2020年7月26日 『いのちのパンイエス 2』(ヨハネ6章47-59節) | 説教      

2020年7月26日 『いのちのパンイエス 2』(ヨハネ6章47-59節)

 先週から、「いのちのパンイエス」と言うタイトルで説教をしていますが、今日はその2回目です。主イエスがガリラヤ湖のほとりで5つのパンと2匹の魚で1万人以上の人間がお腹がいっぱいになるほどまで食べさせるという大きな奇跡が起こりましたが、この奇跡に感動したユダヤ人の群衆がイエスを追いかけて自分たちの王様にさせようとしました。しかし、それは、主イエスがこの世に来られた目的ではなかったので、彼らに自分が誰であって、どんな働きをするためにこの世に来たのかを説明されました。その時、主イエスが言われた言葉が、「わたしは、天から下って来て人々に永遠のいのちを与えるパンである。わたしがいのちのパンです。」と言う言葉でした。今日の場面は、41節から始まっていて、ユダヤ人たちは主イエスの言葉に腹を立てて文句を言い始めました。ただ、この出来事の場所は先週までとは少し違っていて、カペナウムという町の会堂の中で出来事です。それは、今日の段落の最後になる59節に「これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」と書いてあるからです。それまで主イエスが語り掛けていたのは、5つのパンと2匹の魚の奇跡を体験してイエスを追いかけて来た群衆の人たちだったのですが、ここに出てくるユダヤ人たちとは、ただ、主イエスに王様になってほしいと願う、主イエスのことをあまり分かっていない群衆ではなく、主イエスに反感を抱いてその働きをやめさせようとしていた、はっきりとイエスに敵対していたユダヤ人たちでした。
 彼らに対して、主イエスは、もう一度繰り返して、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。そして、自分と旧約聖書のモーセの時代に神様がイスラエルの民に毎日与えてくださったマナという食べ物とを比べられました。モーセの時代、40年間砂漠を旅しなければならなかったイスラエルの民は、厳しい自然の中でたびたび飲むものがなくなったり食べるものがなくなるという大変なことを経験しました。砂漠の中でそのようなことが起きると、生きるか死ぬかのような状況になるため、イスラエルの民は、何度も神様やモーセに反抗しました。そのような神に反抗するイスラエルの民に対して神様が恵みとして与えられた食べ物がマナというウェハースに似た食べ物でした。神様は自分に反抗する人々にこの食べ物を40年間与え続けられました。人々がマナを食べて生き残るためにするべきことは、かがんで地面にあるマナを手で拾うことだけでした。実は、このマナはイエスを示す食べ物でもあったのです。マナは、神様に反抗する罪人のために与えられました。人がそれを食べるには、かがんで拾わなければなりません。かがむというのは自分を低くすることです。それから拾わなければなりません。マナがどんなに優れた食べ物だとしても、見ているだけでは体のいのちを支えることはできません。自分で手に取って食べなければなりません。ここに信仰の姿があります。主イエスはマナのように、神に反抗する人々に与えられるために、この世に来てくださいました。そして、主イエスを信じるために必要なことは、自分を低くして、自分の罪を認めて、そして、イエスを信じれば罪が赦されることを信じて主イエスを信じる決心をすることです。自分を低くして、実際にイエスを信じることなのです。マナは、食べる人にとって体のいのちを支えてはくれますが、目に見えない自分のいのち、霊的ないのちのためには何の働きもすることができませんでした。そして、マナは拾った日に食べてしまわないと、次の日には食べることができません。マナは一時的な食べ物で、人々の肉体のいのちを守るためだけの食べ物でした。そして、人々はマナを食べても、死ぬことから逃れることはできませんでした。ユダヤ人たちの先祖たちもマナは食べましたが、荒野で死にました。

 しかし、主イエスは51節でご自分のことを次のように言われました。「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」確かに、モーセの時代に神様がイスラエルの民に与えられた特別な食べ物マナは、彼らの肉体のいのちを支えるものでした。しかし、人間は、体だけで生きているのではありません。人間は、そもそも神様に造られた時から、他のすべての生き物とは別の作り方で、造られました。あらゆる生き物も人間もどちらも材料は同じです。土地の土から造られました。しかし、人間は土で形造られただけでは、まだ生きていませんでした。最後に、神様が人の鼻にいのちの息を吹き込まれて、初めて人間は生きるものとなりました。神様が吹き込んでくださったいのちの息が体と一つになって人間は生きているのです。いのちの息は、私たちの内にある魂です。だから、人はただお腹が満腹なだけでは本当の満足を感じられません。いのちの息である魂が生きていないと本当に満足することはできません。その証拠に、人々は生活が豊かになって食べ物に困らなくても、「自分はなんのために生きているのだろう」と悩み、苦しみます。この世にあるものは、決して私たちの魂を満たすことはできません。人間の心のむなしさ、空洞を満たすものが、天から下って来た生けるパンである主イエスなのです。主イエスは言われました。「誰でも、このパンを食べるなら、永遠に生きます。」この永遠に生きるというのは、肉体のことを言っているのではなく、私たちの魂が永遠に生きることが約束されているのです。では、いのちのパンを食べるとはどういうことか、具体的にはどんな意味があるのでしょうか。それを、ふつうのパンを食べることと比べて考えたいと思います。

 第一に、パンを食べるのはお腹がすいている人です。満腹の人は、おいしそうなパンを見ても食べたいと思いません。同じように、自分の心の状態、つまり、自分の中にある罪を知り、そこから解放されたいという欲求を持たない限り、人はイエスを信じたいとは思いません。多くの人はこの世の目に見えるもので満足して、これさえあれば何もいらないと思っています。しかし、目に見えるものは、いつなくなるか、変わってしまうか分かりません。聖書は、永遠に変わらない平安や喜び、希望、愛は、主イエスを信じることによって与えられると教えています。
第二に、パンは、実際に食べて自分の内側に取り入れない限り何の役にも立ちません。パン屋さんには最近本当においしそうなパンがずらっと並んでいます。しかし、どんなに近くでパンをじっと見つめていても、食べなければ美味しさを経験できませんし、体の栄養にもなりません。パンは朽ちの中に入れて食べて初めて、意味があります。主イエスの場合も同じです。主イエスについて、いろいろなことを知っていても、実際に主イエスを信じることをしなければ、私たちの生活には何の働きもしません。
主イエスの教えに感動する人、主イエスの十字架に胸を痛める人は多いですが、それだけでは自分の一部にはなりません。自分の決断で、罪を悔い改め主イエスを救い主と信じる時に、初めて、主イエスが私たちの存在の一部になるのです。
第三に、パンを食べるのは個人的な行いで、自分でやらなければ意味がありません。だれかに代わりに食べてもらうことはできません。私は、あなたのためにこのパンを食べてあげますと言っても、食べたものは食べた人にしか働きません。私たちが永遠のいのちを得るのも同じです。自分が罪赦されて永遠のいのちを持つためには、自分が主イエスを信じなければなりません。自分の救いを他の人に代わりにやってもらうことはできないのです。

 53節から58節まで、主イエスは、ご自分が「いのちのパン」であることを繰り返し語っておられますが、その中で、主は3つのことを約束しておられます。その約束とは何でしょうか。第一に、永遠のいのちが与えられるということです。私たちは、この地上においても、主イエスを信じることによって、聖書の言葉に励まされ支えられ、またどんな時も神様に祈ることによって教えられ、慰められ、希望を与えられます。クリスチャンとして地上で生きることも素晴らしいのですが、そのすばらしい生活は肉体の死ぬときに終わるのではありません。その後、もっと素晴らしい世界での生活が待っているのです。だから、クリスチャンは死を恐れる必要はありません。第二の約束は54節の終わりの分部に記されていますが、「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」と書かれています。この約束は、6章で繰り返し語られています。39節、40節、44節でも語られています。私たちは、肉体が死ぬとき、私たちの目に見えないいのちである魂が肉体から離れます。肉体はやがて土に帰りますが、クリスチャンの魂はパラダイスと呼ばれる場所に導かれ、魂だけの状態ですが、その時までの記憶も意識もはっきり持って、父なる神と御子イエス、そして先に天に召された人々との交わりに入れられます。そして、この世界は神様の「光あれ」によって始まりましたが、始まりがあるものは終わりもあります。その時が終わりの日です。その終わりの日に、私たちの魂は、主イエスが復活された時と同じように、見た目は同じですが質がまったく新しくなった栄光の体をもって復活すると約束されています。そして、新しい天新しい地と呼ばれる世界で、まったく新しい者として、神と仲間のクリスチャンたちと永遠に生きるようになるのです。これは本当に大きな希望です。地上では、私たちの肉体は弱く、時には様々な不自由さがあります。しかし、この終わりの日には、強い、栄光に満ちた体で復活すると約束されているのです。先週召された澤山邦男兄は、背が高くスポーツマンでしたが、最近は病気によって非常に弱い体になっていました。ご本人もどれほど辛かったことでしょうか。どれほど悔しかったことでしょうか。しかし、神様の約束は、今はすでにすべてのハンディから解放されていますが、終わりの日には、若い時のフレッシュでエネルギーに満ちた体、しかもまったく質の違う栄光の体で復活することが約束されています。すべてのクリスチャンは終わりの日に勝利者として復活するのです。第3の約束は、56節に書かれています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」主イエスを信じる者は、みな、地上で生きている間も、天国に移されてからも、つねに、主イエスとともに生きることができると約束されています。イエス・キリストは「インマヌエルの神」とも呼ばれます。インマヌエルとはヘブル語で「神が私たちとともにおられる」という意味です。私たちは、聖書の言葉を主イエスが語られた言葉として聞くことができます。また、祈りの中で私たちはどんなことでもイエス・キリストに向かって話すことができます。クリスチャンにとって、最も素晴らしいことは、私が一人で生きているのではなく、いつも、私を自分のいのちを捨てるほどに愛してくださった主イエスとともに生きているということです。普段、私たち、何事も起きていない時は、「誰にも頼らなくても一人で十分生きていける」と思います。しかし、人生には思いがけないことが起きます。自分が望んでいるような人生ばかり送れるわけでもありません。いろいろな悩みがあり、ストレスがあり、葛藤があります。それを全部ひとりで背負うことは本当に大変です。しかし、私たちは、イエス・キリストにより頼むことができます。イエス・キリストに助けられて生きることができます。それは、地上の生活において本当に大きな力になります。優子先生のお母さんは、肺がんを患って約1年後に召されました。闘病生活をしているとき、義理の母は、夜が怖いと感じていたそうです。ところが、ある晩、母は夢を見ました。白い衣を着たイエス様が母のベッドのすぐ横に立っていたそうです。夢の中のイエス様は母に何かをしゃべったわけでもありません。しかし、その夢を見た母は本当に喜んでいました。夢を見たからと言って、母の病状が良くなった訳ではありません。呼吸の苦しさは相変わらず続いていました。しかし、状況は変わらなくても、主イエスがともにいる確信、これが母を強くしました。母は、私たちに言いました。「もう、わたしは夜が怖くありません。イエス様がいっしょにおられることがはっきりと分かったので、何も怖くありません。」わたしも、そのような夢を見たいなと思います。しかし、夢をみようと見まいと、主イエスは世の終わりまでいつも私たちとともにいると約束しておられます。これが、クリスチャンの一番の特権です。

 主イエスは、ご自身を私たちに差し出すために、栄光に満ちた神の場所を離れて、罪とけがれに満ちたこの世に来てくださいました。私たちが主イエスを食べるようにと、ご自身を差し出すために来られたのです。そして、今も、主イエスは私たちに語っておられます。「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」主イエスは私たちを招いておられます。あなたも主イエスを信じて、主イエスとともに永遠のいのちに向かって生きて行きませんか。

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