、 他の奇跡が見たかったのか、あるいは、もう一度自分たちの王様になってもらおうと頼みたかったのか、とにかく、彼らはもう一度主イエスに会いたかったのです。彼らは主イエスを探していましたが、不思議なことに気が付きました。16節を読みましょう。「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。」彼らは、昨日、彼らがいた場所には、舟は一艘しかなく、イエスは弟子たちをその舟に乗せて、カペナウムへ行かせたのを知っていました。すると、イエスは、今、どこにいるのか?彼らは、イエスはまだ一人、こちら側に残っているかもしれないと思ってイエスを探しました。彼らは、その夜に何が起こったのか知りませんでした。
 23節を読みましょう。「すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。」ティべリアはガリラヤ湖の西側にある大きな町ですが、その街から、人々が、いくつかの舟に乗って5つのパンと2匹の魚で1万人以上の人がお腹がいっぱいになった、その奇跡が起きた場所にやって来ました。 なぜ、ティベリアの人々が舟にのって、主イエスが奇跡を行われた場所に来たのか、その理由は書かれていません。主イエスが何かものすごい奇跡をおこなったといううわさがティベリアの町の人々にまで届いたので、ちょっと様子を見に来たのかもしれませんし、あるいは、そこに大勢の群衆がいるので、船で人々をガリラヤ湖の西側に運べるビジネスチャンスを狙ってやって来たかもしれません。あるいは、その人々は、ティベリアの漁師で、夜中に漁をやっていた時に、弟子たちが経験した嵐にあって、反対側に避難をするために来たのかも知れません。ただ、数艘の舟が来たことは、残っていた群衆にとってはラッキーでした。歩いてまた西側に戻るよりも、舟に乗って帰ったほうがましだからです。残っていた群衆の一部の人たちも、イエスを探してもみつからないので、24節にかかれているように、彼らは、ティベリアからやって来た舟に乗って、イエスがいつも活動しているカペナウムに行って、そこでイエスを探すことにしました。ここで、考えなければいけないことは、この人々は、なぜイエスを探しているかということです。
 この人々がイエスを探しているのは、イエスを礼拝するためではなく、また、イエスから教えを聞くためでもありませんでした。彼らが前の日に経験した、主イエスによる大きな奇跡のわざ、それをもっと見たい、もっと経験したい、という自分勝手な理由だったのです。彼らは、イエスに出会えば、また、何か得なことがあるにちがいないと思っていました。言い方を変えると、主イエスに、自分たちのために、何か得になることをやってくれということでした。

 群衆は、カペナウムに着くと、イエスを探し始めました。彼らがイエスを見つけたときに、彼らが質問したことは、「先生、いつここにおいでになったのですか。」ということでした。この質問からも明らかなように、彼らには、主イエスを、救い主メシアとして礼拝しようという思いはありませんでした。彼らにとって、イエスは大きなふしぎな奇跡をおこなう人物でした。舟が一艘しかなく、イエスは乗らずに弟子たちだけが舟に乗って反対側に向かった。イエスが湖のほとりを歩いている姿は見ていない。じゃあ、イエスはどうやって湖の反対側に来たのか。彼らが関心を持っていたのはそんなことでした。
 主イエスは、彼らがどんな動機で自分を探しているのか、すべて見抜いておられたので、彼らの質問にはわざと答えられませんでした。その代わりに、彼らがまちがった動機で自分を探し求めていることを彼らに教えられました。26節を読みましょう。イエスは彼らにこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」ここでも、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」という言葉で話し始めています。これは、これから非常に大切なことを話すからよく聞きなさいという意味です。イエスは、人々の自己中心的な考え、物質主義的な考えをはっきり指摘されました。彼らは、イエスのところに行けば食べ物がもらえる、不思議な奇跡を体験できる、そういうことにしか関心がなかったので、主イエスはどういうお方なのか、主イエスは私たちに何をしてくださるのか、そのような霊的なことを求める気持ちがまったくありませんでした。彼らは心が満たされることよりも、おなかが満たされることを求めていたからです。彼らは、確かに、主イエスが5つのパンと2匹の魚で1万人以上の人々のおなかをいっぱいにするという奇跡を体験していました。彼らは主イエスのしるしを見てはいたのですが、そのしるしが教える霊的な意味については知ろうという気持ちもありませんでしたし、まったく理解していませんでした。
 そして27節で、次のように言われました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつもでなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」ここで、主イエスがやってきた群衆に言おうとしておられることは何でしょうか。主イエスは、ご飯を食べるために働くのは良くないと言っておられるのでしょうか。そんなことはありません。聖書は、地上の生活で、勤勉に働きなさいと教えています。パウロが立ち上げたテサロニケ教会には、怠け者で、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいたようです。そこで、パウロは、そのような人たちに、イエス・キリストによって命令しています。「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」したがって、私たちは、怠惰な生活をするのではなく、きちんと落ち着いて仕事をしなければなりません。また、主イエスは、なくなってしまう食べ物、つまり私たちが毎日食べている食べ物のことですが、そんな食べ物は必要ないと言われたのでしょうか。それも違います。というのも、そもそも、主イエスが5つのパンと2匹の魚で、大群衆のお腹をいっぱいにしたのも、大勢の群衆が自分のほうに来るのを見て、彼らがお腹がすかせていることを知った主イエスが、彼らをかわいそうに思って、彼らお腹を満たしてあげようという思いであの奇跡を行われたのです。主イエスが人々の肉体の健康を大切なこととして考えておられたことは確かです。ただ、肉体の健康以上に大切なことがあることを主イエスは、ここで、人々に教えておられます。「朽ちない食べ物」とは、私たちの魂を生かす霊的なもののことです。聖書は、私たちの肉体を外側の人と呼び、私たちの魂を内側の人と呼び、外側の人は日々衰えていくが、内側の人は日々新しくされると教えています。私たちは、あまりにも肉体のことだけを考えていて、自分の魂の状態については無関心ではないでしょうか。私たちは、一人一人、神様から時間や、才能やお金など多くのものを与えられていますが、私たちは、それを何のために使っているのでしょうか。この世の人は、私たちも含めて、なくなる食べ物のために、つまり、この世においてだけ価値あるのもののために用いていないでしょうか。私たちは、地上の生活で必要なものがありますから、もちろん、わたしたちは、なくなる食べ物のためにも働いているのですが、もっと大切なことは「なくならない食べ物、私たちの霊的ないのちのためにどれだけ働いているかということを私たちに尋ねておられると思います。ここで、「働きなさい」と訳されているギリシャ語は「努力する」という意味でも使われる言葉です。ですから、主イエスが「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」というのは、「永遠のいのちが養われるために熱心に努力しなさい。」という意味になります。
パウロは、自分の愛弟子だったテモテに向かってこう言っています。「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来るべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。」体を鍛えることは良いことです。しかし、それは体の健康をもたらしますが、訓練の効果が表れるのは体だけです。しかし、心の訓練によって人が敬虔な生き方を身に着ければ、その人の生活のあらゆる面が良い方向に変わります。私たちは、自分の信仰が成熟するために、自分がよりキリストに近い姿に変えられていくために、言い方を変えると、朽ちないいのちのためにどれだけの努力や訓練をしているのかが問われています。この主イエスの言葉は今の私たちに対する問いかけでもあります。私たちは、主イエスを信じてクリスチャンになりましたが、信仰、霊的いのちは、放っておいても自然に成長するものではありません。私たちがするべきことは本当に基本的なことです。毎日、聖書を読み、神に祈る生活を続けることです。主イエスが「働きなさい」と言われたのは、それを得るために努力をしなさいということです。主イエスは、またパンをもらえると思って自分のところにやってきた人々に、そのパンではなく、永遠のいのちに至る食べ物を得るために働きなさいと言われましたが、さらに、主は、いつまでもなくならない食べ物について、それは「人の子が与える食べ物です。」と言われました。主イエスは、わたしたちに、この亡くならない食べ物を与えるために、私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。イエス様は、求める者には、よろこんで、この永遠のいのちにいたる食べ物を与えてくださるのです。
 イエスが言われたこの言葉に対して、人々は何と答えているでしょうか。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」彼らは、確かに主イエスの言葉を聞いたのは聞いたのですが、自分の凝り固まった考えを通して聞いているので、主イエスが言われた言葉を正しく理解することができません。彼らは、イエスの言葉を聞いて、永遠のいのちを得るために何かをしなければならないと思いました。それで、彼らはどんなことをするべきかとイエスに尋ねているのです。一般的に、人が宗教を考える時には、善い行いをすることで天国に行けるという考え方をします。この時の群衆も同じでした。しかし、聖書の教えはこれと正反対です。人は善い行いをすることで永遠のいのちにいたる食べ物を得ることはできません。善い行いをすることは決して悪いことではなく、私たちは、いつも善い行いをするように聖書も教えています。ただ、私たちは、自分で善い行いだと思って何かを行ったとしても、罪人である私が「善い」と考えているだけで、その中には、自分が気づかない不純な動機や、自己中心的な考えが入り込んでいる場合が多く、」神様の目には純粋に良いものではないことがほとんどなのです。彼らが「神のわざ」と言っているのは、旧約聖書の律法の戒めを守ることであり、それを行うことが神のわざだと思っていました。それに対して、主イエスは、「神が遣わしたものをあなたがた信じること、それが神のわざです。」と答えられました。つまり、「神のわざ」とは、神様が私たちに第一に求めておられること、あるいは、神様が一番喜ばれること、それが「神のわざ」であり、それは、「神が遣わした者、すなわち、主イエスを救い主と信じることだと主は言われました。永遠のいのちは、主イエスが与えてくださるものですから、私たちは、主イエスを信じて、その約束を受け取るだけなのです。
神様が私たちに求めている私たちが行うべきこと、それは私たちの行いではなく、私たちが神を信じることなのです。神を信じるとは、まず第一に、イエスが神であることを受け入れることです。主イエスが私は神であると言われたのですから、それを信じることです。信仰とは、イエスが神であることを認めるところから始まります。主イエスがある時、弟子たちに、「あなたがたは私は誰だと言いますか。」と尋ねたときに、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と宣言しました。そのことを主イエスは非常に喜ばれました。それをすることが私たちの新しい生活のスタートなのです。イエスキリストは神ですと宣言することによって、あなたの生活のすべてが新しくなり、新しい人生がスタートします。

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