2020年8月16日 『わたしはあなたとともにいる』(ハガイ1章9-15節) | 説教      

2020年8月16日 『わたしはあなたとともにいる』(ハガイ1章9-15節)

 今日の、メッセージに入る前に、皆さんに報告をしなければならないことがあります。実は、先週8月9日の午後5時に、私たちの教会の最初のメンバーである浪井崇兄が召されました。私は7月の終わりごろに、浪井姉から崇兄のいのちがあと1か月ぐらいということを聞いていました。38年前に崇君が脳腫瘍を患った時に受けた放射線治療が原因で30以上経ってから新しい脳腫瘍ができたことが原因でした。これまでも奇跡的に癒されてきた崇兄だったので、もう一度神様が癒してくださるようにと祈っていましたが、今回、神様は崇兄のいのちをお取りになりました。今、崇君の目に見えないいのちはパラダイスに移されて、神様のそばで、彼が長年戦ってきた病や体の障害のすべてから解放されて、永遠の休息の中に入れられています。崇君のことを知らない人もいると思いますので、彼のことを紹介したいと思います。彼は浪井家の長男で、今年の7月に48歳になったばかりでした。彼が10歳の時に、重い脳腫瘍にかかり、もういのちはないと言われていました。そのころ浪井姉は、石黒妙子先生が自宅で開かれていた家庭集会に通っていて、そこに集まっていた婦人たちが崇君の病気の癒しを求めて熱心に祈りを捧げ、ある時は断食して祈っていました。そんな中、崇君は家庭集会で聖書を教えてくださっていた柳田牧師から信仰に導かれ、ベッドで洗礼を受けました。1982年12月12日のことです。その後、多くの人々の祈りが答えられて、崇君は奇跡的に癒されました。このことがきっかけとなって、石黒妙子先生の家庭集会に集まっていた婦人たちが中心になり、崇君が通える教会を持ちたいという思いが強まり、翌年1983年の3月6日に、南福音診療所の和室で、北本福音キリスト教会の第1回目の礼拝が始まりました。その日には、崇君を含めて6人の人が教会の会員に加わり、同時にその日、浪井弘子姉や江藤幹子姉を含む6人の方が洗礼を受けて、私たちの教会は12名でスタートしました。
 私が大阪から北本に引っ越して来たのは1987年ですが、その時、崇君は中学生でした。私たち夫婦は教会学校の中学クラスを担当するようになったので、クラスで教えたり、時には生徒たちに家に遊びに来てもらったりしていました。一番記憶に残っているのは、昭和天皇がなくなって、平成という年号が発表される日に、たまたま崇君を含めて中学生クラスの子どもたちが私たちのアパートに遊びに来ていて、テレビで、「平成」という年号が発表された時に、崇君や他の子どもたちが一斉に「ダサい」と叫んだことです。崇君はいつもちょっと冷めた感じで物を言い、私が関西風のギャグで突っ込んでもいつも相手にはしてもらえませんでした。そこはちょっと残念でした。11日の火曜日、ほぼ家族と親族のみでの葬儀を行いました。出席者も少なかったので、葬儀のスタイルをちょっと変えて、集まった人たちで崇君の思い出を語る時に時間を取りました。そこでいろいろな人の思い出話を聞くことができましたが、ある方が、「きっと崇君はこの教会が生まれるために神様から送られてきた天使だと思う。」と言われていました。私は、その言葉を聞いて、改めて、崇君は、この教会の土台をつくるために選ばれていたのだなと確信しました。もし、彼が10歳の時に脳腫瘍にならなかったら、もしかするとこの教会は生まれていなかったかもしれないからです。

 イエス様がある時こういう言葉を言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」一粒の麦は、そのまま食べれば、それで終わりです。しかし、その一粒を畑に蒔くと、その麦は食べられなくなりますが、その麦から芽が出て、やがてたくさんの実を実らせます。そのことに例えて、主イエスはご自分の十字架について語られました。もし、イエスが、当時の人々が望んでいたように、彼らの王様になって人々のために良い働きをすれば、その時の一部の人々にとっては良かったでしょうが、それだけで終わりです。しかし、主が、私たちの身代わりとして十字架にかかって死んでくださったことによって、多くの人々が罪の裁きから救われる道が開かれました。しかも、その時代の人々だけでなく、それ以後の、すべての人々が救われるようになったのです。神様が主イエスに私たちの罪の刑罰のすべてを背負わせて、主イエスが犠牲になって十字架の刑罰を受けたことによって、私たちが罪の裁きを受けなくてもよいようになりました。崇君は、主イエスの働きとは違いますが、神様が崇君に脳腫瘍という病気を背負わされて、崇君が犠牲になったことによって、私たちの教会が生まれたのだと思います。もし、彼が脳腫瘍という病気にならなかったら、体の障害を持つことなく、もっといろいろなことができたでしょう。この世の人の目から見れば、もっと大きなこと、目立つことをすることができたかもしれません。でも、それは、一人の人間が一人の人生を歩んだということだけで終わります。しかし、彼が、脳腫瘍という大きな病気を背負ったことによって、ここに教会が生まれ、そこに多くの人々が導かれ、これまで多くの人々が主イエスと出会って新しい人生を歩み始めました。この教会からたくさんの恵みが流れ出ました。その意味で、崇君も一粒の麦になったと言えると思います。神様の目には崇兄が行ったことは最も尊い価値のあることです。私自身、この教会がなかったら、大阪から引っ越して来た時に、この教会に来ることなく、どこかの教会に通っていたでしょうし、牧師になることもなく、普通のクリスチャンとして生きていたと思います。崇君の存在は、私にとってもとても大切なものですが、今日、ここに集まっておられるすべての人にとっても重要な存在です。また、崇君は脳腫瘍を患ってから38年生きました。38年という年数も意味があるような気がします。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、神様が約束してくださった国に入るまで40年間荒野をさまようのですが、荒野をさまよっていた期間だけを考えると、申命記の2章14節には、「カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は38年であった。」と記されています。38年間の地上での生活は、崇君にとっては、神様がいつもともにおられましたが、大変なことも多かったのではないでしょうか。イスラエルの民が38年間さまよった後、約束の国に導きいれられたように、崇君も、神様から与えられた地上での使命を終えて、神様が約束してくださった天国へと導きいれてくださったように思うのです。私たちは、崇君との再会を待ち望みながら、この教会が与えられたことに感謝しつつ、天国を目指して歩み続けたいと思います。

ハガイ書に戻ります。もう一度ハガイ書が書かれた背景を簡単にお話しします。紀元6世紀、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、ほとんどのユダヤ人は強制的にバビロンに連れて行かれました。しかし約50年後に、神に選ばれた器であったペルシャ王キュロスがバビロンを滅ぼしました。そして、キュロス王は、ユダヤ人たちに「バビロンから祖国に戻り、破壊されてがれきになっていたエルサレムの神殿の再建工事に取り掛かるようにとの命令を出しました。またキュロス王は神殿再建に必要な資金や資材を提供することも約束しました。この命令を受けて約5万人のユダヤ人が祖国に帰り、エルサレムの神殿の再建工事をスタートさせました。紀元前536年のことです。しかし、隣の国のサマリヤ人たちの激しい妨害などにより、工事は6年後にストップして、それから10年間エルサレムの神殿はほったらかしになっていました。そこに現われたのが預言者のハガイでした。彼は、ユダヤ人たちが神の神殿を再建することよりも自分の家を建てることを優先していて、彼らが神様の御心に従っていないことを指摘しました。今日の箇所には、その時のハガイのメッセージを聞いたユダヤ人たちがどのように応答したのかということが記されています。

 12節を読みましょう。ハガイは、聖霊に満たされて、力強く神様からのメッセージを語りました。9節から11節にかかれているのは、帰って来たユダヤ人たちが、神様のことを第一にしないで、自分のことを第一にしていたために、神様からの祝福を受けることができなくなっていたことが記されています。10節の、天は露を滴らすのをやめ、地はその産物をだすのをやめた。と書かれているのを見ると、彼らは一生けん命に畑で働いていたのですが、良い収穫は得られなかったようです。さらに11節では、ユダヤ人たちの生活の必需品であった穀物、ぶどう酒、油なども、また人間も家畜も労苦の実も、すべてが、神様が与えた日照りのためにだめになり、大飢饉が起きていたのです。祖国に戻って来たユダヤ人たちの生活は、大変厳しいものであったことが分かります。そんな時に預言者ハガイが現れて神からのメッセージを伝えたので、ある者たちは、このような状況になった原因は自分たちが神様の御心に従わなかったことだと気づいて悔い改めました。ハガイのメッセージが彼らの心に突き刺さりました。12節では、彼らは「民の残りの者」と呼ばれています。残りの者というのは、彼らはいろいろな厳しい試練を経験したのですが、一部のユダヤ人のように神から離れて行かずに、神のもとに残っていたのでそのように呼ばれています。彼らは、厳しい試練を経験した時に神から離れずに、むしろ神からの試練を謙虚に受け止めて、自分の罪を悔い改め、神に新たな気持ちで従って行こうとして神のもとに残っていました。

 彼らは預言者ハガイの口をとおして語られた神様の言葉に2つの態度で応答しました。一つは、彼らは「主の御声とハガイの言葉に聞き従った」と書かれています。彼らは、神様の言葉を「アーメン」という気持ちで受け入れました。神様がみ言葉をもって私たちに語り掛けられるとき、神様が受け入れてくださる私たちの応答は一つしかありません。それは、従うことです。私たちは、神の言葉を聞いたときに、それをオプションの一つだと考えるのではなく、他に良い方法はないかなと考えるのでもなく、また、神の言葉に従うための条件を付けて神様と交渉するのでもなく、神様が言われることにそのまま従って、後のことは神様に委ねることが、神が喜ぶ応答なのです。この時、リーダーたちも、民の残りの者たちも、心を一つにして神の言葉に従うことを決断しました。彼らは、これまで神殿の再建のことをほったらかしにして自分の家や生活のことだけで生きてきたことを悔い改めて、もう一度神殿を再建する働きに加わることを誓ったのです。彼らがこのような決断を行ったのは、二つ目の応答によるものです。それは、「恐れ」です。12節の終わりに、「民は主の前で恐れた。」と記されています。彼らは、皆、神を信じていましたが、この世の状況などに心を奪われて、いつの間にか、正しい道から外れていることを知らされました。彼らは自分のう罪を認めたことによって、神の前で恐れを感じました。普通、恐れを感じることは心地よいものではありませんが、神様を恐れるとはどういう意味でしょうか。神様を恐れるとは、聖書の神様がどういう方であるのかを正しく認めることです。聖書の神様は聖なる方です。全能の神です。罪をさばく義なる方です。すべてのことを知っておられる方です。永遠に存在する神です。このような神様のご性質を認める時に、私たちが感じる気持ち、それが神を恐れる心です。詩篇25篇12-14章に「主を恐れる人」について次のように記されています。「主を恐れる人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。その人のたましいは、幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ぐ。主は、ご自分を恐れる者と親しく交わり、その契約をお知らせになる。」14節によると、神様は、神を恐れる者と親しく交わってくださいます。全知全能の主が私たちの親しい友であるとは、なんという特権でしょうか。ハガイの鋭いことばを聞くことによって、ユダヤ人たちの眠っていた信仰が目を覚ましました。

 ユダの人々が悔い改めたときにも、神様は、すぐに、ハガイをとおして、彼らに約束の言葉を伝えてくださいました。「わたしは、あなたがたとともにいるー主のことば。」神様の祝福と神様の臨在が、彼らの悔い改めと同時に彼らに戻って来たことを、神様は彼らに伝えられたのです。それまでのイスラエルの歴史の中でも大切な時ごとに、神様は「彼らとともにいる」ということを約束してくださいました。例えば、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出してシナイ山という山に来たときに、神様はモーセに十戒を与えて、イスラエルの民を全世界のあらゆる民族から神の民として選び、契約を結んでくださいました。ところが、モーセが山の頂上に上って神様から十戒をいただいた後、彼が山を下って来るのが遅れました。すると、ふもとで待っていたイスラエルの民は、モーセが下りてくるのを待ちきれなくて、勝手に金で子牛の像を造り、それを拝んでしまいました。イスラエルの民は偶像礼拝という大きな罪を犯したのです。そのため、神様はモーセに、イスラエルの民を約束の国に導いて行くことは導いて行くが、自分自身はいっしょには行かないと言われたのです。すると大きな恐れを感じたモーセは神様に強く迫りました。「もし、私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。」すると主は言われました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト33章14節)モーセは、これからイスラエルの民を率いて約束の国まで行くときに、神様がいっしょにいないと大変なことになると分かっていました。モーセは、これから荒野を旅する間、いつも神様がともにいて神の栄光が見えることを切に願いました。すると、神様はモーセの願いをかなえてくださり、イスラエルの民の只中で共にいることを約束してくださったのです。この約束は、今を生きるクリスチャンにも同じように与えられています。主イエスは弟子たちと別れて天に戻るときにこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」これは、キリストが天に戻られたら約束の助け主として信じる者一人一人の心に聖霊を送ると約束されたことにつながります。私たちが、主イエスを救い主と信じる時、私たちに与えられる約束は、その瞬間から、主イエスが聖霊として、私たちの助け主として、ともにおられるという約束です。この約束は、ハガイの時代のユダヤ人に対する約束よりも、はるかに優れた約束です。それは、ひとりひとりのクリスチャンの心の中に神ご自身が永遠にともにいてくださるという約束だからです。

 神のことばが二人のリーダーとユダの人々の心を動かしました。彼らは、ふたたび、エルサレムの神殿の再建工事に取り掛かりました。それは、預言者ハガイがメッセージを彼らに語ってから23日目の出来事でした。これは現在の9月に相当するのですが、9月はぶどうやいちじくの収穫で忙しい月です。しかし、神のことばに動かされた彼らは喜んで神殿の再建工事を再開しました。このことから、私たちが神様の御業を行うためには、主がともにおられることがどうしても必要だということが分かります。聖霊が私たちとともにおられるときに、はじめて、私たちが行う働きが実を結ぶのです。いつも聖霊が私たちのうちにいてくださることを意識しながら、私たちは、神に祈りつつ歩み続けたいと思います。

2020年8月
« 7月   9月 »
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教