2020年9月6日「神に愛される教会」 (黙示録3章7-18節) | 説教      

2020年9月6日「神に愛される教会」 (黙示録3章7-18節)

 黙示録の2,3章には、主イエスが当時アジア地方と呼ばれた地域、現在のトルコにあった7つの教会に宛てて書き送った手紙が記されています。今回は、最後から2番目のフィラデルフィアにあった教会への手紙を取り上げます。フィラデルフィアという町はアジア地方の西部、コロサイやエペソから比較的近い場所にありました。特に、この町は東西をつなぐ道路と南北をつなぐ道路が交差するところにありましたので、交通の要衝として非常に栄えていました。フィラデルフィアとは、ギリシャ語で「兄弟愛」という意味を持っています。この町は、紀元前2世紀に、ペルガモという国の王様が自分が敬愛する兄に捧げるために建てた町でしたので、その王様はこの町に「フィラデルフィア」という名前をつけました。手紙の内容から、フィラデルフィアの教会は小さな教会であったようです。黙示録の2章と3章で、主イエスはアジア地方にあった7つの教会に手紙を書き送っていますが、どの教会にも問題点があり、主イエスがその問題を取り上げて叱っています。ただ、例外的に、この教会だけは、イエスから非難されていません。小さな教会で、経済力も影響力も小さかったのですが、彼らは主イエスの教えを守り右にも左にもそれずに歩んでいたからだと思います。私たちも、主イエスに受け入れられ、愛される教会でありたいと思います。

(1)フィラデルフィアの教会に語り掛けるイエス
 そのフィラデルフィア教会に主イエスが語り掛けられました。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」主イエスはご自分のことを聖なる方、真実な方と呼んでおられます。私たちが信じている神様は聖なる神であり、真実の神です。主イエスが聖なる方であるとは、すなわちご自身が神であるという意味です。もともと「聖なる」という言葉は、神様のために特別に取り分けられたという意味を持っていました。主イエスは、性質においても、行いや言葉においても神そのものであることを示されました。主イエスに比べられるものはこの世には何一つ、誰一人ありません。また、聖なる方ですから世の中の罪を裁くべきお方でもあります。また。主イエスはご自身を「真実な方」と呼んでおられます。この世の中には様々な神がありますが、真実の神は主イエス・キリストお一人です。主イエスご自身が「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」と宣言されました。主は「私は真理を見つけた」とは言わず、私イコール真理であると宣言されました。神以外このようなことを言える人は一人もいません。また、主イエスが真実な方ですから、言葉と行いが常に一致しています。神様が約束されたことは必ずそのとおりに実現します。だからこそ、主イエスは信頼できるお方なのです。
 また、主イエスは「ダビデのカギを持っている」と言われました。カギは権威を表します。建物の入るためには、入口のカギを持っていなければ入ることはできません。その中に入る権威を持っている人がカギを持っています。黙示録1章17,18節で主はこう言われました。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」主イエスは死とハデスのカギを持っています。ハデスとは、主イエスを信じない人が死んだ後に送られる場所です。主イエスはすべての人を裁く権威と、信じない人々をハデスに送る権威を持っておられる方です。主イエスがドアを開けるなら、だれも閉じることはできません。また主イエスがドアを閉じるならだれも開けることができません。主イエスは、天においても地においてもすべての権威が与えられている方なのです。

(2)フィラデルフィアの教会への賞賛の言葉と約束
 その主イエスがフィラデルフィアの教会に向かって言われた言葉が8節に記されています。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」主イエスは、フィラデルフィアの教会の中に厳しく注意しなければならないような点を見出すことなく、教会に対して3つの点で褒めています。
第一に、この教会には少しばかりの力があることを認めておられます。おそらく、フィラデルフィアの教会は小さな教会であったでしょう。教会の評価は、よく、教会員の数や、礼拝出席の人数や、会堂の大きさによって決まります。しかし、それは人間的な見方であって神の見方ではありません。ルカ12章32節にこう書かれています。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」彼らの教会は小さな教会でしたが、フィラデルフィアの町の人々に大きな影響力を持っていたと思われます。第二に、この地域はエペソにあったアルテミス女神の神殿の影響を強く受けていたはずで、周囲からの迫害や反対は強かったに違いありません。それでも、彼らは自分たちの信仰を守り、主イエスの言葉を守り通しました。主イエスはそのような彼らの信仰姿勢をちゃんと見ておられたのです。第三に、彼らは、イエスの名を否定することをしませんでした。今でも、職場や近所づきあいで、クリスチャンであることが知られると不利になる場合や、のけ者にされる場合があります。当時の彼らもそのような状況であったと思いますが、彼らは、どんな場合でも、主イエスに対する信仰を否定することがありませんでした。
 彼らの信仰を見た主イエスは、彼らに素晴らしい3つのことを約束しておられます。第一に主イエスは「わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」と言われました。主イエスが開いてくださる門は救いの門です。フィラデルフィア教会のクリスチャンたちは、神の恵みのゆえに主イエスを信じる信仰によって救われました。そして、永遠のいのちが与えられました。彼らの救いは、主イエスが誰も閉じることのできない門を開いてくださることによって保証され、永遠のいのちに入れられていることを保証してくださっています。彼らが、地上においてどれほど困難な生活を強いられていたとしても、主イエスが彼らの永遠のいのちを守ってくださいました。2番目の約束は9節に記されています。「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」フィラデルフィア教会のクリスチャンたちは、主イエスを信じないユダヤ人たちから憎まれていました。彼らは、旧約聖書の教えを守っていると主張していましたが、実際には、かつてのパウロのように、クリスチャンを殺すこともやりかねない人々でした。割礼やお祭りなどの儀式には熱心でしたが、彼らの心は神から遠く離れていました。しかし、驚くことに、神様は、フィラデルフィア教会を迫害していたユダヤ人たちの中から、自分の罪に気づいて悔い改め、彼らの所に来て、そのことを謝罪し、救いに導かれる人が起こされると約束されました。3番目の約束は、10節に記されています。「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」ここで、「全世界に来ようとしている試練の時」というのが、将来の世の終わりの時の試練を指しているのか、フィラデルフィア教会が近い将来に経験する試練を指しているのか、それは不明ですが、いずれにせよ、主イエスが約束しておられることは、クリスチャンが苦しむ時、主がクリスチャンをどこまでも守り続けてくださるということです。

(3)キリストの命令とさらなる約束
 主イエスは、フィラデルフィア教会に素晴らしい約束を与えてくださいましたが、それは、10節に記されているように、彼らが、イエスの「忍耐しなさい」という言葉を守り通したからでした。主イエスは、彼らが途中でひるむことのないように、11節で、もう一度彼らに命じています。「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」主は、もう一度彼らに励ましを与えています。そして、彼らに「あなたの冠をだれにも奪われないように」と言われました。ここで、冠とは何を意味するのでしょうか。主イエスはスミルナという町にあった教会の人々には、「いのちの冠」を与えると約束しておられますので、ここでも、冠とは、信仰によって約束されている「永遠のいのち」を指していると思います。彼らに言われていることは「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい」という命令でした。最初に言いましたように、フィラデルフィア教会は小さな教会でした。しかし、彼らには一人一人神様から賜物や能力、それぞれの体験や信仰の成長が与えられていました。それは一人一人違います。神様は、私たちが皆同じ能力や賜物を発揮することを期待しておられるのではありません。多く与えられている人には多くの働きを期待し、少し与えられている人には少しの働きを期待しておられます。彼らに命じられていることは、彼らが持っているもの、彼らが神様から与えられているもの、それをしっかりと持ち続けることであり、それを、神様のために用いることでした。私たちの中に、神様から何も与えられていない人は一人もいません。神様から与えられているものを自分の利益や栄光のためではなく、今の力に応じて神様のために用いることを、私たちは求められています。
 私たちが、信仰をしっかり持ち続ける時、神様はさらなる約束を与えてくださいます。12節を読みましょう。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」第一の約束は、彼らを聖所の柱とすると言う約束です。古代の遺跡を多くは壁がなくなっていても柱は残っています。柱とは、不動のもの、揺り動かされないものを表しています。彼らは、神の聖所に永遠の居場所を与えることを約束しておられます。「彼はもはや外に出て行くことはない」と言われていますが、実は、フィラデルファイアの町は頻繁に地震が起きていて、そのたびに人々は街が崩れるのを恐れて郊外に逃げていました。しかし、天国においては、彼らは、二度とそのように外に出て行く必要はありません。信仰の勝利を得る者への第二の約束は、その人の上に神様が神の御名を書いてくださることです。その人に神の名前が書かれていることは、その人が神に属する人であることを示しています。私たちが自分の持ち物に名前を書くのと同じです。神様は、私たちを自分の子どもとしてしっかりと握りしめていてくださいます。親はどんなことがあっても子供を手放すことはしません。私たちは、力強い神様の腕にしっかりと抱かれているのです。第三の約束は、神様が私たちの上に「わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名」を書き記してくださることです。黙示録の21章に新しいエルサレムのことが詳しく書かれています。そこは、私たちが永遠に神様とともに生きる場所です。神様は、私たちが天国の国民であることを保証するために、新しいエルサレムの名を書き記してくださるのです。そして、最後に第四の約束は、神様が神様の新しい名前を私たちのうえに書き記してくださいます。ユダヤ人の考えでは、名前は単なる呼び名ではなく、その人そのものを表します。神様の新しい名前が書き記されることは、私たちが神様とまったく新しい関係に入ることを示しています。第1ヨハネ3章2節に次のような言葉が書かれています。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」私たちは、地上の生活においても神とともに生きていることを経験しますが、天国では、今とは全く違う姿で神とともに生きる者となります。私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 13節で、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」と言われています。キリストが7つの教会に宛てて書き送ったすべての手紙がこの言葉で締めくくられています。これらの7つの教会は、この世に存在する様々な教会の姿を現していると言えます。フィラデルファイの教会は忠実な教会でした。そのために、この教会には多くの約束が与えられています。私たちもフィラデルフィア教会を見習って、自分に与えられた少しばかりの力を働かせて、主イエスの言葉を守り、イエスの名を否定しないクリスチャンとして歩み続けて行きたいと思います。

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