2020年8月2日 『いのちのパンイエス 3』(ヨハネ6章60-71節) | 説教      

2020年8月2日 『いのちのパンイエス 3』(ヨハネ6章60-71節)

 ヨハネの福音書6章は、26節から71節まで主イエスの説教が延々と続いています。主イエスは、長い説教の中で何度も繰り返して、「自分は天から下って来た永遠のいのちを与えるパンである。」と言われたのですが、聞いている群衆やイエスに反感を抱いているユダヤ人たちの心には、なかなかそのメッセージが届きません。今でも、主イエスのメッセージに対して、3種類の応答が見られます。第一に、ある人は主イエスの教えを聞いて激しく怒って強く反対します。イエスの時代、最悪の反応は、イエスの教えを悪霊による教えだと主張する人たちでした。二番目に、イエスの教えを聞いて感動してすぐに信じるのですが、信仰が深く根差していない人々がいます。このような人々は、主イエスの奇跡に驚き、その教えに感動して、イエスをすぐに信じるのですが、彼らの信仰が非常に薄っぺらいために、イエスの教えに従うことは結構大変なことだと感じたり、犠牲を払わなければならない時もあることを知ると、あっさり、イエスの信仰を捨ててイエスから離れて行ってしまいます。そして、3番目は本当にイエスを救い主と信じる信仰を持つ人々です。彼らは、主イエスを生ける神の御子キリストであることを堅く信じ、信仰生活で大変なことがあっても、耐え忍んで主イエスについていく本当の弟子たちです。ヨハネの6章では、主イエスが自分は天から下って来たいのちのパンだと言われましたが、この主イエスのメッセージに対しても、し人々の反応はこの3種類に分けられます。今日は、特に、薄っぺらい信仰者の反応と本当の信仰者の反応を比べて、私たちは、自分の信仰がどっちなのか、一人一人がもう一度自分の信仰を点検する時にしたいと思います。

(1)偽りの弟子の反応(60-66節)
 60節を読みましょう。「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。』ここで「弟子たち」と言われていますが、これは、イエスが選んだ12弟子のことではなく、イエスの奇跡と教えに感動して、イエスに弟子入りしたいと思っていたユダヤ人たちを指しています。さきほど述べた2番目のグループの人々です。この弟子たちは、イエスが行われた奇跡を見て、イエスが与えてくれたバンを食べて、このイエスこそローマ帝国をやっつけてくれる救い主だと思った人々でした。彼らは、主イエスを救い主だと思っていました。ところが、主イエスが「自分は天から下って来たいのちのパンである」と言われたこと、また、イエスを信じなければ永遠のいのちは与えられないと言われたことに対して不満を抱きました。彼らが求めていたのは自分たちの生活を変えてくれる救い主、ローマ帝国を倒してくれる力強い救い主でした。彼らは永遠のいのちにはほとんど関心がありませんでした。彼らは、イエスと一緒にいると自分にとって何か得なものが手に入ると思っていましたが、主イエスが、自分たちにイエスの言葉に従うことを要求しているのを知って、イエスを信じることは、結構面倒臭いことなんだと思い始めていました。それで、60節に記されているように、彼らは「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」と文句を言い始めたのです。今の時代でも、多くの人々は、彼らと同じような反応を示すのではないでしょうか。主イエスが、いつでも病気を癒してくれる方、ただで食べ物を与えてくれる方なのであれば、多くの人は主イエスについて行きます。しかし、主イエスが、私たちの心の罪を指摘し、私たちに自分の罪を悔い改めるように求めていること、イエスを信じなければ永遠のいのちは与えられないこと知ったとたんに、多くの人は主イエスに従っていくことをやめてしまいます。
 主イエスは、全知全能の神です。人々が心の中で何を考えているのかすべて見抜いておられました。イエスは、彼らの心の思いを知って、次のように言われました。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たらどうなるのか。」わたしの話とは、「人は主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲まなければいのちはない」というイエスの話です。それは、言い換えると、主イエス・キリストが私たちの身代わりになって罪の罰を受けるために十字架にかかられたことを信じるという意味です。このことを信じることができない人は、主イエスが十字架にかけられて死んで、三日目に復活され、そして、それから40日後に天に帰られるのを見た時に、主イエスを信じるのだろうかという意味でした。65節のイエスの言葉を見ると、彼らは、イエスを天から下って来た救い主とは信じなかったことが明らかです。彼らは、イエスの本当の弟子ではなく、ただ単に、イエスのそばにいれば何か得なことがあるとついて来ていただけの者たちでした。この時、主イエスは、あえて少し厳しい口調で彼らに語っておられます。それは、本当に主イエスを信じる決意を持っている人々と間違った理由でイエスを追いかけている人々を区別するためでした。イエスを追いかけていた人々は、彼に政治的なリーダーを求めていたかもしれません、ローマへの反乱を起こしてほしいと思っていたかもしれません。あるいはイエスの素晴らしい教えに引き付けられていたのかも知れません。このような考えは、主イエスを信じる信仰に導くきっかけにはなりますが、主イエスを信じるためにはそこでとどまっていては不十分です。自分の罪を悔い改めて、これからはイエスの教えに従って生きて行くことを決断しなければなりません。
 63節で主イエスは次のように言われました。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは霊であり、またいのちです。」イエスの教えを聞いていたユダヤ人たちは、その言葉の霊的な内容、霊的な意味を理解することができませんでした。イエスの教えを人間的に、あるいは肉的に理解しようとても、人には何の益にもならないと主は言われました。主イエスの言葉は神の霊によって語られた言葉です。だから、イエスの霊的な言葉は、霊的に理解しないとその意味が分からないのです。人間的解釈、肉的理解というのは、もともと、私たちが持っているこの世的な願望とか人間的な野心などが根底にありますので、イエスの教えを正しく理解することができないので、何の益にもならないのです。イエスの教えを理解するためには、また、聖書の言葉を理解するためには、聖霊の助けが必要です。私たちが聖書を読む時も、「このみ言葉の意味がよく分かるように助けてください。」と祈って読むことが大切です。そうしないと、私たちは、イエスの言葉を自分の願いや欲望に合わせるように解釈する危険があるからです。
 64節で、主イエスは、人々の中で信じない者が誰か、自分を裏切る者が誰か、初めから知っておられたと書かれています。全知全能の神ですから、すべて知っておられたのです。主イエスは、イスカリオテのユダが自分を裏切ることを知っていながら、弟子として受け入れ、いつも自分の近くにいることを許して、弟子たちの働きにいつも彼を加えておられました。主イエスは70節でも、「わたしがあなたがた12人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちのひとりは悪魔です。」と言われました。この時、主イエスは「裏切る者はイスカリオテのユダだ」と彼を名指しして、この言葉を言わずに、その人は悪魔の支配を受けていると言われました。それは、イスカリオテのユダを切り捨てるのではなく、彼が悔い改めるように導こうとしておられたからです。このように主イエスは、最後まで、ユダが心を変わることを願って、彼に愛を表し続けたのですが、ユダはそれを最後まで受け取ろうとしませんでした。そして、65節で言われたイエスの言葉は、44節45節で言われた言葉の繰り返しです。ここで、主イエスは、もう一度、私たちが主イエスを信じる信仰を持つことができるのは、天の父なる神様の選びと導きによるものであることを断言しておられます。私たちは、自分の努力によって信仰を持つようになったと考えがちですが、実は、そうではなく、神様が私たちを選び、忍耐をもって導き、私たちの心に働きかけてくださったから、私たちは信仰を持つようになったのです。そして、父なる神様は、私たちが信仰から離れないように、羊飼いが羊を守るように、守ってくださることを約束しておられます。私たちは、いつも霊的な目が開かれ、み言葉の約束を本当に確信し、自分のものとして受け入れ続けなければなりません。

(2)本当の弟子の反応(66-71節)
 イエスが実際に神の子として働いていた時に、すでに、多くの人がイエスから離れて行きました。5つのパンと2匹の魚の奇跡を体験した時には、多くの人がイエスの弟子になろう思っていましたが、主イエスが十字架のこと、罪のことなどを説教されると、彼らはついて行けずに、イエスから離れて行ってしまいました。しかし、主イエスが選ばれた12人の弟子たちは、誰もイエスから離れて行かなかったようです。そこで、主イエスは彼らに質問されました。「あなたがたも離れて行きたいのですか。」これは、主イエスが、12人が離れて行った人々と違って、これからもイエスの弟子として生きる決意持っていることを願って訪ねられた質問でした。この時もいつものように、最初に答えたのはペテロでした。ペテロは言いました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」これは、素晴らしい信仰告白です。ペテロは、イエスに向かって「主よ」と呼び掛けています。人間社会では、主人の反対は召使いです。私たちは、神様の前には自分が召使いのような者であることを覚えておかなければなりません。人間の主人には横暴な人が多いかもしれませんが、神様は善良な主人です。ただ、私たちは、主である神様に仕える者であることを忘れてはなりません。また、ペテロは、「私たちはだれのところに行けるでしょうか。」と告白しています。それは、ペテロは、自分の罪の問題を解決できるのはイエスしかいないことを確信していたからです。聖書は、人は一度死ぬことと死んだ後、神の裁きを受けることが定まっていると教えています。私たちはどんなに努力しても、神様が要求する正しさのレベルに達することはできません。イエス・キリストを信じない者は、死んだ後、永遠の滅び、苦しみの世界に落とされなければなりませんが、自分の罪を認め、主イエスの十字架の死は私のための身代わりの死であったことを認めて、イエスを救い主と信じるなら、私たちの罪がどんなに大きなものであっても赦されます。そして、主イエスを信じる人は永遠のいのちが与えられて、死んだ後は、神様とともに永遠に平安と祝福の中で生き続けるのです。このことを確信していれば、私たちは、主イエスから離れることはできません。そして、ペテロは、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と主イエスに向かって告白しています。つまり、主イエスだけが、私たちに永遠のいのちを与える権威を持っていると告白しているのです。先週亡くなられた澤山邦男さんは享年74歳でした。いろいろな病気を抱えていたために、非常に早い死でした。しかし、澤山兄は、今は、晩年経験していた肉体的な様々な弱さからすっかり解放されて、主とともにパラダイスで永遠の平安を味わっておられます。もし、私たちに永遠のいのちの約束がなかったなら、私たちにとって死はどれほど恐ろしいものでしょう。しかし感謝なことに、私たちは希望的観測ではなく、聖書が保証する永遠のいのちを持っているので、死を恐れる必要はありません。
 この告白の中で、ペテロは69節で「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と言っています。細かいことですが、神様を信じることと神様を知ることの順番に注意してほしいと思います。彼は、「主イエスのことを知って、信じています」とは言っていません。「主イエスを信じて、そして知っています。」と言っています。もちろん、イエスを信じるためにはある程度、イエスのことを知っていなければなりません。しかし、多くの人が、イエスについてあれこれ調べたりして、イエスのことを全部知ってからでないとイエスを信じることはできないと考えています。私たちは、イエスのことを全部知ることはできません。ある時点で、このイエスは信頼しても大丈夫だなと思ったら、イエスを信頼してイエスとともに生きることを決断するのです。それが信仰です。そして、イエスを信じて生きる生活を始めると、今まで知らなかったイエスのことをもっともっと知るようになるのです。主イエスを信じることは、誰かを信頼することと同じです。誰かを信頼するようになる場合、しばらく付き合ってみて、その人の言葉や行動を見て、私たちは、その人が信頼できる人かできない人かを判断します。主イエスに対しても同じです。聖書を読んだり、メッセージを聞いたりして、どこかで私たちは判断する時が来ます。主イエスは神として信頼できるかどうかが分かります。その時、主イエスについてすべてのことを分かっているなどありえません。主イエスは全能の神、永遠の神ですから、私たちの小さな頭では絶対に完全に理解はできないのです。主イエスはあなたを選び、あなたを今日まで導いてこられました。主イエスはあなたのために十字架にかかって死んでくださいました。主イエスはあなたのために、天国に場所を用意してくだったのです。あなたは、主イエスをどのように見ておられますか。あなたは主イエスを信頼して、イエスの弟子としてイエスとともに生きて行きませんか?

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